一
男は死んでいた。
呼吸はあり、心臓も動いていたが、死んでいるのであった。
なぜなら男は、死刑囚だったからだ。まだ刑に処されてはいなかったが、判決を受けた時点で運命は決 まっていた。
故に男は、生きながらにして死人であった。
さらに言えば、男は産まれたときから死人であった。
男はスラムに産まれ、神への祈りの代わりに暴力、窃盗、詐欺を覚えた。
生きるために罪を犯す日々。
男の生とはいわば、罪そのものであった。
男は死刑になるために産まれてきたのだ。
裁判官がおざなりに死刑を口にしたとき、男自身、青虫が蛹になるくらいに当然のこととして、その宣告を受け入れた。
刑の執行を待つ間、男は考えた。何もせずとも三食出てくるのだから、考える時間だけはたっぷりとあった。
何を考えたかといえば、それは様々だった。
朝食べたスープがおいしかったから、どうにかおかわりはできないだろうかとか、
思いっきりジャンプすれば、天井に頭がつくだろうかとか、
死ねば全ての罪が償えるのだろうかとか――。
男がこれまでに奪ってきた命は数え切れない。
その償いは、本当に自分の命、たった一つでいいのだろうかと、男は思った。
思ったところで自らの命を増やすことはできないし、他に償いの方法などわからなかった。だが、男はそう思ってしまったのだ。
一度そのことに気付いてしまうと、もう他のことは考えられなかった。
別に罪を償いきれないことに対する罪悪感などというものはない。
気になるのだ。
気になって気になって仕方がないのだった。
男の思いには目もくれず、時はあっという間に過ぎていった。
その日が来た。
男が刑に処される日だ。
きちりと制服に身を包んだ刑務官が男の名を呼び、罪状を一つ一つ挙げていく。
男は三つ目で数えるのをやめた。
全ての罪を語り終えると、刑務官は音も無く息を吐いた。
それから男は部屋から連れ出され、殺風景な廊下を歩いた。
途中で男は刑務官に訊いた。
俺は、死ぬだけでいいのかと。
無駄口を叩くなというのが、それに対する答えだった。
どれくらい歩いただろう。何度も階段を下り、何度も案内の刑務官が入れ替わった。
廊下の様子も変わっていた。
はじめは白い壁紙にリノリウムの床だったのが、今ではコンクリート剥き出しの壁に、床は鉄板だった。
それからさらに何度か刑務官が入れ替わった。
何も無かった廊下が終わり、大きな扉が現れた。扉の前には、宇宙服のようなものを着たのが二人。
刑務官が二人に向かって手を上げた。その内の一人が男の傍らに立つと、刑務官は元来た廊下を戻っていった。
刑務官の姿が見えなくなり、それからしばらく待って、男の側の宇宙服が、もう一人に頷いた。
扉にノブは付いておらず、代わりに馬車の車輪程もあるハンドルが付いている。合図を受けた宇宙服はそれを回し始めた。
金属の擦れる音が男の鼓膜を引っ掻いた。
ハンドルを回し終えると、次は扉を横に引いた。ゆっくりと、ゆっくりと扉が開いた。
そうしてできた人一人がやっと通れる隙間を、男は宇宙服に背を押されながら通った。
扉の先は階段だった。
宇宙服に促され、男は階段を下りた。今までの階段とは比べ物にならないほど長い。
真っ暗な階段を壁に手を突きながら下りると、その先にあったのは、広い空間だった。
その入り口は、ガラスでできた扉で塞がれている。
扉の向こうは階段に比べればいくらか明るいが、それでも空間の全てを見通せるほどではない。
空間の真ん中には、何か白いものが薄ぼんやりと見えた。
男は目を凝らす。
それは、少女だった。
裸の少女が膝を抱えて床に座り、自分のつま先をじっと見つめているのだった。
殺されに来たはずが、これはいったいどういうことか。
訝しむ男に、宇宙服はくぐもった声をかけた。
曰わく、汝、彼女を愛せ、と。
宇宙服はそれ以上は何も言わず、壁を軽く叩いた。すると叩いた場所が開き、ボタンが現れた。
宇宙服がボタンを押す。
ガラスの扉が開く。
他にできることもない男は、扉の先へ足を踏み入れた。そうして気づいたが、ガラスの扉は二重になっていた。
男と宇宙服の間で、一つ目のガラス扉が閉じた。
ここから先は一人らしい。
一拍の間が空いて、二つ目のガラス扉が開く。
途端に、生温い空気が男の体を包み込んだ。鼻から喉、肺を満たし、頭がぼーっとした。
微睡み、とは似ているが違う。
一番似ているのは、大麻の煙をいっぱいに吸い込んだ時だ。
男は多幸感に引き寄せられるように足を動かした。進む先に少女がいた。少女に近づくと、よりいっそうの幸せが得られた。
幸せ?
なんとなくそれも違う気がしてきた。
もっと似ているものがあるはずだ。
男がそれを理解したのは、少女の胸に顔をうずめ、頭を撫でられているときだった。
ああ、これは安心だ。
少女の指が、房にいる間に適当に伸びた髪を梳く度に、一つずつ、罪が赦されていくような気がした。
涙が流れた。
男はそれを手の甲で乱暴に拭った。
手の甲の皮が、べろりと剥けた。熟れたトマトみたいだと男は思った。
痛みは無かった。
驚きも無かった。
それはそれとして、ただその事実のみを受け入れていた。
反対の手も見る。茶色と緑に変色し、表面がぬらぬらとした光を返す。服も靴もぐしょぐしょに濡れ、粘り気のある液が染み出していた。
男の体は腐っていた。
なるほど自分は死ぬらしいと男は思った。
これほど幸せに逝けるなら、後悔も恐怖も無い。
男は少女に感謝するべく、顔を上げた。
少女の悲痛な顔が見えた。
胸が締め付けられた。
心臓でも、肺でもない。心が痛いのだとはっきりわかった。
やめてくれ。
そんな顔をしないでくれ。
声は出なかった。
舌の上を、固いものがカチカチとぶつかり合いながら転がる。溶けた歯茎から歯が抜けていた。
どうしてそんな顔をするんだ。
どうすればいいんだ。
男は考えようとするが、うまくできない。脳が鼻の穴から流れ出していた。
幸せは一転、男の生涯で一番の苦しみに変わった。
死ぬほどの苦しみの中、男の意識は完全に溶けた。




