4.イヴリンとザリーシュの過去①
少女はある日、目覚めてしまう。
宵の明星へと手をかざし、空から降りてくる何かへ触れたことは、きっと生涯忘れないだろう。
それは手へとまとわりつき、ちょんちょんと撫でるよう触れてくる。名も無き精霊は、どこか巣に適しているか探る鳥のように、ゆっくり時間をかけてイヴリンを吟味する。
やがて合格したらしく、精霊は額からそっと吸い込まれていった。
「わあ……」
変化はすぐに起きる。
感覚はより鋭敏に、瞳に映る景色は昼間のよう、そして全身には活力を与えられた。見る間に肌の色はより濃いものへと変わり、しかし少女にとっては「良いこと」として感じ取れ、高揚感に胸を高鳴らせてしまう。
こうして精霊は心身へと宿り、海辺に住むエルフはダークエルフへと種族名を変えることになった。
つまりは適正だったのだ。決して普通のエルフには行えない、精霊を身に宿すという出来事は。
神通力という言葉が近いかもしれない。
生まれたばかりの精霊はひどく不安定で、そのまま消えてしまうことも多い。精霊は住処をイヴリンに定め、代わりに力を授けた。
ある者は魔術に通じ、またある者は決して操れぬ精霊さえ使役する。ではイヴリンはというと、類まれな肉体を手にする事になった。
しかしダークエルフは過去の逸話により、曰く堕落した者、曰く神から呪われた者、などとさげすまれてしまう。それは魔と人の争い、魔人戦争の際に裏切りをした者から続いている。
イヴリンなる少女がそれを知ったのは、里へ戻ったときだった。
希少が故に理解はされず、同族からも家族からも見放されることになる。
唐突に、ひとりで生きる道だけが示された。
それからしばらく先までのことを、彼女は未だにちゃんと思い出せない。
この日もそうなる予感はあった。
夜半、目元以外を闇色のローブで包んだイヴリンは、道案内の依頼者と待ち合わせていた。決して夜行性などでは無いのだが、近ごろはもう夜にばかり行動している。
さげすみの目には、結局のところ慣れることは出来なかった。
いや、多少は慣れたのだが、それと共に心を荒ませてしまう。これ以上、心まで殺してしまいたくないというのが正直なところか。
夜の行動に長け、そして見知らぬ地であろうと森で迷うことはない。探し人や道案内などで、わずかな日銭を稼ぐ日々だ。
さて、夜露に濡れて待ち続けていると、木々の隙間からランプの光が見えた。
今夜の依頼主、確か名は――ザリーシュと言ったか。10代半ばというのに共をつけ、立派な馬へまたがる姿に、ほんの少しだけ身をすくませてしまう。
勇気を出して大木から身を現し、どふどふと荒い息づかいをする馬へ向けて手を上げた。
馬から降ろし森への案内をしているうち、ザリーシュ、そして共の者達は簡単な自己紹介をしてくれた。
近くの領主の元におり、この地域を安全にするため彼らは山賊の根城を調べているらしい。
酔狂なことだと思う。
高い身分ならば部下へ任せ、家で休んでいれば良いものを。そして全身をローブで隠す者へそれを語るなど。
目元まで深々と顔を覆ってはいるが、声を聞けば女性であるとすぐ分かる。話しかけてきたのは、きっとそれが理由だろう。あるいはランプさえ消した暗い夜道に怯えていたせいか。
「それで、君の名は?」
がさりと藪を抜け、彼はしつこく名を聞いてくる。
少しだけ驚いたのは、やや早足で進んでいるというのに、従者らと異なり息を乱していないことか。
足取りも油断の無いものであり、相当鍛えているという印象だ。
「……それを教えたら報酬は増えるのか?」
「さあな。ただし俺の食事を半分やっても構わんぞ」
そう言い、気障ったらしく片目をつぶってくる。
何故だろう、男からは違和感を覚えてしまう。先ほどの返答からは、まるで報酬を管理しているのはザリーシュではないという風に聞こえてしまう。
それに顔立ちは整っているのに、笑みは張り付いたようで胡散臭い。
「うるさいから教えてやる。あたしの名はイヴリンだ」
「イヴリン、イヴリン……女性らしい良い響きだ。もし君の顔を見せてくれたなら、寝床でいつも思い浮かべられるのだが?」
あからさまに呆れの息を吐くと、男は肩をすくめ、それを見た従者らは苦笑する。
くだらない、と思う。肌の色、それに長耳を見せれば彼の態度など簡単に引っくり返るだろうに。そして距離を置き、今宵の仕事を終えればもう忘れてしまうに違いない。
やや乱暴に、イヴリンは夜道を歩き続けた。
「さて約束だ。素顔を見せてもらおうか」
ぽかんとしてしまう。
まさか冗談で言ったというのに。従者も連れず、1人で山賊を成敗したら素顔を見せるなどという約束を、いったい誰が実行すると思う?
動けぬ者らを従者らは縛りつけており、その最中、彼から不意に顔を寄せられる。
――近い。息も届きそうな距離に、イヴリンは身をすくませてしまう。これほどの距離で他者と会話した記憶はしばらくない。
おびえをどう捉えたか、ザリーシュは顎を指でこする。わずかに思案をすると、何かに気づいたよう笑みを浮かべてきた。
「ああ、そういう事か。俺は17だが、女性に不自由はしていない。ただ、名だけでなく顔までこの胸へ刻みたいだけだ」
「……いいけど、忘れてくれたほうが嬉しい」
不満と困惑により、いじけたような声になってしまった。
どうせこれきりだ。2度と会うことは無い。嫌なのは、相手が身をすくませることだ。そしてわずかに半歩遠ざかり……そう、いま彼がしたような強張った顔、恐れと敵意を見なければならないことだ。
これがずっと脳裏にへばりつく。
しばらく経てば薄まるが、また嫌な記憶は次から次へと刻まれる。
「あはっ、もうウンザリ……」
「お、おい、待てっ!」
駆け出した。
脳裏へと浮かぶ今までに出会った者たちの顔、顔、顔。
嫌な記憶を追い払うよう、真っ黒な森へと駆けてゆく。
ダークエルフの忌み嫌われる理由が分かったかもしれない。
今ならば、決して手を染めなかった悪行へと踏み出せそうだ。こうしてまた悪い感情を人々へ与え、呪いのように負の連鎖はずっと続く。
大樹へと登り、誰にも見つからない枝へと辿り着いてから、ようやくイヴリンは声を立てずに泣いた。
ちゃんと泣きたい、声をあげて泣きたい、でないと胸のなかまで真っ黒くなりそうだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
過去への回想は乱れ、ぱたりと水滴は褐色の肌へと落ちる。
「あり……?」
いつの間にか硬くにぎりしめていた手へ、上から重ねるものがあった。鈍い輝きを見せる黄金色の指輪、そして男らしい指から包まれ、じんわりと体温は伝わってくる。
ちょっと今は……、顔を上げたら見られてしまう。
鼻は垂れそうだし、汚らしい泣き顔を皆に見られてしまう。
けどちょっとだけ、彼の目を見たい。
涼しげな蒼色をした彼の瞳を。
ちらりと上目遣いで眺めると、彼の瞳は待っている。
思っていたよりずっとそば、息も届くほどの距離に驚き、すこしだけ涙は引っ込んだ。そして昔のように優しく囁きかけてくれる。
「すまなかった、あの時は動揺していたんだ。父をダークエルフに討たれていたからな」
「それ、初耳……。言ってくれれば良かったのに」
彼は少しだけズルい。
言葉ではなく態度で示すときがある。
こうしてあと少しという所まで唇を寄せ、あたしの言葉を封じてしまう。いつもは怖がりで情けないくせに、こういう時だけ男らしい。
鼻が出そうでひくひくするけど、半開きの口へと……。
「皆さん、5秒ほど盲目訓練をいたしますわ。総員、開始!」
プセリの命令により皆はババッと両手で目をふさぎ、そんな様子へ慌ててしまう。そういえば皆から知られているのだし、たったの5秒でどうしろと。それよりも、半数くらいは指のあいだから眺めているのだが!?
わたわたしていると、おとがいを指に添えられ上向かされてしまう。
あー、ヤバい。ぷちゃりと音を立てるその口づけは、たぶん夢に見るくらい理想的だ。
ほんの少しだけ舐めあい、何度でも受けたい訓練を終えると共に、あたしの涙は引っ込んだ。ついでに鼻も引っ込めば良かったのに。
宝石たちの夜、イブとザリーシュの過去は、もうすこしだけ続くらしい。