01_わたしが見守る魔王な奥様の復讐_前篇
魔王様の名前はヘリオスローザ。
そして聖騎士の名前はユリエス。
最強の二人は戦場で一騎討ちをし、激闘の末に勝敗を決しました。
そうして魔王様は――――
奥様になったのでした。
◆
「あなた、ねえ、あなた?」
ある晴れた日の朝、奥様はベッドで眠りこける旦那様を起こそうとしていました。
「あなた、早く起きてください。御勤めに遅れますよ!」
ようやく昇ったばかりの朝の陽が、開け放たれた窓から射し込みます。
奥様の黄金の髪と新緑の瞳が、陽の光を反射してきらきらと輝きました。
「今日は大事な式典があると仰っていたじゃありませんか、遅刻しても知りませんよ!」
知りませんよと言いつつ、奥様は律儀に布団ごと揺さぶり続けます。
しかし旦那様は、布団にくるまって徹底抗戦の構えでした。
業を煮やした奥様が、足を踏ん張り腰を落とします。
そのまま両手を突っ張り、布団ごと旦那様をベッド脇の壁に叩きつけました。
ドンッという衝突音と共に、跳ね返る旦那様の身体。
それを再び突き飛ばし、壁に叩きつける容赦のない連続攻撃。
しかし旦那様は執拗に布団にくるまり、起きる様子がありません。
何がそこまで旦那様を頑なにさせるのでしょうか。どう考えても目が覚めているはずです。
いえ、ひょっとすると壁に叩きつけられた衝撃で、気を失っているのでは?
「もうっ!」
唇を尖らせた奥様は、数歩後ずさりして肩から突進しました。
もはや当初の目的を忘れた、一撃必殺のタックルです。
あわや両者激突! という瞬間、いきなり布団がめくれあがりました。
投網が獲物を一網打尽にするように、広げられた布団が奥様に覆い被さりました。
「きゃあああ――――!?」
布団に捕らわれてジタバタともがく奥様を、旦那様が押さえ込みます。
ベッドの上でしばらく暴れていた御二人の動きが、次第に大人しくなりました。
そして、くぐもった奥様の悲鳴も、艶めいたものに変わっていきます。
――――朝っぱらから何をされているのでしょうか、この御二人は。
◆
「…………いってらっしゃいませ」
朝食を終えた旦那様の身支度を整えると、奥様は玄関まで見送りに出ました。
鞘に収めた剣を旦那様に渡します。家の外まで奥様が剣を運ぶのが、結婚以来の習慣です。
ですが今朝の奥様は不機嫌で、そっぽを向きながら乱暴に剣を突き出しました。
「まだ怒っているの?」
「あたりまえです。早朝からあんなことを――――」
そこまで言い掛けた奥様が、顔を真っ赤にします。
そんな奥様を、旦那様は困ったように、でも愛おしげに見詰めました。
「ごめん、悪かった」
「…………本当に悪かったと思っていますか?」
「思ってる思ってる」
「反省が感じられません!」
ぴしゃりと叱られた旦那様が、気まずそうに頬を掻きます。
「どうしたら許してくれるのかなあ」
「…………誠意を示せば、許してあげます」
はて? と旦那様が首を捻りました。奥様は黙ったまま、上目使いで睨み続けます。
やがて旦那様は、ああと納得顔になり、そっと奥様を抱き寄せました。
そのまま接吻です。
腰と背に腕を回された奥様が、うっとりと目を閉じました。
やがてどちらともなく身を離し、見詰め合う御二人。
「それじゃ行ってくるよ、ローズ」
「いってらっしゃいませ、旦那様」
旦那様は背を向けると、王城へと歩いて行きました。
奥様が手を振って見送りますが、旦那様が後ろを振り返ることはありません。
やがて旦那様の背中が見えなくなると、奥様は冷やかに笑いました。
「…………フッ、他愛もない」
「何がでございましょうか?」
わたしが声を掛けると、奥様がビクッと肩を震わせました。どうやら驚いたみたいです。
さもありなん、わたしの気配遮断は他者の追随を許しませんから。
「旦那様のことに決まっておる。あやつを手玉にとるなど造作もないこと」
ですが奥様は、何事もなかったように髪を掻きあげます。
魔族特有の、先の尖った耳が露わになりました。
「もはや旦那様は余の虜。最強の魔王である余の魅力に心奪われておるな!」
自信満々に宣言しますが、傍から拝見すると真逆なような気も?
「では、いよいよ決行ですか?」
「…………まだだ。かつて、あやつに与えられた屈辱には、まだ足りん」
奥様が、ぎりりっと歯を食いしばります。
その双眸には、かつて王国を恐怖に陥れた覇者の気迫がみなぎっております。
「さらに余の魅力に溺れさせてから、復讐を遂げてやる」
三年前、人族が主流の王国と魔王領の間で、戦争が勃発しました。
異種族の排斥政策を採択した王国に対し、魔王である奥様が宣戦布告したのです。
魔王様の圧倒的な魔法の前に、戦う前から恐れをなして後退する王国軍。
破竹の勢いで諸都市を陥落させた魔王様は、ついに王都を臨む平原で決戦を迎えました。
その時、魔王様の前に一人の男が立ちはだかったのです。
男の名はユリエス。王国最強、大陸随一と名高い聖騎士です。
その武威の凄まじさは、魔王軍八旗将のうち三柱をたやすく退けるほどでした。
そして祖国の命運を賭け、魔王様に一騎打ちを挑んだのです。
魔王様は聖騎士の挑戦を受け、被害が及ばぬようにと軍を後退させました。
戦いの帰趨を決する一騎討ちで、いったい何があったのか。
詳しいことを知る者は、当事者である御二人しかおりません。
ですが、周囲の地形を変えるほどの激闘の末、魔王様が敗れたのは事実のようです。
その後、聖騎士の働きかけにより、魔王領と王国との間に停戦交渉が行われました。
魔王様が軍勢を下げる代わりに、王国は異種族排斥の政策を撤回する。
これを条件に、両者の間に和平条約が結ばれました。
その一年後のことです、魔王様が魔王領を飛び出したのは。
魔王様は正体を隠したまま王国に潜入し、聖騎士と再会しました。
魔族の魔法使い、ローズを名乗った魔王様と、王国最強の聖騎士ユリエス。
やがて御二人は、なんやかやあった末に結婚をされ、今年で二年目を迎えます。
何のために結婚したのか魔王様、いえ奥様の胸の内は存じません。
ですが奥様は常々、こう語ります。
――――全ては、復讐のために。
魔王の身で国を留守にして、かつての仇敵の妻となる。
そうまでして晴らそうとしている復讐とは、いったい如何なることなのでしょうか。
正々堂々の一騎打ちで敗れたことを遺恨に思うほど、奥様が狭量な方とも思えません。
ではなぜ? どうして? 疑問が尽きることはありません。
あの決戦の場で、いったい何が起きたのでしょうか?
それはさておき、いまの奥様は一介の専業主婦です。
「では奥様、今日はこれからいかがなさいますか?」
「知れたこと。見よ、雲一つないこの蒼穹を!」
わたしがお尋ねすると、奥様は腰に手を当て天に指差します。
「東の空より昇る太陽の輝きを見よ! 遥か南海よりこの地に渡ってきた風を感じよ!」
魔族の兵士達を奮い立たせた大音声が、ご近所迷惑に響き渡ります。
「これらの事象が、余の成すべき事を示しておる!」
「まさか、アレですか?」
得意になっている奥様に、適当に合わせます。
「そう、今日は絶好の洗濯日和である!」
どうだといわんばかりに、奥様は豊かな胸を張ります。
「黄ばんだ襟元よ! 今日こそ余が開発した禁呪、怨素漂白術の威力で消えうせるがいい!」
なぜ洗濯ごときで、これほど威風堂々としなければならないのでしょうか?
「…………奥様? どうかなさいました?」
不意に声を掛けられ、奥様が硬直します。
恐る恐る振り返れば、そこにはお隣の若奥さんが。
「あ、あら? おはようございます」
「あの、何か叫ばれていたようですが…………」
「お恥ずかしい。ちょっと独り言のつもりが、つい声が大きくなってしまったみたいで」
おほほと、奥様は口に手を当てて誤魔化します。
「良いお天気なので、溜まっていた洗濯物を片付けようと気合を入れておりましたの」
「ああ、このところあいにくの天気でしたものね。そういえば聞きました? 先日の町内会で」
そのまま井戸端会議に突入です。すっかりご近所付き合いに馴染んだ奥様です。
(それでは奥様、わたしはこれにて。)
気配を絶ったまま、奥様に念話で忠告します。
(そうそう、防音魔法を張らずに朝から盛るのはお控えください。近所迷惑ですよ?)
びくんと、全身を震わせる奥様。
「どうかなさいました?」
「い、いえっ!? なんでもありませんの!」
慌てた奥様は声が裏返り、首筋から耳まで真っ赤になります。
奥様の足元の影が、わたしを捕らえようとスルスルと伸びてきました。
触手のような影を躱し、旦那様を追って王城へと飛び立ちました。
◆
この王国には、一人の王女がおります。
その名をルクレーシア。今日は彼女の成人の儀が執り行われます。
王族の成人の儀となれば、近隣諸国からも賓客を招くのが普通なはず。
ところが今回参加するのは、国内貴族ばかりのようです。
それでもまあ、それなりに豪華な式典にはなるでしょう。
登城する貴族と家臣の群れを眼下に、わたしは王城へ潜入しました。
わたしは日常の務めとして、旦那様の護衛を命じられています。
城内で陰から旦那様を見守り、危害が及ぶことがあれば密かにお助けするのがお役目です。
というのは建前で、おそらく旦那様の浮気監視が目的でしょう。
しかし今日は城内が混雑して、旦那様がなかなか見つかりません。
式典の警備に駆り出されたのか、いつもの詰め所にも姿がありませんでした。
場内をうろうろ探している内に、どうやら式典が始まる刻限になったようです。
人の流れに紛れ、わたしも移動しました。
貴族がずらりと居並ぶ謁見の間で、旦那様を発見しました。
一段高い席には国王が、その傍らには今日の主役である王女の姿が見えます。
その二人を警護する位置に、旦那様は佇んでいました。
白銀の鎧に、白地に青い文様を染め抜かれたサーコート。
ヘルムを被っていないので、素顔が晒されたままです。容貌は普通? だと思います。
魔王を退けた救国の聖騎士となれば、さぞや類まれなる美丈夫であろうと想像するのが人情でしょう。
まあ、好みはそれぞれです。
うちの奥様が旦那様の愚痴をこぼす時など、顔だけは魅力的なロクデナシと罵りますから。
不平だか惚気だか、わたしには分かりかねますが。
王女ルクレーシアは、芳紀十六歳。国一番の美貌と謳われているようです。
正直、さほどの美しさとは思えません。少なくとも、奥様よりは一段も二段も劣るでしょう。
次々に拝謁し、祝辞を述べる貴族相手に、王女は優雅に応えました。
まあ、その辺は奥様や魔王領の面々よりだいぶマシなようです。
なにしろ奥様の成人式の時は、それはそれはひどい有様でしたから。
礼儀の欠片もない魔族が奥様の美貌に魅了され、次々と求婚を始めたのです。
――我を欲するならば、力を以って奪ってみよ!
奥様の壮語に、大乱戦が勃発しました。
一斉に襲い掛かる上級魔族一〇〇人と奥様の大激闘に、魔王城全体が震撼しました。
そしてわたしが助太刀するまでもなく、奥様の完全勝利となったのです。
剣で、魔法で挑んでくる魔族を、ちぎっては投げちぎっては投げの大活躍。
求婚魔族一〇〇人を叩き伏せた奥様の勇姿に、先代陛下はいたく感服。
その場で奥様に玉座をお譲りになられました。
あまりにも電撃的なこの事件は、長く魔王領で語り継がれることとなったのです。
それが、奥様の不幸の始まり。
政治的に見れば、魔族は奥様の武威に心服し、その後の統治は盤石になりました。
ですが個人として、女性としての奥様は…………
もの思いに耽っている内に式典は進み、やがて国王と王女が退出しました。
これで午前の部は終わりのようです。護衛である旦那様も、国王達に付き従いました。
長い廊下を曲がりくねって進むうちに、目的の場所が王族専用の休憩室だと分かりました。
毎日王城に出入りして旦那様を監視、もとい陰から護衛しているので簡単に推測できます。
「護衛、大儀であった」
休憩室に到着すると、国王は王女と並んで豪華なソファーに座り、旦那様を労いました。
その周囲には数人の大臣が控えていますが、これは珍しいことです。
この休憩室は、王族と護衛以外はめったに立ち入ることがないのです。
旦那様は一礼し、壁際に退こうとしました。
「待て、そなたに話がある」
国王が呼び止めると、旦那様は跪いて次の言葉を待ちます。
「ルクレーシアも成人の儀を迎えたからには、婚姻を考えねばならぬ」
まあ、そうでしょう。なにしろ王女ですから。
思い返せばこの王女、今まで婚約すら決められていませんでした。
「そこでな、ルクレーシアをそなたに降嫁させることにした」
――――なんですと?
「陛下? わたしには妻がおりますが?」
国王の発言に、旦那様が当惑したような声を上げます。
「ああ、たしか魔族の女であったな?」
国王が、いま思い出したという風を装っていますが、白々しいにも程があります。
聖騎士である旦那様と、魔族である奥様の結婚は当時、相当な物議を醸したのですから。
国王だって忘れるはずがありません。
「とても立派な奥方だと聞き及んでいます」
そこにルクレーシア王女が口を挟みました。
「わたくしもその方に代わり、精一杯尽くしたいと思います」
随分と健気な台詞ですが、奥様の代わりとほざきましたね?
「ユリエス、この婚姻は陛下のご下命ですが、わたくしはとても嬉しく思います」
さらにルクレーシア王女が言葉を連ねます。
「忠義に厚く、国のために戦ってきたそなたを、わたくしは幼い頃より慕っておりましたから」
顔を真っ赤にして告白する王女。周りの大臣達も、めでたいめでたいと祝いの言葉を口にします。
「その魔族の女には、そちからよく因果を含めておくのだぞ」
なるほど、そういうことですか。
旦那様は俯き、その表情は読めません。跪いた格好のまま、微動だにしません。
(すぐに戻れ!)
旦那様がなんと答えるのか見守っていた時、奥様から念話が届きました。
(緊急事態だ!)
わたしは後ろ髪を引かれる思いで、王城を飛び立ちました。
「遅いぞ!! 何をしていたのだ!」
家に戻るなり、奥様に叱責されました。
何をって、いつも通り旦那様の監視、もとい護衛を務めていたのですが?
「奥様、ご報告が――――」
「後にしろ! 魔王城から緊急の念話があったのだ、すぐに転移門を開け!」
たいそう焦った様子で、奥様が命じました。
「魔王領の軍勢が、王国との国境を目指しているのだ!」