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腐り姫  作者: 潮原 汐
2/6

 男は目を覚ます。

 寝起きのぼやけた視界に映るのは、見知らぬ天井だった。

 意識が覚醒するにつれ、記憶が呼び起こされていく。

 そうして男は、昨日死刑判決を受けたこと、独房に入れられたことを思い出した。

 ただ死を待つばかりの時間に、男は長く息を吐いた。

 死ぬことそのものに対する感情は特に無い。捕まらなかったとしても、どうせ長くはない命だったし、そもそも、男は生きながらにして死んでいるようなものだったからだ。

 男はとおの昔に、自らの死を受け入れていた。

 刑が執行されるまでの間、男は退屈を持て余すことになった。ここでは何もしなくても飯が出てくる。

 しかたなく、男は考えることにした。

 考えることは色々だった。スープをパンに浸して食べるのと、パンを口に入れてからスープを流し込むのとではどちらがおいしいだろうかとか、

 刑の執行を待たずとも、飯を食べなければもっと早く死ねるのではないかとか、

 自分の命に、罪を償えるだけの価値があるのだろうかとか。

 老若男女貧富地位名誉。

 無関係に男は沢山殺した。

 その中には当然、男よりもずっと価値のある命だってあったはずだ。

 それを、死刑になるくらいで償いきれるのか。

 とはいえ男には財産も身寄りの人間も無い。考えたところで、どうしようもないのだった。



 やがてその時がきた。

 男の前に刑務官が立ち、罪状を一つひとつ並べ上げていく。もしかすると それは、男を殺すための呪いの言葉だったのかもしれない。

 それから男は、刑務官に先導されて房を出た。長い廊下を歩き、階段を下りて、また長い廊下を歩いた。

 何度目かの階段を下りた時、男は刑務官に自らの疑問について話してみた。

 無駄口を叩くなと怒られただけだった。

 さらに何度か階段と廊下を繰り返す。

 はじめの頃とは、内装がすっかり変わっていた。むき出しのコンクリート壁に、鉄板の床。二人分の足音が反響して、幾十、幾百の見えない誰かがついて来ているようだった。

 見えざる行進は、行く手を阻む壁の前で止まった。壁の前には奇妙な二人組。彼らは宇宙服を彷彿とさせる、頭から足先まですっぽりと覆い隠す服を着ていた。

 男を先導していた刑務官は、彼らに敬礼をして踵を返す。その背中が見えなくなり、さらにしばらく待って、宇宙服の二人が動く。

 一人が男の傍らに立ち、もう一人が壁に付いている車輪ほどもあるハンドルを回した。ハンドルを回し終えると、腰を落として横に引く。

 男はそれを見て、目の前の物が壁ではなく扉だと気づいた。

 扉がゆっくりと口を開けていく。その先にあったのは階段だった。

 宇宙服に導かれ、男は階段を下りた。階段は暗く、そして長かった。

 宇宙服が立ち止まる。階段が終わったのだ。

 そこにはガラスでできた壁が、そして広い空間があった。

 明かりはあるが、空間全てを照らせるほどの光量は無い。

 そんな空間には、真ん中に何か白いものがあるだけだった。

 男は目を凝らす。

 白いもの、それは少女だった。裸の少女が、抱えた膝に顔をうずめて座っている。

 何故こんなところに。

 困惑する男に、宇宙服が言う。

 汝、彼女を愛せ、と。

 それから宇宙服は壁を二度叩く。叩いた場所が開き、ボタンが現れる。

 ボタンが押され、ガラスの壁が上に開く。

 男は進んだ。

 ガラスの壁は二重だった。後ろの壁が閉じると、次いで前の壁が上がった。

 空間に足を踏み入れる。靴越しに足に伝わる感触が変わった。床も壁も天井もガラスでできていた。

 生ぬるい空気が体を包み込む。日差しの指すような暖かさではなく、ぬるま湯みたいにまとわりつく暖かさだ。

 心地よさに身体中から力が抜けていく。

 男の足が少女へと引き寄せられる。膝から崩れ落ち、少女の胸に顔をうずめた。ささやかな膨らみが、柔らかく男を受け入れる。

 女を抱いたことが無いわけではない。しかし、今ほどの快楽を覚えたのは初めてだった。

 少女に触れていることが堪らなく幸せで、心が満たされていく。

 もっと触れたい。

 男は少女の背中に手を回そうとして、できなかった。

 腕が動かない。そもそも、腕の感覚が無い。

 男は顔を横に向け、自らの腕を見た。

 服の肩から先が平たく垂れ下がっていた。袖口からはぬめぬめとした、スライムのようなものが流れ出している。

 それは、腐敗した男の腕だった。

 目をやれば、反対の腕も、両脚も同じだった。

 なるほど、これは確かに死刑だ。理屈はわからないが、このまま全身が腐って死ぬのはわかった。

 痛みは無い。

 あるのは幸福ばかりだ。

 こんな自分が幸福に包まれて死ねるだなんて、考えたこともなかった。

 縄で吊られるか、電気椅子か、はたまた首を落とされたか。無慈悲に、無感情に終わるはずだった生に、温もりが与えられるなんて。

 男は胸いっぱいの感謝の気持ちを伝えようと、少女の顔を見た。

 男の心は、一瞬にして絶望に塗りつぶされた

 少女は涙を流していた。悲痛な面もちで、引きつった息を吐きながら。

 どうして、泣いてるんだ。

 幸福に弛緩していた心は無防備で、それゆえに少女の涙は、自分が泣くよりもずっと深く胸に突き刺さった。

 やめてくれ、泣かないでくれ。

 男の叫びは声にならなかった。すでに舌も喉も腐っていた。

 苦しい。

 こんな苦しみを、男は今までに一度として感じたことは無かった。

 ――無かっただろうか?

 男は既視感を覚えた。

 しかし、それが何に対してのものであるか気づく前に、男の全てが腐り、果てた。


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