1章 4 『少女と猫』
――とある廃墟の塀の上に白い一匹の猫がいました。
そこは原っぱがうっそうと茂った場所で、丘の上に廃墟がありました。猫はその塀の上にいました。
白い猫は原っぱを眺めます。身動き一つせず、廃墟と化した塀の上で一歩たりとも動きません。
原っぱでは白いちょうがひらひらと飛んでいます。草原は爽やかな風になびいています。その垣根を越えてそこに息づいていた蟻が先へ進みます。
働きアリが一匹、二匹、三匹……猫は暇つぶしの遊びをいつも通り始めました。ですが、五十匹を超えたところで塀が軋む音が鼓膜を揺らします。
瞳だけを動かし視線を向けると、そこには帽子を取り、半分だけ紅く染まった長髪の少女が気持ちよく風に当たっていました。
オーバーオール姿の彼女は猫に気づき軽く会釈をします。
「隣、お借りしますね」
猫は視線を元に戻しました。
――塀の上に猫と少女。一時の時間が爽やかな風と共に過ぎ去ります。
「あの、聞いてもいいですか……あなたはなぜここにいるのですか?」
少女は口を問います。猫は動きません。
「あなたはなぜ動かないのですか?」
少女は首を傾げます。猫は一ミリたりとも動きません。
「……わかりました。今日は帰ります」
少女は立ち上がります。結局猫は動きませんでした。
◇
――とある廃墟の塀の上に白い一匹の猫がいました。
そこは原っぱがうっそうと茂った場所で、丘の上に廃墟がありました。猫はその塀の上にいました。
次の日も白い猫は今日も原っぱを眺めます。身動き一つせず、廃墟と化した塀の上で一歩たりとも動きません。
今日も原っぱでは白いちょうがひらひら飛んでいます。空は青々とし、雲が泳いでいきます。その影にはそっとクロユリが咲いていました。
クロユリが、一輪、二輪、三輪……猫は暇つぶしの遊びをいつも通り始めました。ですが、五輪を数えたところで塀が軋む音が鼓膜を揺らします。
瞳だけを動かし視線を向けると、帽子を取り、半分だけ紅く染まった長髪の少女が気持ちよく空を見上げていました。オーバーオール姿の彼女は猫に気づき軽く会釈をします。
「また来ちゃいました」
猫は視線を元に戻しました。
――塀の上に猫と少女。一時の時間が空を泳ぐ雲と共に過ぎ去ります。
「あの、考えてみたのですが、相手に話させるだけでは失礼なので、今日は僕の事を話してもいいですか?」
少女は問いかけます。猫は動きません。
「僕はアルバと言います。相方のソルと一緒に蒸気機関車で荷物を運ぶ旅をしています。今ちょうどこの近くで物資の補給をしているんですよ。ここに来る前いろいろありまして今は人を運んでいます。ほら、微かですがここからでも見えますよ」
アルバという少女は指を指します。指さした場所では蒸気機関車と大きな箱のような車が止まっていました。その周りではせっせと何人かが物資を運びいれています。
「補給が終わったら、今度は旧フランス領の東に行くんですよ……だからその前にここから動かない理由を教えてもらえませんか?」
だけど猫はちらっと瞳を動かしただけで、すぐさま視線を戻しました。
「興味ありませんか?」
アルバは問い続けます。猫は一向に動きません。
「そうですか……では、また今日も帰ります」
アルバはしょんぼりしながら立ち上がります。結局猫は今日も動きませんでした。
◇
――とある廃墟の塀の上に白い一匹の猫がいました。
そこは原っぱがうっそうと茂った場所で、丘の上に廃墟がありました。猫はその塀の上にいました。
そのまた次の日も白い猫は今日も原っぱを眺めます。身動き一つせず、廃墟と化した塀の上で一歩たりとも動きません。
今日も原っぱでは白いちょうがひらひらと飛んでいます。どこからともなく差し込む夕暮れの光が原っぱを赤い海のように作り変えました。
白いちょうはその狭間でキラキラと光るものに停まり羽を休めます。
キラキラが一瞬き、二瞬き、三瞬き……猫は暇つぶしの遊びをいつも通り始めました。ですが、三十個数えたところで塀が軋む音が鼓膜を揺らします。
瞳だけを動かし視線を向けると、そこには帽子を取り、半分だけ紅く染まった長髪の少女、アルバがたそがれていました。オーバーオール姿の彼女は猫に気づき軽く会釈をします。
「今日はちょっと遅くなりました」
猫は視線を元に戻しました。
――塀の上に猫と少女。一時の時間が光りを失いつつある夕闇と共に過ぎ去ります。
「あの考えてみたのですが、何のお礼もせずに物を頼むのは不仕付けだと思って、プレゼントを用意しました」
アルバは腰に巻いた道具入れに手を潜り込ませます。猫は動きません。
「じゃーん。猫じゃらしです」
アルバは高らかに原っぱから拾った猫じゃらしを掲げました。猫は一瞬だけぶるっと震えました。昔、同じものを見たことがあったからです。
「見てください。リボンがついていました。可愛いですね」
アルバはそう言いながら猫じゃらしを揺らしました。猫はぶるぶると震えながらも一ミリも振り向きませんでした。とても遊ぶ気になれなかったのです。
「気にいりませんか?」
アルバは肩を落とします。猫は黙ったままでした。
「わかりました。今日も帰ります……その、ごめんなさい」
アルバは少し頬を膨らませながら立ち上がります。猫は憂いを帯びつつも動きませんでした。
◇
――とある廃墟の塀の上に白い一匹の猫がいました。
そこは原っぱがうっそうと茂った場所で、丘の上に廃墟がありました。猫はその塀の上にいました。
そのまた次の、次の日も白い猫は今日も原っぱを眺めます。身動き一つせず、廃墟と化した塀の上で一歩たりとも動きません。
今日は白いちょうは飛んでいませんでした。空は鉛色のようにくすみ、雨がぽつぽつと降り始めます。
滴が一滴、二滴、三滴……猫は暇つぶしの遊びをいつも通り始めました。ですが、数を数えきれなくなったところで塀が軋む音が鼓膜を揺らします。
瞳だけ動かし視線を向けると、帽子を被り、半分だけ紅く染まった長髪を隠す少女、アルバが顔を俯かせていました。オーバーオール姿の彼女は猫に気づき軽く会釈をします。
「今日でここに来るのも最後になります」
猫は視線を元に戻しました。
――塀の上に猫と少女。一時の時間が地面に染み込む雨と共に過ぎ去ります。
「物資の調達が終わりました。明朝には離れます」
アルバは猫に語りかけます。猫は動きません。
「最後に教えてくれませんか? なぜ動かないのか……なぜあなたは『呪われた』のに生きようとするのですか?」
そう言うとアルバは背後を振り向きます。
そこには骸骨の山が連なっていました。その傍らには剣や斧、弓矢など武器が転がっています。
「この街は逃げずに立ち向かったのですね。渡り鳥の一族に」
アルバは静かに問います。猫は瞳だけを彼女に向けました……まるで肯定するかのように。
そして、次に自身の身体を見つめました。白い体躯にはびっしりと呪いの紋章が刻みこまれています。
「きっとこの街は希望を胸に携えていたのでしょう。でも、無謀な事です」
猫は肯定もせず、否定もしませんでした。
「あなたはどちらでしょうか? 希望を胸に抱いているのか。それとも今尚、絶望しているのか」
アルバは問い続けます。
「僕は最近わからなくなりました。いろいろな選択を迫られて、それが正しかったかどうか悩んでいます……だから知りたいんです。あなたが今どんな心境なのか」
猫はそれでも動きませんでした。
正直そんなものどうでもよかったのです。
「……わかりました。帰ります」
アルバは残念そうに立ち上がります。猫は動きません。
だけど、
「最後に、あなたと過ごした時間は子供の頃に戻れて楽しかったです」
アルバが最後に別れの言葉を口にすると猫は『にゃー』と一鳴きしました。
とっさにアルバは振り返りますが、猫はいつもと変わりありませんでした。白い猫は背筋を伸ばし、威風堂々とし、座っています。
それでも彼女は嬉しくなり微笑ましく一礼をして帰りました。
◇
――あくる日。とある廃墟の塀の上に白い一匹の猫がいました。
そこは原っぱがうっそうと茂った場所で、丘の上に廃墟がありました。猫はその塀の上にいました。
白い猫は今日も原っぱを眺めます。身動き一つせず、廃墟と化した塀の上で一歩たりとも動きません。
今日も白いちょうは飛んでいません。だけど、遠くの空から、ぽっぽー、と汽笛が鳴りました。草原がその身を擦り合わせ、さらさら、とファンファーレを奏でます。
その演奏に酔いしれ、猫は昔を思い出します。
――原っぱに猫と幼き少年。一時の時間が追憶の日々と共に過ぎます。
記憶の中の少年は立派に生えた猫じゃらしを振りまわして猫と遊んでいました。とても楽しくて愛しい時間だと猫は記憶しています。
ですが、今ではその原っぱは戦で敗れた者たちの武器が点々と落ちた夢の跡になりました。
猫は少年の行く末を知りません。
戦から逃げたかもしれないし、小さな体躯で立ち向かったかもしれない。
生きているかもしれないし、もうこの世にいないかもしれない。
できれば逃げていてほしいが、猫はそれを確認しには行けませんでした。猫もまた戦で呪いを受けた者……希望を抱いても、絶望を抱いても、動いた結果は決まっていました。
だから猫は動かず待ち続けます。その行為は人間の言う『希望』よりはどうせこうするしか生きる方法がないという『妥協』に近かった。
だけど次の日も、そのまた次の日も、猫は一ミリも動かきませんでした。
あの少年がまた遊びに来てくれる、と信じて。
◇
――数日後。とある廃墟の塀の上に白い一匹の猫がいました。
そこは比較的平らな場所で、丘の上に廃墟がありました。猫はその塀の上にいました。
白い猫は今日も静かに眺めます。身動き一つせず、廃墟と化した塀の上で一歩たりとも動きません。
今日も白いちょうは飛んでいませんでした。それだけではなく、蟻も、花も、猫じゃらしも、気がつけば草原自体枯れ果てていました。
――暇だ……。
猫は暇を持て余します。ですが、欠伸を耐え忍んだところで塀が軋む音が鼓膜を揺らします。
瞳だけ動かし視線を向けると、紅く染まった短髪の青年が膝を折り、こちらに顔を覗かせていました。その瞳は紅く妖しく光ります。その姿に猫は見覚えがありました……ああ昔に戦でみた奴だ、と。
それでも猫は動きません。最後の一瞬まで少年を信じて。
――塀の上に人外が一人。一時の時間が猫の命と共に過ぎ去ります。
猫は永遠の夢を見ました。夢の中であの幼き少年がこちらに向けて猫じゃらしを振りまわしています。
「また遊ぼう」
猫はやっとの事で夢の中へと一歩踏み出しました。
◇
――その後、塀の上には誰もいません。
白い猫がどこへ行ったのか……それをアルバが知るのはもう少し後の事でした。