1章 3-2
その夜、ティミッドは楽しい夕食を終えて、アルバを見送った。そして、サージュと共に木の上へ、寝床に付く。
「よかったね。怒られなくて」
「ああ、やっぱりあの人はそういう人じゃなかった」
ティミッドは感慨深く何度も首を縦に振った。怒らずに話を聞いてくれたアルバの事を尊敬し、敬意を払う。
これで――、
「もう少しシェルターの住民を騙しておける」
ティミッドは少し安心したのか、ぼそりと兄妹だけの秘密を吐きだした。安堵の息を吐いて全身の力を抜く。
「お父さんとお母さんがいなくなってから二年が経ったね」
すると、サージュが夜空を見上げた。
ティミッドも同じく視線を真上に向けるが、空は雲が掛かっていたのか星空さえ映らない。嫌な天気だった。
「お父さんたちは怒られたからシェルターの外に行ったんだよね」
サージュは不安な瞳で兄をみつめる。
そう、ティミッドとサージュの両親はきちんと生きていた。それだけではなく彼らはティミッドの前――シェルターの先代代表者だった。
だけど、彼らはシェルターが一向に発展しない事に耐えかね、自ら狩りをするためにシェルターの外に出て行ったきり帰ってこなかった……。
それから二年が経っても、彼らは帰ってこない。
でも、ティミッドは知っていた。本当は――。
「違う。父さんたちは怒られるのが恐くて逃げたんだ」
単に責められるのが怖くて、両親は家にいてもずっと肩を震わせていた。
まるで今のティミッドのように。
『早くしないと』
頭の中で響くその声は、逃げる前両親がよく口走っていた言葉。そんな両親の姿を垣間見ていたティミッドは怒られるのが恐い事だと知った。
だから、両親が逃げた事を知ると、ティミッドもできることならシェルターを出ていきたかった。
当然だ。
もう守ってくれる者などいない。それに加え、呪い死んだというならともかく、逃げた者を――その家族をシェルターの住民は許してくれないだろう。
いっそどこまでも逃げて独りになりたかった。
だけどティミッドはここにいる。
それは、ティミッドの腕の中に幼い妹がいたからだ。大事な妹がいたからだ。
サージュはまだ小さかったこともあり、怒られる事が恐いことだと認識していない。ティミッドと違って純粋な眼で物事を見る。そんな妹はティミッドの誇りであり、支えだった。
だからこそティミッドはシェルターの住民に嘘をついた……『父と母は今もシェルターの人たちのために狩りをし続けている。支援物資を集めている。いない間は僕にまかせて』と説明した。
シェルターの住民は『そう言う事なら』と了承した。そうして、ティミッドは父の後釜を継いだのだ。サージュを守るために。
ティミッドはサージュを寝かせるように肩を軽く擦り毛布をかけた。
「大丈夫だ。置いて行ったりしない」
サージュは安心したように瞼を降ろす。それから妹の寝息を確認してからティミッドも静かに眠りについた。
だけどしばらくして、狼の遠吠えが響いた。
「――――っ!」
何か来る。
長い間、野宿していたせいか、感覚が鋭くなっていた。ティミッドはすぐさま目を覚まし、サージュを起こす。そして、慌てず木の上に居座り続けた。
木の上に居れば、とりあえず野生の動物と遭遇することはない。
だけど、いったい何が起きたのかわからず、周りをきょろきょろしていると背後に人の気配を感じた。
「わぁぁぁ!!」
「待った待った! 僕だよ」
「え、あ」
聞き覚えのある声に振り向き、目を擦る。
やっと夜目に慣れたのか、視界にぼんやりとオーバーオール姿の人間……アルバが映った。
ティミッドは小声でどうしてここにいるのか尋ねる。すると、アルバは言う。
「僕の相方に事情を話してみたら『だったら俺たちがいる間だけでも暖かい車内で寝かせてやれ!』って言うから連れに来たんだよ……でもそれどころではなくなったようだ」
――それどころではなくなった?
ティミッドは首を傾げる。すると、アルバは木の上で遠い一点を鋭く観察した。
彼女の瞳は猫のように瞳孔が開き、淡く光る。まるで遠くも見渡せているようだった。
ティミッドは浮世離れしたアルバに呆然とする。
だが、再び狼の嘶きを聞きつけ慌てて首を回した。そして、アルバが指す方向に視線をやると同時に息を呑んだ。
「なんだ、あれは」
視線の先で捉えたのは二足歩行する異形の狼が二体。毛深い胴体からわずかに表に現れる皮膚には幾何学模様の紋章がぼんやりと浮き上がっていた。
「狼だよ……呪われた、が前につくけど」
アルバが少し苦渋をなめるかのようにぼそりと呟く。そう言われてティミッドもあれが世界を滅ぼすほどの呪いの証である事を思い出す。
そうだ呪われた者には紋章がつく。それがどういう仕組みかはわからないけど、呪われた者はそれですぐわかるようになっていた。
「たまにいるんだ。呪われたせいで謎の突然変異が起きて凶暴化する……『動物が』ね」
そう言うとアルバは被っていた帽子で顔を隠した。まるで嘘をついているかのようだった。
「結局、無理がたたってそのうち死ぬけど……あの方向はちょっとまずいかな」
だけど、アルバに言われてティミッドは狼の行く方向を確認する。そして、ティミッド畏怖を覚えた。
行く手にはシェルターの入口……洞窟があったのです。
◇
ティミッドはできるだけ足音をたてず、慌ててシェルターに帰った。そして、アルバとサージュの力を借りてシェルターに住む全員を広場に呼び寄せる。
「こんな夜更けに一体どうしたんだい?」
ランタンを片手に集まった住民は眠気を帯びた眼を擦った。その輪から率先して一歩出たのは中太りの女性。屋根を修理した家のおばさんだった。
そんなおばさんにティミッドは泣きついた。
「逃げよう! おばさん」
「な、なんだい……」
おばさんは縋りつくように近寄ったティミッドに驚いた。
「大変だよ! もうすぐここに獰猛な……」
そこまで言いかけてティミッドの口が止まる。
恐くなった。
ティミッドはこのシェルターの代表者である以上、何もせずおめおめと帰って来られない。帰ってきた時点で責められるのは必須だ。
そもそもなぜ気がついたのか問われるかもしれない……外で生活している事がわかれば『子供がなに無謀な事をしているのか!?』と叱られる。
嘘をついた事に幻滅される――怒られる。
考えれば考えるほどティミッドは恐怖のるつぼに嵌っていった。
だけど、固まったままのティミッドを見て住民は一向に首を傾げた。囁きだす者さえいる。
「なんでもありません。怖い夢をみてしまって現実とごっちゃになったみたいです」
そんな時、アルバが助け舟を出すように呟いた。その言葉は石のごとく固まっていたティミッドに水をかけ、一瞬で柔らかくする。
「申し訳ありません。僕は用があるので失礼します」
「え、ちょっ、ちょっと待ってくれ」
ティミッドは振りかえり洞窟へ向かうアルバの後を追った。
◇
ティミッドは一生懸命アルバを追った。だけど追いつかない。ティミッドはその事が不思議に思えた。
確かに鍛えているわけではない。だが、女の子に負けるほど体力は衰えているとも認識していなかった。
代表者だって力仕事はあるし、余裕とはいかなくてもアルバを止める事ぐらいはできるはずだった。
「何をする気なんだ!」
だけど、結局ティミッドはアルバに追いつくことはできず、シェルターの入口にたったアルバを呼びとめた。
「狼をひきつけるよ」
すると、アルバは何のためらいもなく言った。ティミッドは息を切らつつも、必死に言葉を紡ぐ。
「無茶だ。人間がどうこうできる事じゃない!」
「でも怒られたくないんだろう?」
途端にティミッドは言葉を濁した。確かにそうだ、怒られたくない。だけどその瞬間、何かが心に刺さった……まるで魚の骨が喉に引っかかる感じだ。
そんなティミッドに横目でみつめるアルバはにこりと微笑む。
「大丈夫。逃げるのは意外と得意なんだ。遠くにひきつけたらまた帰ってくるよ」
でも、少し陰りのある笑みを浮かべて言う。
「でも、そのかわりもし相方が……ソルが助けに来るようなら止めてほしい。ソルは僕にとって大切な人間なんだ」
「大切な人間……?」
ティミッドはその言葉をオウム返しのように繰り返した。
だけど、ティミッドは慌てて声をかけます。
「ちょ、ちょっと待って! だからってアルバを行かせるわけには――」
しかし、アルバは聞く耳を持たずに、木々の中へと飛び込んだ。そこにティミッドが入り込む隙などなく、ほとんど取りつく島もありませんでした。
そして、アルバを追って化け物に立ち向かうほど、ティミッドの足は頑丈ではない。
ティミッドはそのまま震えて、崩れるように膝をついた。
ティミッドはとぼとぼと来た道を帰った。どうしようもなかった。
行って何ができる……むしろ怒られなくて済んだではないか……そう無理矢理にでも喜ぼうとしましたが、やはりその気になれず背中を丸めます。
「いた!」
その丸まった背中に悪寒が走る。
視線の先にはテーラードの制服を着た少年が走ってきていた。それはまごう事なき蒸気機関車の機関士、ソルだった。
必死に近寄ったソルは肩で息をしながらティミッドに迫ります。
「帰りが遅いから心配になって来たんだ。あいつは、アルバはどこにいるんだ?」
「それは……」
ティミッドはどうしようか考えます。
ですが、とても嘘をつく気力はなくて、ティミッドはアルバがシェルターを守るために外へ出た事をかいつまんで話した。
すると、ソルはティミッドの両肩を掴んで小刻みに振ります。
「確かにあいつは……アルバは呪われて凶暴化した『動物を』連れだしたんだな?」
ティミッドはその問いの意味がわかりませんでした。ただ『はい、そうです』と真実だけを口にする。
途端に、ソルは、あいつまた無茶しやがって、と血相を変えて急ぎ引き返し始めた。ティミッドはその背に慌てて問いかける。
「どこ行くつもりですか?」
「決まっているだろう。蒸気機関車で追うんだよ」
ソルは歯をギリギリ鳴らしながら答えた。
「でも、あの子は来てほしくないと言ったんだ。行ったら怒られるよ」
そう、ティミッドはアルバに頼まれたのだ……ソルを止めてくれ、と。せめてその約束だけは果たすべきだと感じだ。
「だろうな。でも俺は行くんだ。じっとしている事なんてできない」
でも、ソルはそのことさえ見据えた表情で言う。
怒られても良い、というメッセージが顔に張られていた。その表情がどこかかっこよくて、ティミッドは『なぜ?』と純粋に問う。
怒られずに済むならいいことではないか……先程から何とも言えないもやもやした想いが胸のうちで渦巻いた。
ソルは少し迷いながらもこう答える。
「説明はできない。でも、いずれ君にもわかることだし、今は君にも待っている人がいるはずだろう?」
「え?」
ティミッドは首を傾げます。だけど『それじゃあな』とソルは坂を降ります。ティミッドは一歩前に足を踏み出した。
「待ってくれ、僕も……」
「やめとけ。怒られるぞ!!」
直後、ソルは忠告する。
それは嫌がらせなどではなく、純粋な警告だった。自らの殻から飛び出せば大変だぞ、と言っている。
「……」
足がすくむ。そして、またほとんど取りつく島も状況は過ぎて行った。
ティミッドは、とうとう広場まで戻ってきた。
何もできず、何もせず、ただなんとなく。
いずれわかることとはどういう事だろう……ティミッドの頭では疑問が大渦のように蠢いていた。
遠くでは蒸気の音、汽笛が響く。
きっとソルが蒸気機関車でアルバの跡を追ったのだろう。その音はまるで勇ましく出撃する勇者のようだった。
一方、ティミッドは……僕は――。
「お兄ちゃん!」
誰かに呼ばれティミッドは俯かせていた顔を上げる。すると目の前には妹が……シェルターの住民が待ちわびていた。アルバの後を追った時と全く同じ状態で。
どうして……ティミッドは首を傾げた。すると、中太りのおばさんは、と鋭い眼差しで応える。
「代表の言葉を何一つ聞いていないからね。それで外で何があったんだい?」
ティミッドは口を閉じた。何もしなくてもきっと事態は収まるだろう。だから言う必要はない。シェルターの外であったことなんて――。
その時、ティミッドはある事に気づき顔を上げた。
「俺たちが外で生活しているって気づいていたの!?」
直後、おばさんはちょっぴり困った顔で頷く。視線をずらすと皆迷いながらも首を縦に振った。
「私が言ったの、ティミッドお兄ちゃん」
サージュがすぐさま兄の足にしがみついて顔を擦りつける。それはまるで、怒らないで、と言っているようだった。
怒るはずがない。ティミッドは怒ることに恐れているのだ。自分が獣のようになっては意味がない。
だから、ティミッドは妹の頭を優しく撫ぜ『そうか』と納得した。
「不甲斐ない兄でごめん」
妹に非はない。そもそもこれは自分でまいた嘘だ。ばれてしまったのなら仕方がない。妹だけに嫌な思いをさせるわけにはいかない。
ティミッドは覚悟を決めて全てを打ち明けた。両親が逃げた事、屋根の資材を修理用具として使った事、兄妹だけで外に暮らしていた事、そして今アルバとソルが狼を退治に外へ跳び出した事を――。
「それで何がやりたいんだい?」
それを聞いたおばさんが問いかけた。
ティミッドは途端に半分だけ口を開き、そして閉じる。
――きっとやりたいことを言ったら怒られる。
だけど突然、掌が頭の上に乗っかった。おばさんの誰でも包み込むような大きな手だ。
ティミッドは数秒だけ唖然とする。だけど頭を撫ぜられていると不思議と力が湧いた気がした。怒られるのを覚悟して言い放つ。
「僕は……勝手かもしれないけど、助けに行きたいです! 部外者なのにこのシェルターを守ろうとしてくれる二人を追いかけたいです!」
同時に必死に歯を食いしばった……。
「なら決まりだね」
ですが、返ってきたのはあっさりとした返事だった。ティミッドは意表をつかれ瞬きする。
「……怒らないの?」
「怒る? なぜだい?」
「だって嘘ついていたし……皆を危険に巻き込むわけだし……」
「でもそれはおばさんたちの事を考えてくれたからだろう」
俯くティミッド。
おばさんは肩にそっと手を置いて優しく語ります。
「むしろこっちが謝りたいぐらいだよ。私たちは知らずのうちに迷惑をかけていたのかもしれない」
おばさんは皆に視線をやり、そして皆は頷いて『ごめんな』と呟いた。その言葉はティミッドの瞳から何故か涙があふれさせる。
――あれ、おかしいな……。
ティミッドは目を擦る。だけどそれは、止まらなかった。
――ああ、そうか。今わかった……。
ティミッドは胸に手を当てて目を閉じます。
すると浮かんできたのはサージュの頬笑みでした。次に浮かんだのは中太りのおばさんの屈託のない笑顔。それに次々とシェルターの住民の頼りになる表情。
それは、怒られなかった、という安堵ではない。皆が信じてくれたという絆だった。
全てを受け入れてくれた。それがすごく嬉しかった。
いずれわかること。
その意味を知った時、瞼を開くともうティミッドの心にはもやもやした霧が晴れたかのようにすっきりしていました。
「確かにじっとしていられない」
皆の笑顔を守るために何かをしなければ……ティミッドは目を擦って涙を弾き飛ばす。
そして、がくがく震えていた足に一発拳骨を入れた。
その姿を見たおばさんが肩から手を離し、持ち前の笑顔で宣言する。
「さぁ、何でも言っちょくれ! 代表の言うとおりにするよ」
住民たちも皆胸を張って、大人の見せ所だな、と粋がった。
「本当に言うとおりにしてくれるの?」
ティミッドは再度確認します。おばさんが『ええ、もちろんよ!』と満面の笑みで頷く。
そして、ティミッドはしばし考えてから切り出しました。
「それでは……」
◇
ガタン、ゴトン、と蒸気機関車が忙しく揺れる。
「少しは自分の事も考えろよな、っと!」
ソルは急いでいた。蒸気機関車を巧みに操って勢いよく先へ先へと進む。
ソルは今追いかけている少女に腹を立てた。
どうやらその少女はまた例のごとく、おせっかいをやいているらしい。今度はシェルターにいる気の弱そうなティミッドという少年を助けようと囮になったそうだ。
――まったく目を放すといつもこうなるんだ……よっ、と!!
ソルはスピードを調整する。
目の前の木々がまるで避けるように通り過ぎて、蒸気機関車から覗く景色は川のように流れる。その流れに逆らうように蒸気機関車は突き進んだ。
そして、次の瞬間、視界が開けた。
目線の先にはオーバーオールを着た少女が走っていた。その後ろには二足歩行した狼二体が今にも襲いかかろうと手を伸ばす。オーバーオールの少女はそれを力任せに振り切って逃げていた。
凄い迫力だ。超人的な体力を持つ渡り鳥の一族でなければ……ハーフであるアルバでなければ逃げる事などまず不可能だろう。
「乗れ、アルバ!」
ソルは操縦席から飛び下りると先頭車両から身を乗り出してテーラードの袖に通した手を伸ばす。それをみつけたアルバは足に力を込めて一気に跳躍した。それは五メートル離れたソルの手さえ掴めるほどの跳びだった。
その後、慣れた手つきでソルの手を取り、慣れた手つきで蒸気機関車に潜り込ませる。
「やっぱり来ちゃったんだね……痛っ」
そして、ソルはアルバの頭を被っていたキャップごとチョップした。
「なにかっこつけているんだよ……とにかく手伝え。スピードを上げて振りきるぞ」
言いたい事は山ほどあるが、ソルは操縦に専念するために話を切り上げ再び運転席に座る。このまま狼を振りきって逃げるつもりだった。
アルバだっていつまでも人間離れの体力を使うわけではないのだ。その証拠に彼女は今肩で息をしていた。額には汗も流れている。
そう、確かにアルバは渡り鳥の一族であるが、同時にもう半分は人間なのだ。このまま続けていたら体力がなくなり、狼の異形たちに皮膚を破かれるところだった。
だけど、アルバが躊躇する。
「待って」
「待ったら追いつかれるぞ」
「そうじゃなくて! 何か変だ。煙が上がっている」
はっ? ソルはあり得ない言葉に振り返ります。こんな木々の中で煙が起きるはずはない。
だが、視線を向けると、確かに視界の遠くの方から黒い煙がもくもくと上がっていました。火事か……いや、それよりもあっちの方角は――。
「シェルターの方じゃないか!?」
ソルが補足をつけたすとアルバは驚いた。
「止めてすぐに!」
「狼に襲われているのに止められるかよ!」
ソルは怒鳴ります。ですが、その不安の種である呪われた狼は煙雲を見ると動きを止め、そして、なんと煙の方へ向かって走り出した。
「そっちはだめ!」
アルバは叫ぶ。しかし、狼は止まらない。
くそ……ソルはすぐさまブレーキをかけた。しかし、機関車は急には止まれない。蒸気で走る機関車を止めるためには炉を冷やさないといけなかった。
――くそっ!! 古代にあった『電気』で走る電車だったら、まだ早く止まれるのに。
ソルは嘯く。だけどその間にも狼は木々にまぎれ視界に映らなくなった。
やっとのことで蒸気機関車が止まった後、ソルとアルバは走ってシェルターに戻った。だけど、ソルたちが戻ってきた時には窟は落石が起きて塞がれていた。
「おいまさか閉じ込められたんじゃ」
唖然とする中、アルバが力無く跪き、地面に根が生えたかのように小さく縮こまる。
「……」
一方、ソルは洞窟に近づいて様子を調べた。落石に指先を当てる。もしかしたらまだ生き残りがいるかもしれない。
だけど、触った瞬間ソルは反射的にそれが無理な事だと理解する。落石はまるであぶられている様に熱かった。とても人間が入っていける空間ではない……そして、生きていける空間でもない。
手首を振って熱を逃がしつつ、ソルは落石の向こう……シェルターが悲惨な状況である事を覚悟した。アルバにそっと近づいて囁く。
「アルバ、たぶんもう……」
「わかってる」
だけどアルバは目を背けるように瞼を降ろした。肩は力無く項垂れていている。無理もない。ソルもこんな結果は了承したくない。
その時だった。
ざわざわと草木が葉を揺らしている。アルバはその音に気づいてすぐにソルをかばうように立った。ソルは驚きつつも、周囲を警戒しつつテーラードの内側に手を潜らせる。
だけど、結局そこから何かを取り出すことはなかった。目の前から出てきたのはポンチョを着た少女だったからだ。
「整備士のお姉ちゃんたち発見した!」
価値きそうに叫ぶと、そのまま、ばふっ、とアルバの着ているオーバーオールに顔を埋めたのだ。
十歳ぐらいの勝気そうな少女……間違いない、シェルターで会った代表者の身内、サージュだ。
「それじゃ……」
「はい。僕たちは全員ここにいます」
ソルが呟くと返事がきた。その声はどこか頼りない、ティミッドの声。
ソルは驚いた。視線をサージュが現れた方に向けると人影が現れたからだ。その端にあの背中を若干丸めたティミッドがいる。
だけど、本当に驚いたのは次々と人々が出てきて、気がつけばシェルターの全員がその場にいたことだった。
◇
そして、あくる日の早朝。
やけに朝霧が濃い中、ソルの操縦の下で蒸気機関車はシェルターの住民を乗せて走りだした。
靄は周辺の木々を隠すように白くぼやけさせる。
「つまりは狼をシェルターに閉じ込めたのか?」
そんな中、ソルは慎重に操作しながらティミッドに事の次第を聞いた。アルバは燃料である炭を炉に入れつつ静かに彼らの言葉に耳を傾ける。
ティミッドはそんな狭い先頭車両の端で静かに頷いて、口を滑らせた。
「もともと、シェルターはガタがきていました。支柱は腐り、苔は生えてひどい状況です。一応やれることはしていたので大丈夫だったのですが、物資が不足して……だから支援物資を頼んだわけです。つまり全てを修理できていたわけではありませんでした。そこで僕は提案したんです。『このシェルターを捨てよう』って」
それはシェルターの代表としてはかなりの決断。ソルだってなかなかそうした決断を下した例を聞いたことがなかった。
ある意味臆病だからこそできた判断かもしれない、とソルは思った。
そして、ティミッドたちはすぐさま行動に移した。先にシェルター内に煙を立ち込もらせてから注意を引き、ティミッドたちは洞窟の外……木々の影に隠れた。そして、狼が中に入ったところで洞窟の支柱に火を放つ。
「欠陥住宅を何か一つ崩せば朽ちます。あとは見ての通り、支柱を失くした洞窟が崩落したわけです」
なるほどな……ソルは納得したように相槌を打った。
しかし、アルバはその話を聞いて被っていたキャップを目深にした。誰にも顔を見られないように。
「ありがとう。疲れただろう、もう一般車両に戻っていいぜ」
ソルはそれを見て、アルバの代わりに場を仕切る。ティミッドも『わかりました』と頭を下げると炭水車の端まで移動した。
けれど、そこでもう一度振り向き礼をする。その姿に不甲斐なさは一切ありません。
「あの、僕たちを近くのシェルターに運ぶ事、了承してくれてありがとうございます」
「いいって。支援するのが俺たちの仕事だし、補給車の方にも連絡を入れて場所を変更してもらった。だから……とにかく無事なのが一番だよな」
ソルは含む言い方をした。それに対し、ティミッドは気づかずに再度清々しい笑顔で深々と頷き返す。
「それでもあなたたちが来てくれたおかげで怒られる以上に大切な事教えてもらった気がします。ありがとうございました」
そして、今度こそ炭水車の端を渡り、一般車両のドアを開けて中に入り込んだ。その後、一般車両には楽しげな笑い声が響き渡る。
その笑い声を聞きながら、ソルは少し顔を伏せ呟いた。
「で、あの青年には言わないつもりか」
アルバは一瞬だけ肩を、びくっ、と震わせる。
「確かに呪われたら凶暴化したり、姿形が変わる場合がある。ただそれは、動物だけ、なはずがない。そして、あのシェルターには本来いるはずの代表者がおらず失踪者が二人いた……つまりはそういう事だろう」
アルバは何も言わない……いや、言えない、の方が正しいのか。
「でも、そうやって顔を隠す癖どうにかした方がいいぞ」
そこまで言うと、ふいにアルバは言葉を紡ぎます。
「…………仕方ないじゃないか」
アルバは軽くため息を吐き、立ち上がって車窓から覗く景色を眺めた。そのまま今は無きシェルターに黙とうを捧げ、しばらくしてから言う……。
「怒られたくなかったんだ」
◇
――その日、彼らは手を繋いでいた。
そこは狼の強襲に合い、家が焼け朽ち、崩落したとあるシェルターだった。
やがて火が消え静寂が戻った頃、瓦礫の裂け目から仲良く繋がれた二つの手が垣間見える。
その毛深い二つの手は、まるで二年ぶりに故郷に戻って郷愁に浸る父と母のように優しく握られていた。