5.イヴリンとザリーシュの過去②
腫れぼったいまぶたで白む空を見上げ、大きな息をひとつ吐く。そして忘れていたことを思い出した。
「報酬、受け取り忘れた……」
依頼をこなしたというのに、結局は嫌な思いをさせられただけか。
疲れ果て、ぼーっとした頭で樹を降りてゆく。宿した精霊のおかげで四肢は力強く、数回ほど枝を飛び移るだけで地面へ辿り着ける。
すとりと動物的な着地をし、同時に褐色色の肩は大きく跳ねた。すぐ背後へと、何者かの気配を感じ取ったのだ。
「あーーっ、待ってくれ!」
びゅんと短刀を振りぬく間際、どうにか首元でそれは止まってくれた。安堵しつつ、見覚えのある顔へイヴリンは目を見開く。
なぜか彼は右腕を押さえつけており、ビキビキと血管を浮かせているのだが……。昨夜、山賊から襲い掛かかられ、剣を振ることなくなぎ倒した、あの不可解な技能と関係あるだろうか。
「ザリー、シュ……なんでここに……」
「いや、謝りたくて追ったんだが、さすがにこの高さでは無理だ。ああ、やっぱり泣いていたか」
ごりごりと短い金髪を掻き、それから頭を下げてきた。もし従者らも一緒であったなら、彼の態度に目を丸くしただろう。腕前と共に自尊心は日々高まり、扱いづらい者として認識されていたのだ。
いや、従者を無理やり先に帰らせていたのは、この姿を見られない為か。
「ほら、給金は俺から足してある」
「え、これを渡しに来たわけ?」
ずいと目前へ向けられたのは、だいぶ膨らんだ皮袋だ。とはいえ、そう言い渡されるこちらとしては複雑極まりない。
「いらないし……、ここに居たなら声をかければ良かったのに」
「あ? そんなの無理だろ。木の上からお前の……いや、なんでもない。多めに払ったんだ、帰り道くらいは案内してくれ」
どこか不機嫌そうに皮袋を投げつけてくるのは、どうも昨夜の彼とは異なるように見える。
張り付いたようなあの笑みよりは、イヴリンにとって接しやすいものだが。それに背中を見せて歩き出す様子は、とてもダークエルフへ怯えるものではない。
不思議に思いつつ、彼の背へと声をかけた。
「そっちは逆。案内するからついてきて」
こうして2人、白じむ山道を歩くことになった。
道中、いくつか彼は自分のことを教えてくれる。高貴な血を継いでいるものの、事情により王位からは絶望的に遠いこと。だから戦場で評価されるため、己を鍛えているらしい。
「え、それで山賊を襲ったわけ?」
「まあな、実戦が一番いい。何が起こるか決まっている訓練なんかより、ずっと役立つさ」
そう言いながら、あぶりたての燻製肉を彼は頬張る。
昨夜の約束を覚えていたらしく、半分はイヴリンも同じものを手にしている。しかし、彼のような高貴な者と食事を共にするなど思いもしなかった。
「自分の領地を守るために戦うとか、かっこいいなと思ってたのに」
「表向きはそうだが……、そんなものじゃあ、ない」
いちおうと勇気を出して褒めたのだが、彼は自嘲気味に笑う。そして苛立ちを表すようブチンと肉を食いちぎった。
過ごす時を重ねるたび、彼の影は色濃くにじみ出てくる。
恵まれた境遇、そして剣の腕を持っているのに何故、という疑問は幾つも浮かぶ。思えばこれが初めてだったかもしれない。人間に興味を持つ、ということは。
試しにかじった燻製肉は塩だらけで辛かった。
坂を下りると、昨夜の場所へ馬は残っていた。
近くにある焚き火の跡は、恐らく従者たちが朝までいたのだろう。
「じゃあ、ここまでだな。案内してくれて助かった」
「あ、ううん、あたしこそお金を多めにもらって……。あの、さ」
つないでいた紐を外し、彼は振り返る。
「なんか、ザリーシュって、最初の印象はひどかったけどさ、着飾ってないほうが良いなと思ったよ」
「はは、なんだそれは。あれでも評判の良い顔をしているつもりだったけどな」
彼の手は少しだけ止まる。何かを考え、そしてイヴリンへ正面から向き合う。
「俺は、ダークエルフとあまり変わらない。疎まれ、嫌われ、恐れられているからな。だから、久しぶりにまともな会話をできた気がする」
そう言い、照れ隠しのように彼は馬へとまたがった。
どうして彼が疎まれ、嫌われているのか気になりはするけれど、もう会話できる時間は残り少ないだろう。
だから、もう何十年も使っていなかった言葉を彼へと伝える。
「あ、あた、あたしも、その、楽しかったよ。ありがと、ザリーシュ」
「またな、イヴリン。夜を迎えるたび、君の名と顔を俺は思い浮かべよう」
最後には気障ったらしい台詞を、ウィンクと共に彼は吐く。
しかしこのとき、心臓へどきゅりと突き立つのを彼女は自覚する。慌ててローブを顔まで隠したけれど、たぶんきっと見抜かれたに違いない。
むすりと不機嫌そうに見つめるなか、彼の背中は遠ざかってしまう。
この日、ダークエルフは恋をした。
それまで何かに追われるよう、幾つもの地を転々としていた。
しかし、あちこちの光景を思い浮かべられるほど、イヴリンはこの地へ長く滞在することになる。彼が何者なのか気になるし、彼の領地からは離れがたい魅力を覚えてしまう。
大きな水車が見どころだろう。
畑へとたっぷり川の水を送り、ごろごろと規則正しく回る光景は長いこと眺めていられる。畑地の色が変わることさえ、季節を感じ取れるものへいつしか変わる。
そしてひとり夢を見る。いつもの夢だ。
影を落とす青年は、イヴリンが声をかけたときだけ素の顔を見せてくれる。時間をかければ、ゆっくりと彼の影は消えてゆくように思えた。
これは夢だ。でも、もうこれ以上はいらない。
身分も種族も至らないあたしは、肩を並べて歩いた記憶だけあればいい。
あの日、胸へと落ちてきた熱量は、一体何だったのだろう。
心臓へと触れてきた感覚は、まるで身体へと宝石が入りこんだようだ。そう、いくつものカットにより輝きを生む、ダイヤモンドに近しい。
折りしもレベル30を迎えた夜のこと、胸の奥にある何かが息づく感覚をイヴリンは覚える。熱量のたっぷりつまったそれは物質化し、輝きを生み、そして草の寝床へと転がり落ちた。
子を産んだあとのような満足感を覚え、汗をかきながら目覚めると……。
「え、なにこれ、指、輪……?」
黄金色の輝きと、中央へと光る純度の高い透明の宝石。
まだ誰にも触れられたことも無いのか傷ひとつ無く、手に触れてみるとずしりと重い。
簡易キャンプから身を起こし、慌てて周囲を見ても……足跡は無い。それから思い出したようステータス画面を開き、ようやく新たな技能であることを知った。
――純愛の果実。
むにっと頬をつまんだが痛くはない。いや、やっぱり痛い。
少々混乱させられたのは、なにやらダークエルフに似合わない夢物語のような名前であり、ふと浮かべてしまった男の顔に、頭をぶんぶん振って赤い頬をごまかした。
まあ、誰もいないのだし、ウェーブがかった長い金髪へと枯葉を絡ませただけなのだが。うーっ、と悔しそうな赤い顔をし、イヴリンは身を起こす。
ステータス画面による簡易的な説明によると、愛の芽生えたときアイテムの効力は決まるらしい。だからまだ、輝きを眺めて楽しむことしかできない。
――愛って、なんだろ。
ごろりと寝床で転がり、白じんだ空へと指輪をかざす。
念願のファーストスキルを獲得したけれど、残念なことに何の効果も無いらしい。ただ自分にはそれが合っているようにも思える。誰とも触れ合うこともなく、ただひっそりと暮らし続ける者らしい、あやふやな技能だ。
青い空の下、それは定められていたように薬指へすぽりと収まった。
愛とは何だろうか。
指輪にはどのような効果があるだろう。
半年が経ち、その2つの疑問は解消された。
ただしそれは、決して望ましいことではない、悪夢に近いものだったが。