37_それは、犬も食わないやつという
【前回までのあらすじ】
魔王城の者は、病気になると魔王様から逃げ隠れします。
バレると滅茶苦茶苦い薬を無理やり飲まされるので。
わたしが告げ口するから、所詮は無駄なあがきなのですが。
町の方角に戻ってみれば、途中で旦那様を発見しました。
トットットッと、小走りに夜の草原を駆けています。
星明りの下、その進路に迷いはありません。
ふむ、やっぱり奥様のいる森を目指していますね。
どうして奥様の居場所が分かるのでしょうか。
痕跡など無いはずなのに、正しい方角へまっしぐらです。
不思議ですが、旦那様なら当然という気もしてしまいます。
ともあれ、わたしは監視の役目を果たしましょうか。
◆
「もーこうなったら、力尽くで追い返すぞ!」
旦那様の接近を察知すると、奥様は戦術魔法の展開を始めました。
「まあまあ、そう短絡的にならずに。まずは話し合いを」
「そなたに短絡的などといわれるのは不本意極まりないが、答えは否だ!」
奥様が、断固とした態度で宣言します。
「もはや言葉は無用! 余は旦那様と全面対決する!」
それってつまり、夫婦喧嘩ですよね?
無駄に覇気をみなぎらせて言うことじゃないと思うのですが。
「奥様、わたしは旦那様の様子を見張ります」
「うん? そうか? まあ、よかろう」
よかろう、じゃないですよ、まったく。
本当は、旦那様が心配で心配でしょうがないくせに。
奥様の背後には、治療中の蛮族が横たわっています。
疫病の疑いがある患者に近付けまいと必死なのでしょう。
まるで毛を逆立てる母ネコみたいですね、うちの奥様は。
そんな訳で、わたしは旦那様を追跡中です。
不測の事態に備えて、すぐに駆け付けられる距離を保ちました。
『奥様、こちらは配置に着きました』
応答がありません。旦那様を迎え撃つ準備に忙しいのでしょうか。
ですが実際のところ、どうするつもりなのやら。
力尽くなどと言っていましたが、どうせ口先ばかりのくせに。
そんなことを考えていたら、空間の鳴動を感知しました。
奥様の魔法が世界の一角を切り取り、改変したのです。
《魔法使いの戦場》
魔力によって、あらゆる事象を操ることができる領域。
万の軍勢を迎え撃つために編み出された魔法です。
……たかが夫婦喧嘩に、大袈裟すぎやしませんか?
不意に、夜空から地表に光が射しました。
異変に気付いたのか、旦那様も頭上を仰ぎ見ます。
黒い幔幕のような夜空に、鋭い裂け目が生じていました。
そこから光が射し込み、青味を帯びた氷塊をぬっと吐き出します。
氷塊は地表へと落下し、ズシンと重い地響きが轟きました。
旦那様から一〇歩先の地面、そこに突き刺さった氷塊を目測します。
民家など簡単に圧し潰しそうな、巨大な氷のかたまりでした。
どこか別の空間につなぎ、氷塊を切り出して落としたのでしょう。
『なに考えてんですか奥さま――――!?』
どういうつもりですか! いくらなんでもやり過ぎです!
もうちょっとで旦那様ペチャンコでしたよ!!
あ、ちょ、ちょっと旦那様! 待ちなさい!!
なんで何事もなかったみたいに先に進むのですか!?
わたしが慌てている最中に、ズバズバと夜空に裂け目が生じます。
出現した何十もの巨大な氷塊が、夜空から次々と降り注ぎました。
『奥さま! 返事してください! 奥さま!!』
何度呼び掛けても、奥様からの応答がありません。
氷塊の落下は止むことなく、衝撃で地面を激しく揺らしました。
巨石群みたいに林立する氷塊の間を、旦那様が走り続けます。
旦那様のすぐ近くに氷塊が落下するたびに、ひやりとしました。
すぐに何とかしなくてはいけないと、気ばかり焦ります。
刻一刻を争う状況、なのに有効な打開策が思いつかない。
いっそ直撃しそうな氷塊を消し飛ばすか、旦那様を抱えて避難するか。
いずれにしても、わたしの存在が明らかになってしまうでしょう。
それでも、旦那様の命には代えられません。
わたしが覚悟を決めた時、ふと疑念を抱きました。
こんなにも大量の氷塊が、地形が変わるほど降り注いでいるのです。
既に一回や二回ぐらい、ぷちっと潰されていてもおかしくないのでは?
二回目はないでしょうが。
未だに旦那様が無事なのは、単なる偶然なのでしょうか。
改めて観察しても、回避行動をしている様子はうかがえません。
ふらふらと、右に左に進路がふらついてはいます。
でもそれは、落下する氷塊を避けての行動ではないのです。
右に逸れた先で、ごく至近距離に氷塊が落下しても、まったく動じる気配がありません。
これは度胸が良いとか無鉄砲とか、そういう問題でしょうか?
漠然とした違和感を覚えると、ピタリと氷塊の落下が止みました。
夜空の裂け目が閉じ、地上に落ちていた氷塊が幻のように掻き消えます。
地面は穴だらけですが、後片付けは奥様にやってもらいましょう。
どうやら終わったらしいと安心すると、奥様からの念話が届きました。
『やはりな。手加減しては、足止めにもならんか』
悔しさのにじんだ奥様の思念に、つい切れてしまいました。
『どこがですか! これのどこが手加減――――』
そこで、ハタと思い出しました。
気が動転して、すっかり忘れていたのです。
旦那様が、魔王ヘリオスローザ陛下を一騎打ちで破った聖騎士であることを。
魔力が制限された《魔法使いローズ》では、太刀打ちできるはずがありません。
『だが、まだだ! まだ、これからだ!!』
ええっ!? まだやる気ですか!!
既に旦那様は、奥様がいる森を遠目に臨む場所に迫っています。
その進路上に、突如として炎の柱が立ち昇りました。
『まだ負けておらん!!』
轟々と音を立てて渦巻く炎の柱が、次に捩じれて収束します。
やがて炎は巨人の姿となり、火の粉混じりの雄叫びを上げました。
奥様、本来の目的を忘れていませんか?
まさか、神霊を召喚してしまうなんて。
外観から推定される神齢は一〇〇周期前後、神格としては赤子同然です。
それでも荒ぶる神霊は、並みの人族にとっては天災に等しいでしょう。
でも半ば予想通り、旦那様の足は止まりません。
神霊の背後にある森に向かって、真っすぐに進み続けました。
……これは、どう判断すべきなのでしょうか。
単なる無謀な突進なのか、はたまた勝算あっての行動なのか。
魔王様を打ち破った武威が健在なら、なんの問題もありません。
ですが旦那様には一騎打ちの後遺症があると、奥様は語りました。
そのせいで、かつての強さを失っているとも。
後遺症とは、どの程度のことを意味しているのか。
現在の旦那様は、下位とはいえ神霊を退けることが可能なのか。
そもそも今の旦那様は丸腰、武器の類を持っていないのです。
『本当によろしいのですか、奥様?』
『…………』
返事はありませんが、張り詰めた感情が窺えます。
『承知しました。わたしは手出ししませんよ?』
『…………』
無言を貫く奥様。やれやれ、困った方ですね。
旦那様の速度が、徐々に上がっていきます。
炎の神霊が両手を振りかぶり、威嚇しました。
その頭上に発生した炎の円環は、攻撃の前兆でしょうか。
高速で回転を始める炎の円環、無謀とも思える突進を続ける旦那様。
そして沈黙したままの奥様。
もう、なんでも構いません。
わたしは次元門を潜り、神霊の背後に飛び出しました。
手出しをしないといったのは、もちろん嘘です。
万が一のことがあれば、後悔するのは奥様なのですから。
炎の神霊の中枢を見極め、狙いを定めました。
再生させる暇もなく、一瞬で切り刻んでやりましょう。
完全に夫婦喧嘩のとばっちりなので、気の毒には思います。
わたしが居合わせたのが不運だと観念し、元の場所に戻りなさい。
神霊はバラバラに――その寸前で消失しました。
わたしではありません。奥様が送還したのです。
どうせこうなるだろうと思っていたので、すぐさま気配を消しました。
神霊がいた場所を、旦那様は特に何事もなく走り抜けます。
そして地面に大きく開いた縦穴に、ぴゅーと落ちていきました。
◆
「わたし、伝えましたよね? ちゃんと家で待っていてほしいと」
奥様は落とし穴の縁に立ち、下に向かって声を掛けます。
どれだけ深く掘ったのか、穴底が暗くて見通せません。
『こんな単純な罠に引っ掛かるなんて……』
『余もビックリだ……』
奥様自身も、引っ掛かれば儲けもの、ぐらいのつもりだったようです。
二人の意地の張り合いは、結局奥様が引き下がりました。
ですが奥様が用意していた落とし穴に、旦那様が嵌まったのです。
勝負は痛み分けという感じでしょうか。
「どうして言うことを聞いてくれないんですか!」
ここぞとばかりに、奥様は穴に向かって憤懣をぶちまけました。
よほど腹に据えかねたのか、次々と悪態を投げ込みます。
やがて、ひょっとこりと旦那様が落とし穴から這い上がりました。
奥様の前に立つと、悪びれた様子もなく口を開きました。
「心配だから」
ひぅっと、息を呑む奥様。
胸に手を当てて呼吸を整えると、剣呑な目付きで旦那様を睨みます。
「だから説明したじゃないですか! 魔族が罹る病気じゃないって!」
うんうんと頷く旦那様は、神妙な面持ちです。
「ローズがいうのだから、その通りなのだろうね」
「だったら、どうして!」
「それでも、心配だから」
さも当然とばかりに、旦那様が答えました。
奥様はぎゅっと拳を握り、ぷるぷると肩を震わせると、
「ほんとっ! ほんとうにっ!! あなたって人はもうっ!!」
とうとう我慢の限界に達し、ドスドスと地面を踏み付けます。
『良かったですね、奥様? 旦那様に心配してもらえて』
『うるさいうるさいうるさああ――い!!』
奥様は真っ赤に上気した顔を、両手で隠してしまいました。
奥様は魔王領において、絶対強者として君臨しています。
多くの者が畏怖の念を抱いても、その身を案じるなど思いもよらないはず。
それが魔王という存在であり、だから余計になのでしょう。
滅多にない経験に、奥様は混乱してしまいました。
嬉しいやら恥ずかしいやら、でも簡単にほだされる自分が悔しいやら。
奥様はウーとかワーとか、わき上がる叫びを掌で押さえ続けました。
「患者に会わせてくれないか?」
しばらくして奥様が落ち着きを取り戻すと、旦那様は頼みました。
しかめっ面になりはしましたが、しぶしぶ奥様が頷きます。
『よろしいのですか?』
『……良くはない。だが、聖騎士としての知見は参考になる』
すっかり諦めてしまった奥様が、肩を落としました。
治癒術を得意とする聖騎士は、身体の構造や病気に詳しいでしょう。
そういう理屈で、自分を納得させたみたいです。
奥様は踵を返すと、蛮族のいる森の奥へと歩き出そうとして、
――ぐるんっと、後ろに向き直りました。
大きく見開いた眼には、感情の色が見えません。
旦那様ににじり寄り、顔を突き合わせてクンクンと鼻を鳴らします。
「…………旦那様、お酒、呑みましたね?」
地の底から響くような声音で、言葉を区切って強調します。
「うん? ああ、さっきちょっとだけ」
「……………………酔っぱらって、ますよね?」
旦那様は、ふにゃりと笑って手を振り、
「よってないよってない」
ヒックと、しゃっくりを漏らしました。
「えーと、こっちだね?」
「ちょっと待ってください! 待ちなさい! こら待て!」
襟首を掴まれても、旦那様の足は止まりません。
ずるずると奥様を引きずりながら、森の奥へと進みました。
『どういうことですか?』
『旦那様、めちゃくちゃ酒に弱いのだ! 一口で泥酔するぐらいに!』
旦那様が下戸?
『しかもあまり表情に出ないので、余計にたちが悪い!』
『そういえば、家で呑んだことありませんね』
意外でした。そんな弱点が旦那様にあるとは。
…………ちょっと待ってください。
もしかして先程の無謀な行動は、ぜんぶ酒の勢いだったと?
奥様は手足を絡めて羽交い絞めにしましたが、無駄でした。
奥様を背負うような格好で、旦那様は森の奥に到着します。
横たわる蛮族の側に片膝をつくと、顔を覗き込みました。
「気分はどうだい?」
旦那様が問い掛けると、蛮族は喉で唸るような言葉を発しました。
すると旦那様も同じような唸り声で応えます。
いつの間にか会話を始めた二人に、奥様が驚きました。
「蛮族の言語を知っているのですか!?」
「うん。昔、彼らの居留地で世話になったことがあって」
旦那様はこともなげに答えると、背負った奥様に尋ねます。
「ローズ、毒消しの薬はあるかな?」
「えっ? 毒消しですか?」
「話を聞いてみると、どうも食用と間違えて毒キノコを食べたみたいだ」
戸惑う奥様に、旦那様はキノコの名称を挙げました。
「症状が疫病に似ているから、勘違いしても仕方ないよ」
「…………すごく、良く効く、薬があります」
奥様が陰気きわまりない声で答えます。
「さすがローズ、いつも頼りになるね」
たぶん、それは優しい慰めの言葉だったのでしょう。
『良かった、疫病でなく本当に良かったのだが…………』
奥様が、旦那様の背中に顔を押し付けます。
「もっごもごもー!!」
旦那様の肩を、奥様が八つ当たり気味に叩きます。
弾みで旦那様が、しゃっくりしました。
【次回のよこく】予約掲載設定:来週_2024/11/05_火曜日 PM12:10
『38_奥様をダメにする魔法』
こういう不純な動機が、魔法を進化させる原動力となる場合も。
いや、やっぱりダメでしょ。




