7.眠りにつく黒薔薇の館
彼が目覚めると、そこは森のなかだった。
端から端へと焼けてゆく畑地、そして食い破られてゆく防衛陣が遠くに見える。
戦争の終わるまで、ここは人の住めるところではなくなるだろう。水車は炎を上げており、長いこと眺めていた光景は、こうしてあっさりと消えてしまう。
それを眺めていたイヴリンの元へと、ザリーシュは近づいてきた。振り返ると憔悴しきった顔、そして辺りを眺めて状況を理解しようとする様子が伺える。
そしてぽつりと、弱々しい声を漏らす。
「……いいさ、別に俺の領地じゃない。俺の生まれた国でもない。皆、勝手に死ねばいい」
そうつぶやき、ザリーシュはどすんと地面へ腰を下ろす。
おそるおそるイヴリンは彼へと声をかけた。
「これから、どうしたいの?」
「……もう飽き飽きだ、人の顔色を伺うのも、他人に運命をにぎられるのも」
そう言いながら、ザリーシュは地面の草を引きちぎる。
顔色は悪く、瞳は死を迎えたように暗い。ほうっておけば息絶えてしまいそうな気配に、イヴリンは心臓を掴まれる思いだった。
「くそっ、くそっ、誰も俺に正面から挑まないくせに! 腰抜けどもめ、そんなに策略が好きか! 見下しやがって、俺を、俺を……」
ぐうっ、と息を漏らし、肩をぶるぶると震わせる様子だ。
そっと彼を抱いたのだが、手荒くガツンと頬を殴られてしまう。気にせずもう一度抱くと……、今度は大人しくしてくれた。
「殺してやりたい……っ! 俺を殺そうとする奴らを、みな殺してやりたいっ!」
搾り出そうとする声に、ぼろりとイブは涙を流した。
しばらく離れていたうちに、彼の闇はより濃いものへと変わっていた。べったりと張り付き、以前の彼を見ることはもう出来ない。
長く生き続けていたいなら、心を殺すことだ。ダークエルフも彼も、それは変わらなかった。
ただ、それが残念で仕方ない。
彼はもともと優しい青年だったというのに。
それから2頭の馬を盗み、国境を越えるべく彼と移動をした。
気力の尽き果てた彼は大人しく従う。しかし鬱屈とした感情は、ぐつぐつと煮立ち続けるシチューを眺めているような嫌な感じを受ける。
だから度々、彼へ明るく話しかけてしまう。
「ずっと遠く、砂しかない国があるんだって。一緒に見にいかない?」
「…………」
「凄いだろうね。あ、この子は走れるのかな。焼けるように熱い砂らしいけど」
「ダークエルフ、黙れ」
イヴリンと、呼んでほしいな。
その願いが喉から出ることは無かった。
そしてある日、路銀も底をつきてしまう。
もう物々交換できるものなど無く、追っ手を考えると野生の獲物を追う時間も惜しい。
残されたのは物質化したファーストスキル、イヴリンの指輪しかない。
「あ、これ、近くの村で売ってくるから」
「……そうしろ、どうせ役に立たない代物だ」
愛の芽生えたとき、効果を表すファーストスキル。
これは一体なんだったのだろう。花開くことなく枯れるものを、どうして私は手にしたのだろう。
ぐずっと鼻が出て、視界はにじんでしまう。
馬の手綱を引いて村へと足を向けたとき、ザリーシュから呼び止められた。しかしそれは、指輪のことなどでは無い。
「いや、ダークエルフ、お前もそうだな。俺の情報を売りつける気だろう」
「え、なんで……、そんなことしないよ」
びくりと震えてしまう。敵を見るような目は、野獣のように恐ろしい。
しかしその震えで、彼は誤った確信をしてしまう。己の敵だと認識してしまったのだ。
グイと襟をつかまれ、地面へと押し倒された。
街道はすぐそこで、運しだいで声をあげれば誰か助けてくれるだろう。でもそれは、彼にとって良い結果にはならない。
だからもう、首を絞められてイヴリンは諦めた。生きることを。
ダークエルフとして生き、さげすまれて生き、そして恋をした男から殺される。
お似合いの死に様かもしれない。いや、名も知らぬ者から殺されるより、ずっとマシか。ただ、首を絞めてくる彼は、敵を見るような目をしているのがひどく悲しい。
悲しい、悲しい、彼もこのまま息絶えてしまうことが分かって悲しい。
赤くなってゆく視界のなか、最後の言葉は勝手に口から溢れてきた。
「ザリー、シュ……、さよ、なら、死な、ないで、幸せに、なって」
もうそれが全てだ。
この世界に、彼へ残す言葉は他に無い。
びくりと彼の手は震え、唐突に圧迫感は消え去った。
そして彼女の胸へと頭を押し付け、搾り出すように彼は泣く。
「うぐぅーーっ、イヴリンっ、ううーーっ!」
気絶しかけた状態で、はくはくと浅い息を繰り返し、それでも彼の頭を抱いた。
彼だけだった。優しく話してくれたのは彼だけだ。
大きな彼は子供のように泣き、熱い涙は垂れてくる。その体温さえ愛おしく、両腕でしっかりと彼を抱いた。
「俺の国が欲しいっ、うぐっ、俺だけの……!」
あたしだけは知っている。
彼はとても優しい人だ。怖がりで、己の刃に囲まれなければ逃げ出してしまう人だ。
約束を守り、燻製肉をくれる人だった。
誰もが忌み嫌うダークエルフを、木の下でずっと朝まで待っている人だ。
怖がりなのを気障なマスクに隠し、どうにか生き延びようとがんばる人だ。
そして、何年経ってもあたしの名前を忘れない人だ。
ぎゅうと抱いたとき、唐突に愛は目覚める。
輝きだした指輪へと、ザリーシュと一緒に目を見開いた。
「これ、は……?」
「あたしのファーストスキル、みたい」
金色の輝きは、彼女の純粋さが生み出したものかもしれない。
それは想い人を守るもの。主人として守護をするもの。
すべてをさらけだし、理解しあい、2人を1人へと変えるもの。
そのような効果が、このファーストスキルには芽生えたらしい。
指から抜き取ると、かちんと音を立てて指輪は上下に切り離された。
これはきっと本来の姿、恋人と繋がるための意味があるだろう。
「ね、ザリーシュ、ひとつあげる」
そうして彼の指へと対になる指輪は収まり、彼は本来の優しい性格へと戻る。
イヴリンの加護のもと、守られることで彼は心の平穏を取り戻す。
しかし、それは二面性を押さえつけていただけかもしれない。
それから長いこと平穏な時を、夢のような時を過ごしたが、裏側で彼の凶暴性は残り続けていた。
それはずっと昔の物語、忌み嫌われた廃皇子、そしてダークエルフの物語だ。
そして今へと繋がる物語でもある。
宝石の館へともたらされた物語は、こうして幕を閉じた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
きょろりと周囲を見回し、もう誰もいない食堂へ入る者がいた。
人気の無い暗がりで、男は食事や酒の残りは無いかと周囲を探る。
髪の毛はだいぶ薄く、皺だらけの身なりの悪い服装もどこか怪しげだ。
「うっ!」
しかし、ぱっと広間を明るく染められて男は驚きの顔を見せる。びくりと身を硬直させ、そして光の精霊を操る女性へと目を向ける。
そこには褐色の肌をしたダークエルフ、イブが立っていた。
「コズロフ、いままで隠れてたわけ?」
「ああー……、女の園に俺みたいなのが混じれねぇだろ」
むすりとした顔に、コズロフなる男は困った顔を浮かべた。
彼はザリーシュによる支配中、唯一指輪をつけていなかった者だ。
館にいる女性がどのような目にあったのか、そしてイヴリンへの仕打ちも全て目にしている。それだけに、彼女らから敵意を向けられるのは仕方ない。
「ほら、探してたのはこれでしょ? 葡萄酒を半分残しておいたから」
「おっと、ありがてえ! イブとは長い付き合いだったけど、ほんと良い女だよ」
そう言われても嬉しくは感じないらしく、微妙な顔をして男へ瓶を手渡した。
椅子を引いて互いに座り、男は葡萄酒へと口をつける。なかなか良い酒だったらしく、コズロフという男は目を丸くさせていた。
それから昔を思い浮かべてか、男は息を深々と吐く。
近くに残っていたグラスへと注ぎ、イヴリンへと差し出すのは相方として長年過ごしてきたせいかもしれない。
「あれだなぁ、随分と雰囲気が変わったな。楽しげな声は俺の部屋まで聞こえてきたぞ」
「うん、楽しかったよ。みんな生き生きしてて、これから迷宮で大活躍しちゃうかも」
ぐっとガッツポーズを取る様子に、男は頬へ深い皺を刻む。
いまの言葉はイヴリンへ向けてのものだったが、本人はまるで気づいていないらしい。艶のある肌といい、弾けるような笑みといい、魅力的すぎて頭をクラクラさせられる。
ザリーシュの支配が解けたことへ、そして彼を再び支配した彼女へ男は内心で驚嘆していた。立ちふさがるものを全て殺してきた化け物は、指輪が無くともコズロフを完全に支配するような者だったというのに。
酒気混じりの息を吐き、そしてコズロフは尋ねる。
「旦那はどうした?」
「ん、夜はしばらく納屋で寝るみたい。皆を怖がらせたくないからって」
少しだけ複雑そうな顔をするイヴリンに、男は「ふうん」と声を漏らす。
彼女の口ぶりから、どうやら命じずとも己で判断して行動している節があると分かる。以前の奴隷だった彼女らは、主人であるザリーシュの顔色を伺うだけだったというのに。
「はー、変わっちまったなぁ。まあいいけどさ、旦那もいつ死ぬか気がかりだったし」
彼はどこか破滅的な男だった。
それだけに葡萄酒を飲むイヴリンも否定しない。
「けどまあ、お前にも驚いたよ、イブ。指輪があろうと無かろうと、大して変わらないとはな」
「えへ、こう見えて純情派というか一途だったみたい。一生ね、付きまとっちゃうかも」
ぐふふと男はくぐもった笑いを浮かべた。
これほど魅力的な女性ならば是非とも一生、付きまとわれてみたいと思ったらしい。
そう考えると、支配されている時のほうが彼にとっては幸せかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「納屋へ向かうにしては、ずいぶんと身支度をしていますね」
玄関から出てゆこうとするザリーシュへ、声をかけるものがいた。
統主のプセリは、ぬうと闇のなかから現れる。黒薔薇のようにざわりと揺れる髪といい、皆と食事をしていたときとまるで雰囲気は異なる。
色素の薄いせいで、宵闇色の髪から覗く肌は浮き上がるようだ。
ザリーシュは分かっていたが、恐らくはこちら側が彼女の本性だろう。家族を殺された者として当然の感情を露にさせている。
殺気に満ちた瞳といい、すぐにでも仇敵として八つ裂きにしたいだろう。
しかしそうなると被害を受ける者もいる。彼を想い続けたダークエルフ、イヴリンは立ち直れない傷を抱え、きっと館から立ち去ってしまう。
宝石のように大事な皆を守るため、心にある傷を隠す女性――それがプセリ・ブラックローズという統主だ。
「プセリ様、これから責務を果たして参ります」
そう伝えると、彼女は少しだけ息を呑む。
彼はこれから、己のした罪を告白しに城へと向かうと告げたのだ。犯した罪を考えると、それはきっと良い結果にはならないだろう。
「……それはイブから命令されたのです?」
「いえ、そうしたほうが良いだろうと思いまして。皆にとっても俺にとっても」
しばし2人は見つめあう。
いまは危険な状態だろうとプセリも認識している。己だけでなく他の皆もイヴリンを気づかっており、いつ破裂するか分からない状況だ。
そのなかで彼だけは最善の道に気づいたらしい。
同時に少しだけ、小指の先ほどの量にすぎないが、プセリの胸中も晴れるものがあった。彼は以前のザリーシュとは確かに異なるのだと認識したのかもしれない。
「ご一緒しますわ。夜道に殿方を一人で歩かせられません」
「それは逆なのでは? あ、もちろん嫌では、ありませんよ」
ぎくしゃくと強張る彼へ並び立つ。
秘密裏に進めていた隣国との作戦は、恐らく大きな衝撃を国へと与えるだろう。
しかしそれにしては彼らの歩調に乱れは無い。
この苦難を乗り越えたとき、ようやくダイヤモンド隊は結成するのかもしれない。
実りある果実を得るのはずっと先、気の遠くなるほどの時が必要だ。
その第一歩として、2人は夜道を歩いてゆく。
―― ダイヤモンド隊の再結成 END ――