1章 1-1 『孤独な世界』
――その日は珍しく太陽が眩しかった。
まるで太陽の光が叩き起こすように家の中に差し込んだ。
ベッドから飛び起きた私は背伸びをする。
朝だ。今日も無事朝がやってきた。
ならば私は今日も生き抜かなければならない。
「さぁ、頑張ろう」
足早に昨日洗濯しておいたデニムワンピースに身を通し、脱いだ服をさっそく洗濯。そして、朝食代わりに備蓄していた赤い実をかじりつく。
そうして私――エリダという少女の今日という一日が始まる。
さて、今日は何をしよう。
その時だった。どこからともなく汽笛が一回鳴る。それは遠くからでも家の中に響いてエリダを驚かせた。
エリダはすぐさま窓に跳びついて外を覗きこむ。
煙だ。
ただそれは火事で起きる黒々としたものとは違う気がした。煙は弧を描くようにこちらに近づいてくる。まるで生き物のように。
あれは……蒸気機関車だ。本で見かけたことがある。水で沸かす力で物を動かす乗り物だ。
つまりはあの中には誰かがいる。
直後エリダは玄関のドアを開け、外に跳びだしていた。
外はあと二軒しか建っていない。あとは崩れた残骸や細かく砕けた瓦礫ぐらいだ。だけど村があったこの場所はもともと川や山にほど近い所に存在していた。残骸を超えれば緑やせせらぎがほとんどだ。蒸気機関車はそちらからやってくる。
「間違いない。外の人だ」
そして、蒸気機関車はわずか三軒しか建っていないこの手前で止まった。
その、村とは言い難い集会場のような場所で、エリダはじっと蒸気機関車が止まった方向を見据える。
すると、ざくっ、という足音が鳴り、一人の少女が残骸の陰から姿を現した。
キャップを被り、オーバーオールを身に纏う。
少女にしては、その手に肩まで覆われたぶかぶかの手袋がはめられ、紐で無理矢理に括られていた。
――小顔で綺麗なのにもったいない。
ただそこから覗く紅い眼だけはどこか恐いものを感じた。だが、それも垂れ目で覆い隠され、スパイスのように少女の美しさに拍車をかけていた。エリダはその美しさに見惚れる。
「君はここの子供かい?」
気が付けば少女は目の前まで歩いてきていた。そして、屈んで、当たり前のことを聞いてくる。
その言葉はエリダに届かない。少女の妖艶さに惹かれていた。その妖しくも美しい肌に手を伸ばす。
「触らないで」
それは率直にして鋭くエリダの心を抉った。それで正気に戻る。
私はいきなり何をしようとしていたのか。仮にもこの人は大事な外の人なのに。
身体はぶるぶると震え、頭は首を垂れるように下がった。
直後、少女は、しまった、と言わんばかりに頬を掻く仕草をして、そっとエリダの頭にぶかぶかの手袋を乗せる。そして、しわくちゃになるほど撫ぜた。
エリダは唖然として顔を上げる。
そこには自分のことを『僕』と名乗る少女、アルバの屈託のないほほえみがあった。
そうして少女は再び問う。
「僕はアルバ。あそこにある蒸気機関車でやってきた整備士です。ここの代表者はいますか?」
それが事の始まり。
エリダが外の世界を知るきっかけだった。
◇
整備士。
エリダは首を傾げた。蒸気機関車は知っていたが、整備士という言葉は本に書いていなかった。
「せいびし? 外の人じゃないの?」
するとアルバという少女は首を横に振って答えた。
「いや、それであっているよ。僕は確かに外から来た。それがお仕事なんだ。みんなに水と食料を運ぶのがお仕事。だからまずは代表者とお話がしたいんだ。案内を頼めるかい?」
アルバは丁寧に説明する。
綺麗だ。外見だけではなく、内面もガラス瓶のようにキラキラしている。
エリダはふいにそう感じた。
「……大丈夫?」
「あ、はい! 改めまして、ようこそアルバさん。こちらです」
その笑顔――屈託のない少女アルバが心配そうに眉をひそめ、見惚れていたエリダは慌ててアルバを手招きする。
行く先には三つの家。私はそのうち右側の家を指さしてアルバの手を引いた。
「私の家は左側。代表の家はその反対側です」
一歩足を前へ進ませる。そうして軒先前まで行くと、そのドアに手をかけたアルバは、ありがとう、と一言だけお礼をして三度ノックした。
そして、アルバはそっとドアを開き、できた隙間にその身を滑りこませる。一方、エリダはその実を一歩引いた。
「――? 君は入らないのかい?」
不審がるアルバの問いにエリダは頷いた。
「この村……というか、集会場には、お互いに顔を合わせない、って決まりがありますから」
そう、この集会場にはそんなルールがあった。
どうして必要かはわからない。でも代表が言うのだから必要な事なのだろう。
なによりアルバが聞かなかった。わかった、と全てを呑みこんで一人中に入る。
そしてドアが閉まり、エリダは深く長く安堵の息を漏らした。
日差しが強くなってきた。汗がだらりと流れる。それともまだ身体が緊張して火照っているのかな。水でも持ってきたほうがいいだろうか。
だけど、エリダは話が終わるまで待つことにした。家の軒先で日陰を探して座る。
足をぶらぶら。空気が澄んでいたのか、川のせせらぎが聞こえる。その中でエリダは空を見上げた。
「アルバさん……か」
エリダより身長は高いのでおそらく年上だろう。十六歳ぐらいだろうか。
とにかく綺麗な人だ……オーバーオールなんていう男の恰好にしておくには惜しいほどに。
いつまでいるのだろうか。
すぐ帰ってしまうのだろうか。
だとしたら少しつまらないな。もう少しここにいてほしい。
エリダにとって久しぶりなのだ……人の顔を見る、という事が。
眼を閉じれば思い出す。
『これからはお互いに顔を合わせないようにしよう……』
おぼろげに思い出すのはそんな言葉。二年前の十歳の誕生日に言われた言葉だった。
それまでは代表者であるお兄ちゃんがエリダの面倒を見てくれていた。一人でいろいろしてくれて、エリダにもいろいろ教えてくれた。本も読んでくれた。おかげでエリダは今も小さくても生活できている。
だけど、あれからもう代表者の顔をエリダは見ていない。もう一軒で住んでいるらしい夫婦の姿は物心ついた頃から見ていない。
たぶん元々、そういうルール、だったのだろう。
それでも一人だとやっぱり不安になる事もあった。
世界にはエリダしかいないのではないかと。
だからアルバが来たときは、純粋に喜んだ……初めて見る外の世界、と断言してもいいだろう。初めて見るのだからもっとじっくり観察したいし、できれば遊んでほしい。
だからこそエリダは日陰でじっとアルバを待っていた。
遊んでください。
ただそれだけを言うために。
でも、もしかしたら時間はかかるかもしれない。
なにせ顔を合わせてはいけないというお触れが出されている。外の人が訪れたら代表者はびっくり仰天して隠れてしまいそうだ。
だが、ドアはそう時間を置かず、乱暴に開かれた。
開け放たれた薄闇から逃げ出すようにアルバは跳びだし、膝をつく。ぶかぶかの手袋で口を押える。
「アルバさん? もうお話は終わったのですか?」
「――っ!?」
アルバは瞼を見開いてこちらを見る。垂れ目で覆い隠されていた紅い眼はそのベールを脱いで瞬間的にエリダを硬直させた。
猫の目のように細くなる瞳孔。あとは言葉では形容しがたい……まるで人間のそれではないと言わんばかりにアルバが何かを包み込んでいるような気がした。
「――――」
その目に再びベールがかけられる。直後、アルバは急いでドアを閉めた。
それはとても行儀のいい行為とは言えない。
家自体が揺れているのではないかと錯覚してしまうほど、バンッ、と鳴る効果音。
「ごめん……うん、もう大丈夫。もうお話は終わったよ」
「本当に……?」
アルバはにっこり笑う。
よく見ると青ざめていたのだが、エリダはそのことに触れなかった。それよりも大事な事があったのだ。
「あ、あの用事が終わったのなら、一つお願いをきいてほしいのですが」
「お願い?」
アルバは息を整えて立ち上がる。そして、私が話しやすいように少し屈んだ。
エリダは意を決する。
「私と遊んでくれませんか!?」
言った……言ってしまった。
エリダは両目をつむって返事を待つ。
お仕事だから無理かな、とか、こんな子供にかまうほどお人よしじゃないよね、とか……その間にいろんなことをを考えた。そのほとんどが悲観的なものだ。
それなのに、エリダの頭にぶかぶかの手袋が乗る。
「それなら代表者の了解はもらったから、今日一日君の家に泊めてもらえないかい?」
瞼を開くとそこには少女の屈託のない笑みがあった。
ただ、日陰だったせいか、エリダは気づかなかった……先ほどと違って、その微笑みに少し陰りがあることを。
◇
そうして、エリダはアルバと遊んだ。そして、その後――つまりはひとしきり遊んだのちに、エリダはアルバと共に日課である採取を行う。
水は集会場にある井戸から汲み上げ、食べ物は残骸を越え森林の中へ。
森には果実の成る木がたくさんあり、時間はかからない。
夕食に使う食べ物。明日の朝食に食べるもの。火を焚くために使う枝。
次々と拾っては家から持ってきたかごに入れていく。
全て本に書かれた事だった。
「ところで、君はなぜこんなことをしているんだい?」
その時、アルバは赤い実をもぎりながら質問した。エリダは枝を一つ取ってはかごに入れる。
「なぜって……この世界が滅亡しかけているからでしょ?」
そう、すでに世界は瀕死状態だった。
理由は知らない。でも本にそう書いてあった。エリダがこうして採取をして生き延びているのは、ひとえにそのせいである。
しかし、これはエリダだけではない。滅亡しかけたこの世界で運よく生き残った者は所々にいる。それぞれで生き延びようとしている。
その事実はもうこの世界で当たり前の事だ。だから尋ねてくるのが不思議だった。
「シェルターのことは知ってる?」
再度アルバは問う。
もちろん知っている。
シェルターとは運よく生き延びた人たちが集まって作った新たな街だ。世界各地にある地下街……要は《避難場所》だと本には書いてあった。
でも、自分たちにはシェルターを作れるほど人手も力もなかった。
だからこうしてひっそりと暮らしている。
「シェルターに行こうとは思わなかったのかい?」
エリダは首を横に振る。
ひとえに子供の足でつけるほど近くにシェルターはなかった。そんな苦労をするよりはここでひっそり暮らして生きた方が安全だろう。
それに、
「私はここにいたいの」
その言葉にアルバは口を閉ざすしかなかった。
そして夕刻、エリダはぶかぶかの手袋を引いて、アルバを森の中へ連れ出した。
「こっちだよ。アルバさん」
茶色い土の道は夕陽で赤茶色に染まっている。葉は日差しを遮り、ほどよく二人を照らしていた。
エリダは少し荒い息を上げて、その坂を上っている。この道はいつも歩き慣れているエリダでもつらい。
だけどアルバは平然とそのあとをついてきていた。さすが年上だ。
そうしてエリダは集会場を一望できる切り立った場所に立っている。
同時に背後から朱色の光が差し込んだ。その夕陽は集会場だけではなく周りの残骸をも巻き込んで一つの絵画のように景色を彩る。
「綺麗な場所だね」
アルバは少し憂いだ瞳でみつめて静かに呟き、微笑んだ。
きっとアルバもこの夕暮れの景色に酔いしれたのだろう。エリダは、やはりアルバをここに連れてきて良かった、と安心した。
確かにエリダは一人だった。
でも、独り、ではない。
エリダの成長を見守ってくれる者があそこにいる。
顔は見れないが、それでも一緒に同じ場所で生活してくれる代表者たちにエリダは今も見守られているのだ。
それは親と同じだった……愛はきちんとあった。
その事を誇らしく想いながら、エリダは最後にこの景色に向かって言う。
「私はここにいます。皆がいるから……私はこの世界が好き」
それは何があってもここにいるという宣言だった。
宣言を聞いたアルバはエリダの頭にぶかぶかの手袋を乗せ優しく撫ぜる。
だけど、その顔は少し苦虫を噛みしめているように見えた気がした。