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人形村  作者: 梟小路
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「八月七日――晴れ。縁側を吹き抜ける風心地よく、するすると寝巻の間を通り抜ける。

 今日も普段通り、朝食後から、瑠璃子の離れで指導の真似事を始めた。そして正午には、これまた普段通り、私と初音で瑠璃子を囲む昼食。

 こんな食事風景も慣れてしまえば、それに、人形遊びと割り切ってしまえば、苦とは成らないらしい。

 久し振りに味わい深い昼食を取った後は、腹ごなしのままごと遊びが待ち受けている。食後しばらく間、初音は離れに留まり、私の(つたな)い指導の真似事を眺めるのだ。

 その日課を型通りに(こな)し、食膳を下げつつ、静かに退出する初音を見送れば一段落。

 初音が次に訪れる三時までは、のんびりと本を読んで過ごすか、それとも、こうして日記をつける事も出来る訳だ。……最近では三時の小休止に、コーヒーと、洋菓子が差し入れられるようになった。これがまた楽しみなのである。

 しかし、私は読み()しの本を閉じてまで、そんな昼下がりの一時を日記の為に費やして居る。今しか、この場でしか記せない事を、この日記に書き付けようと思い立ったからだ。

 他でもない、瑠璃子の事である。

 この人形が美しい事は以前にも、生き写しであるだの、漠然と書き入れた。だが……。それでは詰まらないではないか。それでは勿体無いではないか。……どうやら私の悪戯心は、この人形の精巧さを前にして、筆を取らずには居られないらしい。

 この村を去るにあたり、ただ飯を食らい、行ってもいない指導の礼を受ける。得たものがそれだけでは、あまりに味気ない。

 せめて、人形の……彼女の美貌を描出し、それを以てこの旅の成果としたい。……まぁ、散々ぱら、ままごと遊びに付き合ったのだ。この程度の座興は、瑠璃子も許してくれる事であろう。

 さて、初音の現れる前に早速、彼女について書き出してみる。

 容姿の類稀なる事は、以前にも記した通り。その美貌の中に、儚げな、初音の面影が見て取れる。それも、彼女が瑠璃子の生前の姿を模して作られたと知った今、よくよく頷けるのだ。

 ただ一つ気に成るのは、彼女の目であろう。

 辰蔵の話によると、瑠璃子の遺体と彼女がすり替えられた事に、初音は気付かなかった。そうだとすれば、本物の娘に見紛うばかりの仕上がりは、当然。むしろ、それが美点であっても、人間離れした(めか)しは余計だと言わざるを得ない。

 そのはずが……。この人形の……彼女の瞳の色は、はっきりと朱味がかっているのだ。瞳という、まさに目立つ場所。初音に真実の露見する危険を、どうして、この様な形で残したのであろう。……それとも、本物の瑠璃子の瞳は、こんなにも朱かったのだろうか。

 長い黒髪にはやはり、人毛を使っている様だ。まさか、瑠璃子の遺髪でなかろうが……。

 試みに頭を撫でてみれば、そこは人形の髪だ。脂っ気は感じられない。しかし、初音の手入れが行き届いている事は、黒々とした艶と、手触りの滑らかさで感じ取れた。

 そして、この見事な人形の細工の中で……否、彼女の美貌の中で特筆すべきなのは、何と言っても、その肌であろう。

 彼女の身体が木で作られている事は記した。それと、木肌の白さにまんまと(あざむ)かれ、人形を死体と勘違いした阿呆の慌て振りも……。

 しかしながら、弁解や、言い訳だと取られる誤解を恐れず、彼女のやわ肌に関しては付記せねばなるまい。それこそが彼女に、人形離れした生命の痕跡を、そして、雪を欺むき、私の目も欺く程の白妙(しろたえ)を与えているのだ。

 彼女はいずれ名高い職人の手に成るものであろう。

 身に纏っている振り袖は加賀友禅(かがゆうぜん)と言う、この土地の伝統の染物。淡い桜色の上を蝶が舞う様子は、彼女のあどけない容貌に、そして、青い静脈が透けて見える白い肌に、馴染んで居る。……そうなのだ。私のこの目には、間違いなく見えて居る。

 着物の袖から覗く手首に、艶やかな黒髪の影に、薄らと青筋が……。

 彼女を遺体と誤解させた最たる原因は、まさしく、この青筋の存在なのだ。勿論、木を削って造られた人形に、血脈のあるはずはない。しかしながら、木肌にも筋ならばある。それは即ち、木目だ。

 驚くべき事に木目の一筋一筋が、恰も皮膚の下に透ける静脈の如く見える。しかもその濃淡は、意図されたもの様に、不自然さが見当たらないのだ。

 この肌を覆うのが木目であると知った今でも、そこに変わりはない。いいや、精緻(せいち)を極めた彼女の見事さを、益々、意識せざるを得ない。そして……これ程の美貌に引けを取らないと言う、それどころか、この容色と瓜二つだと言われる……瑠璃子を……。

 どうやら、少なからず名匠の傑作に当てられて居た様だ。しかしこれで、心置きなく、稔郷村を後にする事が出来るであろう。まぁ、とても、同士諸君への土産話には成りそうもないがな。

 教育係としての報酬は受け取らない積りでいるから、何の手土産も持ち帰れそうにない。……電車賃は借用という形を取ろうと思う。

 そこで、面白い話の二、三話くらいは、仕入れて帰れたならと思ったのだが……そうだ、辰蔵に聞かされた人魚の伝説があったではないか。

 あれならば、程々に神秘的で、程々に艶めかしく、安酒の肴として持って来いだ。

 そうと決まればまた、今晩にでも、辰蔵の家を訪ねてみようと思う。」


 「八月八日――昼過ぎ小降り。雨雲は白山の峰を昇り、溶けて夕虹へ変わる。

 辰蔵の家ですっかり長居してしまった。

 お糸さんは例によって祭りの準備へ駆り出され、話し相手のない宵の口を持て余していたそうだ。そこに都合良く私が現れたものだから、辰蔵の喜びようと言ったらなかった。

 日焼けした顔に子供の様な笑みを浮かべ、収穫したてのトマトを(ざる)一杯で勧めてくる。そうして、これでもかと私を歓待する様子も、実に楽しそうであった。多分、私も同じ様な顔で笑い返していたと思う。

 赤く熟れたトマト。その水気を口に含みながら、将棋に興じ、話に興じた。結局、将棋盤を挟み愉悦をむさぼる時間は、トマトを食べ尽くしても終わらず、お糸さんが帰る夜更けまで続く。

 泊っていけと言う辰蔵夫婦の申し出を断わり、駒のちらつく暗がりの中を歩み、荘野の家に辿り着いたのが夜半過ぎ。……初音が起きて待っていたのには、流石に面喰った。兎にも角にも、荘野の家へ戻ると決めた事は、正しかった様だ。

 しかし、辰蔵夫婦には随分と世話に成った。何の礼も出来ずこの村を去るのは、正直、心苦しい。『せめて、将棋の腕を上げてやる位の置き土産を……』と目論んでいたのだが、どうやら、こちらは上手く運びそうだ。

 ……やはり駄目だ。何とか気を逸らそうと、辰蔵の家に長居し、それを日記につけてはみたものの……どうしても頭から離れない。

 初音の一言が……笑って、私に語り聞かせるあの声が……。」

 

 「八月九日――晴れ。陽の目厳しさに、うね雲西の空へ逃げていく。

 瑠璃子の居室の明り取りからは、庭木の太い幹が見える。その堂々たる枝ぶりからして、この庭の役木であろう。

 松なのは一目で分かったが、一体、何松だろうかと気には成っていた。それが今日、離れの裏手に回った事で遂に、はっきりとしたのだ。

 やはり、あの木は唐松であった。私の思った通りだ。しかし……。

 初音はこの唐松の陰から中の様子を窺っていると、そう踏んで居たのだが……。こちらは、私の思い違いであったらしい。

 昨日の昼間、彼女が私に言った一言が忘れられない。

 いいや、そもそも、私が問題にしなかっただけで、初音はこれまでにも、奇妙な事を訴えかけてきていた。それが今更に成って、思い起こされる。

 何日か前の夕食の後、初音は私の部屋を訪れた。それ自体は特段、珍しい事ではない。彼女は時折そうして、指導を受けている間の瑠璃子の態度を尋ねに来るのだ。

 その面談は小一時間もすれば終わる。私の口から語られるのは、言うまでもなく、誰にとっても都合の良い創作。『理解力がある』、『集中力がある』、『学習意欲がある』と、そんな事を述べている内に、初音も胸を撫で下ろす訳だ。

 その後は、彼女の持参した茶を飲み、菓子を食べて、取り留めのない話に花を咲かせる。概ねは、初音の好奇心に応え、私が東京での生活を披露するのだが……。あまり自分の事を語ろうとしない彼女にも、積極的に話そうとする事柄が、否、私に聞かせようとする事柄があるのだ。

 〈先生が、ご本を読んでくれた。〉

 その日の場合は、瑠璃子が初音にそう言ったのだと聞かされた。

 何故かは知らない…。だが初音は、自分と瑠璃子の会話を、特に瑠璃子のする私の話を、私に聞かせたがるのである。

 『お前は瑠璃子に気に入られている』と聞かされて以来、この様な話題が出る度、私は薄ら寒い思いをしてきた。……それなのに、どうして今までは、その奇妙さに気付く事が出来なかったのであろうか。

 確かに、『本を読んでくれた』と言う程度ならばまだ、状況の説明はつく。

 私には気に入った文章を朗読する癖があるから……。繰り返し声に出している内、その一節が初音の耳へ届いたのかも知れない。

 だがしかし、昨日のそれは……初音がさも可笑しそうに、私へ言い放った一言は……聞き耳を立てられたでは片付けられない。

 昨日の昼間の事だ。初音はこれまで、決して、瑠璃子の前で二人の会話を漏らす事はなかった。当然だろう。何せ、娘の打ち明けた話を、面前で告げ口する様なものだ。……そう思い込み、私は完全に油断していた。

 私は自分でも知らぬ間に、二人との距離を縮め……。初音と瑠璃子のままごと遊びの輪へ、近付き過ぎていたのだろう。

 あの時、初音はにこやかに瑠璃子へ頷き、それから私の方へも同じ様に頷いて、こう言った。

 〈昨日は、先生に頭を撫でてもらった。先生は私を褒めて下さっている。瑠璃子は上機嫌で、何度でもこの話をする。〉

 完全に不意を突かれた私は思わず、コーヒーの入った真鍮(しんちゅう)製のカップに噛み付く。そして気付いた……カタカタと、歯がカップの縁にぶつかる小さな音で……自分は怯えているのだと……。

 まるで初恋に胸をときめかせる少女の如く、はにかみ、初音は続ける。

 〈この話を耳にたこが出来るほど聞かされる。それなのに、どうして褒められたのか、何を褒められたのか、瑠璃子は言わない。〉

 そう言いながらも初音は、艶美にすら見える訳知り顔で、『一体、私の娘のどこを褒めて下さったの、先生』と私に尋ねたのだ。

 その初音の表情に……やや上気した(なまめ)かしの奥に、あどけなさを見付け……。私にはそれ以上、空笑いを返す事が出来なかった。

 楽しげな初音の話し声を(さえぎ)り、『そろそろ指導を再開する』という様な事を言ったと思う。それで一先ずは、妙な話の流れを断ちはしたものの……。初音はそんな私の態度を、恥ずかしがっているとでも思ったのであろう。その後もしばらくは、居心地の悪さから解放される事はなかった。

 初めて瑠璃子を目の当たりにした日の、違和感、恐怖。今ならば、それが何であったのか、分かる気がするのだ。

 死体と見紛うばかりの精巧な人形。そこに戦慄を感じたのは間違いない。

 その人形を娘と同様に……否、娘そのものとして扱う母親。そして、彼女の……彼女たちのままごと遊びを受け入れ、協力さえも惜しまない村人たち。その姿に身の毛のよだつ思いをした。

 しかし、私の心底からの危惧は、どちらにも向けられてはいなかったのだ。

 どれだけ不自然であろうと、どれだけおぞましかろうと、そんなものは対岸の火事。自分はあくまでも他所者なのだと、私は安心しては居なかったか……。いつかは決めずとも、いずれは、そして自ずと、この村を後にする…半ば当然の如く、そう考えては居なかったか……。

 私は怖ろしさから目を背けていた。

 頭の片隅ではこの異常を理解しながら、今日まで、それを直視してこなかったのだ。……そう、どう考えたって、腑に落ちないではないか。

 何故、誰一人として私へ、初音のあしらい方に注意を促さないのか。

 彼女と瑠璃子に関する(いわ)れは、辰蔵から聞いた。だが、それっきりだ。それ以外には誰からも、何らの説明も成されない。これは可笑しい話しであろう。

 もしも私が、初音に対して『この娘は人形だ』と指摘していたら……人形だと言って譲らぬ強情っ張りだったなら……。初音の事を思うのであれば、その辺りには気を回し事前に、私へ注意喚起すべきはずだ。否、そうせずには居られないはずだ。

 それだと言うのに、誰一人そうしなかった。大志も、辰蔵も、お糸さんも、その他の村人たちも……誰一人、瑠璃子との初対面に臨む私に、忠告しようとはしなかった。

 腑に落ちない事はまだある。何故、誰一人として私へ、初音のままごと遊びを口外するなと言わないのか。……目下のところこちらが、私の危惧の最たる原因なのだ。村人たちの愛想の良さを、そして、荘野の家人が私に示す身内意識を、己の肌で感じているだけに……。

 いいや、もうこれ以上、考えるべきではあるまい。どうせ明確な解答の得られる事でなし。だいたい、全てが私の妄想で、皆が忠告めいた話をしないのは、信頼の表れという可能性もある。

 だがそれも、閉鎖的な村社会の事。結局は、身内の(よしみ)が付き纏う様だ。

 何にせよ、荷物は早めに纏めておいた方が良いだろう。万一の場合は八月十三日を待たず、この地を去らなければならない。

 逃げ出すのなら十二日の晩が良い。祭りの夜であれば、村人は皆出払う。私一人姿が見えなくとも、気に留める者は居ないはずだから……。」

 

 初音の何気ない一言が、彼の心中に点在していた不信を結びつけた。だが、私は思うのだ。彼の反応は(いささ)か、過剰なものではないかと……。

 彼の見たものは確かに、異常な光景であったろう。不健全であったかも知れない。しかしながら、初音が生きる為にそれを必要としている事は、彼も承知していたはずだ。村人の対応にある程度の納得を示してもいた。それを否定し、ここまで極端に、村から逃げる算段を始めるまでに、自分を追い詰めていく。

 恐怖の実体を掴もうとする彼のもがきが、闇雲な疑念が、日記の文面に色濃く表れ始める。


 「八月十日――快晴。焼けつく陽光の眩しさに皆、眉を(ひそ)め、顔付きは険しい。

 正午前の日差しが明り取りから入り込み、すっぽりと、瑠璃子を逆光の陰に沈めた。

 直視しないで済むのはありがたいのだがな……。この人形の放つ異様な気配は、覆い隠せない。

 日和も好く、本来なら読書には打って付けの環境。しかし、項を捲る手は重く、どうにも落ち着かない。そこで、こうして日記をつけている。

 頭を(よぎ)るのは、屈託のない初音の笑顔、親切な村人たち、そして、辰蔵の話してくれた人魚の伝説。

 一昨日の対面には、これと言って耳新しい話もなかった。まぁ、口伝えの説話なのだから、仕方のない事だろう。

 強いて、興をそそられた部分を上げるならば…。

 一つは、稔郷村を去った八百比丘尼の、その後の物語。しかしこれは、他所での言い伝え同様、『何処(どこ)ぞの岩屋に篭り、食を断って、自ら死を選んだ』と、型通りの幕切れを踏まえているに過ぎない。

 もう一つは、こちらも新鮮味には欠けるが、二日後に迫った人魚祭りの、その由来に関する話だ。

 何でも、この祭りでは厄払いの為、手取川へ人形を流すのだそうだ。そう聞くや、私の頭脳は無数の閃きに打ち震えた

 ははん、生まれた人魚を川へ流すと言う伝説は、雛祭りを参考にしたものだったのだな。

 弥生(やよい)の最初の()の日、女児の厄払いに川へ雛人形を流す。その風習が雛祭りと成った。おそらく、風習が全国へ浸透する以前に、この村の者が人魚と人形を混同した。あるいは、二つを引っ掛けて、雛祭りの儀式を自分たちの祭りに取り入れたのであろう。……ここ稔郷村が、人魚村と詰まって呼ばれているのだから……この仮説は十分にあり得る事だ。

 そして、目の前の瑠璃子の……この人形の事。こちらにも、成程、色々と説明がつく。

 この瑠璃子を作った人物。それは間違いなく、毎年の人魚祭りの為、厄払いの人形を作っている者なのだ。

 その人物と大志の間に、強い繋がりのあろう事は想像に難くない。それなればこそ、死んだ瑠璃子に生き写しの人形を作って欲しいと、依頼も出来た。そして村人たちが、人形の精巧さを、その様な人形を調達し得た大志を、不思議に思う事もなかったのだ。

 目の前が白んで見える程の閃き。次々と連鎖する知識や、小気味の良い発想。そこには確かに、ある種の満足感があった。だがしかし……。

 視界が晴れていくにつれ、私は不安を感じ始めていた。無論、うっかりと指してしまった悪手の事ではない。人形の瑠璃子の、あまりに見事な出来栄えを思い出していたのだ。

 果たして、可能なのだろうか。これ程までの傑作を、祭りの人形と並行し手懸けるなどという真似が……。いいや、それ以前の問題として、そんな真似を名匠の矜持(きょうじ)が許すとは思えない。

 あの日は、何とはなしに気が引けて、祭りで使う人形の事を詳しくは()かなかった。だから、川へ流す人形を名匠に依頼しているという当て推量は、まったくの見当外れかも知れない。

 だがそれでも、私の直感、胸騒ぎが正しいとすれば……流される人形は、(あだ)(おろそ)かな出来ではあるまい。何と言っても、粗雑な代物で良いのなら名匠に頼む必要はない。また、一度(ひとたび)名匠へ依頼したからには、妥協せよと言っても、通りはしないだろう。職人気質というやつは、そんなものだ。

 ……どういう積りで、こうも陰惨な想像をしたがるのか。そうまでして、何を否定したがっているか……私自身、判然とはしていない。だが、数多の閃きの先に見た幻影は、薄気味の悪いほど鮮明であった。

 人魚伝説、そして、瑠璃子を巡る遺体と人形のすり替え。私の考える経緯(いきさつ)は、こうだ……。

 荘野の家系は、病弱に生まれ付く者が多かったと言う。その中に人魚は居らずとも、蛭子神の如き奇形児は何人か居たのではなかろうか。そして、稔郷村では厄払いと称し、その子らの遺骸を川へ流していたのであろう。

 伝説では、川下に位置する揚郷村の住人たちへ、『人魚の子に手を出すな』と命じたそうだが……。これに関しては、辻褄(つじつま)を合わせる気にならない。どうあれ、胸糞の悪くなる様な理由に決まっている。

 さて、本題はここからだ。時代の移ろいによって、多くの風習が(すた)れていった。稔郷村の因習も、その例外ではない。特に『遺骸を川へ流す』などという事が、儀式であろうと、厄払いであろうと、いつまでも許される訳はなかろう。

 そこで、儀式を取り仕切っていたであろう、当時の荘野の家長が一計を案じる。

 〈他の風習の形を借りれば、ことに全国的な風習を倣えば、この儀式を存続できるだろう。模倣の対象には、『川へ流す』という類似点から、雛祭りが適当だ。これなら知名度も申し分なく、身代わりの人形を流す事で、厄払いの方も期待できる。何より、官憲の目溢しも得られ易いであろう。例え流される人形が、死んだ子供の生き写しであろうとも……。〉

 日が高くなってきた様だ。明り取りからの日差しが弱まり、随分と、手元が怪しい。だが、代わりに瑠璃子の顔がはっきりと見える。

 私の予想した通りであれば、正面にあるのは厄払いの為に作られた人形。問題は、この瑠璃子は既に川へ流されているのか、それとも、これから流されるのかという事だ。しかし……私は一体、何をこんなに不安に成っているのだろう。

 もしも、瑠璃子がこれから川に流されるのであれば……結構な話ではないか。それで、村の厄払いが済み、私もお払い箱。授業料代わりの足代を賃借し、大手を振って東京に帰れば良いではないか。それを、どうして……初音と離れるのが惜しいと言うなら、まだしも……こんな、人形に魅入られた訳でもあるまいが……。

 まったく、私とした事がどうかしているな。こうなるとまるで、誰かに聞かされるままに、物語を(つづ)っていた気さえしてくる。

 そうだ。今日記したのは全て、夢想なのだ。元より、何一つとして根拠のない事。退屈な時間のもたらした、気の迷いに過ぎぬ。だから、これ以上、妙な勘ぐりは止そう。どの道、遅くとも十三日には、辞意を伝える積りで居る。それまでの三日、じっと、目を瞑って過ごせばよいだけの話ではないか。折角の夏祭り、無理をして掻き回す必要はないのだから……。

 しかし、案外と、私の発想力も捨てたものではないな。東京に帰ったなら学部を辞めて、いっそ、ここで得たものを元手に、小説家を目指すのも良いかも知れない。」


 「八月十一日――晴れ。蝉騒の夏空に、狐の嫁入りが涼を運ぶ。

 初音より意外な申し出を受ける。

 〈明日はいつも通りに、午前中から瑠璃子の指導を行って欲しい。そして、もし承知してもらえるなら、指導の終わる夕方以降も離れで、瑠璃子と一緒に居てはくれないか。〉

と、言うものだ。

 詳しく事情を訊いたところ、人魚祭りには原則、荘野の者は全員参加せねばならないらしい。実際、去年までは、瑠璃子も祭りに参加していたそうだ。……つまり、去年の今頃までは、瑠璃子本人が存命だったという事だろうか……。

 しかしながら、今年の瑠璃子は……初音の中では…病弱な為、祭りに参加させられない。当然、荘野の屋敷に残して行く事に成る。それではあまりにも心配だから、私も居残って、瑠璃子の面倒を看てやれと……要するに、そう言う話なのだ。

 勿論、人形が面倒を起こそうはずもない。したがって、私が番をする必要もありはしない。だが、私はこの頼みを受けてやった。

 一つは、村から逃げ出すのに都合が良かろうという考えから……。まぁ、あくまでも、明晩に逃げるのであればの話だ。

 一つは、初音の必死な様子に押し負けて……。こちらの方が、深刻な理由である。そう深刻だ。

 あの晴れた日、底が抜けた様な青空の下。丸の内駅舎前で初めて、彼女に出会った。一目その姿を見たときから、薄々は気付いていたのだ。どうやら私は、初音に惚れているらしい。

 今にして考えれば、思い当たる節がある。否、思い当たる節だらけだ。

 のこのこと、この村へ着いて来た事が手始め。人形の瑠璃子を見せられて置きながら、今日まで、逃げ出すどころか文句一つ言わずに、指導の真似事こなしてきたのが良い証拠だろう。

 そこには、初音に良く思われよう、恩を売ろうという意識があったに違いない。そして、もっと浅ましい腹積もりも……初音の弱みを握ってやろうという魂胆も、隠れていたのかも知れない。まぁ、色恋沙汰を持ち出して、金に釣られた事を否定する気はないのだが……。

 それでも、やはり、初音に心奪われているのを否定できない。

 初音が私の部屋を訪れたのは、今朝早くの事。起き抜けの私に詰め寄ると、そのまま畳に手を突き、瑠璃子の面倒を看てくれと頼む。

 ようやく布団から這い出したばかりの私は、彼女に請われるがまま承諾した。にじり寄るその圧力に屈したばかりではなく……予てより、居残った方が都合は良かろうと思ってもいたのだ。

 兎にも角にも、私の色好い返事を受け、初音は安堵していた。それと同時に、気抜けしたのだろう。

 私の喉元まで詰めたその距離で、

〈無理を言ってすまない。本当なら、より村の雰囲気に慣れてもらう為にも、お前には祭りを楽しんでもらいたかった。お前が荘野の縁戚ある事を含めて……。しかし瑠璃子が、『先生も一緒に居て下さるのなら、我慢できる。大人しく、母さまのお帰りを待っています。』と、そう言うのだ。お前は甘やかし過ぎていると思うかも知れないが、一年中、晴れた日も、雨の日も、居室から外に出られない娘が不憫(ふびん)でしょうがない。せめて祭りの晩くらいは、瑠璃子の思う通りにさせてやりたいのだ。〉

と、私の鼻先で(うつむ)いていた初音が、艶めかしく、ほろ苦い笑い顔をこちらへ向けて、

〈それにお前と一緒なら、約束を守り、瑠璃子は大人しくしているはずだ。(しと)やかな娘で通してきた努力を、台無しにしない為にも……。〉

 それから、(とぼ)けた様にもう一言。

 〈そうそう、お前とあまりベタベタするなとも約束させられていた。〉

 そう言うと初音は、『言いたい事は分かるだろう』と続ける様な笑みを残し、背中まで強張らせた私から身を離していく。……あぁ、よくよく分かったよ。離れ行くその姿の名残り惜しさに、思わず両方の肩が震えた瞬間。お前を離すまいと、抱きすくめようとした自分に気付いた……。

 私は荘野初音を好いている。

 そう開き直ってみれば、これまでの自分の短慮、得体のしれぬ怯え、そのどちらにも合点がいく。

 初音のこれまでの言動から、瑠璃子が私に対して好意を抱いている……初音の中ではそう成っている…のは、承知していた。ままごと遊びでは、よくある展開と言えるだろう。

 しかし、そんな児戯の如き初音の……いいや、瑠璃子の一言一言を、私は何故か単純に片付ける事が出来なかった。まぁ、それも仕方の話だ。人形が語る言葉は、取りも直さず、人形に息吹を送り込んでいる者の言葉。初音の心に浮かんだ、彼女自身の言葉なのだから……。

 思い返す程に、初音の存在を意識してきた私だ。自分の思いに無自覚だったとは言え、彼女の口から出る妖しい言の葉を、聞き捨てに出来ようはずはない。

 そして、瑠璃子が厄払いの人形だったとしたら、川を流されるのだとしたら、そう考えた時の不安。あれは、初音との間を取り持つ唯一のものを、細い繋がりを失う事への焦燥感であったのであろう。

 だからこそ、瑠璃子を怖ろしいと感じ、この村を去らねばと反発する心が生まれた。

 全ては一人の女に心酔する自らへの、反感だったのだ。それに気付いた今ならば、瑠璃子を……人形などではない……初音の娘の瑠璃子を、心から愛おしいと思える。何故なら以前に記した瑠璃子の美点。

 青筋の透けるほど白肌、艶やかな黒髪、そして名匠の細工を思わせる端正な容貌。それらは瑠璃子の美点であり、同時に、私が初音に感じていた美点でもあった。私はそうして、瑠璃子の向こうの存在を、初音の美しさを見つめてきたのである。

 同士諸君には、すまないと思う。しかし、自分の感情に気付いてしまったからには、おめおめと東京へ逃げ帰る訳にいかない。」


 自身の胸中を掻き乱す感情を、彼は初音への思慕の情だと納得した。それならば確かに、湧き起こる情動の多彩さ、極端さに、一応の説明はつく。だがしかし……。

 彼が初音へ思いを寄せているのは、偽りではあるまい。それだとしても、日記の文面に感じられる結論を急ぐ様な、逃避的な印象はなんだろうか。

 日記は八月十二日の、人魚祭りの晩へ項を移す。

 

「八月十二日――晴れ。日は沈んでも、日足の蒸し暑さ長い尾を伸ばす。

 時折、遠雷の様な花火の音が耳に届く。年に一度の祭りとは言え、随分と張り込んだものだ。

 残念ながら夜空に咲く大輪の花を、この離れの明り取りからは見る事は出来ない。見えるのは、残光に霞む星々の瞬きだけ……。こうして星空を見上げるのも久しぶりだ。

 戦中、日本を遠く離れた外地でもこんな風に、よく星空を見上げて居た。先の見えない不安を紛らわす為……そう言うと、何やらセンチメンタルなものと聞こえるが……実際は、夜中にやる事がなかったのと、空腹で寝付けなかったので、星でも見ているしかなかっただけの話。

 あの頃の粘つく汗の感触を思い出しそうで、ずっと、星空を見上げるのを避けてきた。だが……。

 先の見えない不安に目を曇らせていた、あの頃。あの頃には考えもしなかった。考えられようはずもなかった。こんなにも満ち足りた気持ちで、穏やかに、星空を見つめられる日が来ようなどとは……。

 私は結局、この村を逃げ出すのを止めた。この離れで瑠璃子と二人、初音が帰るのを待つ積りでいる。

 初音は出掛けに、西洋式の燭台と蝋燭を二本、後は、

〈火の管理には十分気をつけて下さい。それから、大したものはないでしょうけど、夜店で売られている食べ物を幾つか買ってきますからね。瑠璃子、譲さんに……先生にご迷惑をかけない様、お行儀よくしていなさい。〉

と、そう言い置いて行った。まぁ、初音からそうして厳命された以上はここで、私も、瑠璃子も、大人しく待たざるを得ない。自慢する程の事でもないが、何を隠そう私も、大志に負けず劣らず食い意地が張っているのだ。

 今しがた聞こえた喧騒と、連れ立って歩く足音が、遠退いて行く。人魚祭りの山場である、人形を川へ流す儀式に向かったのであろうか。

 不意打ちの様な足音に、一時は、瑠璃子を連れ去ろうとしているのかと、肝を冷やしたが……。どうやらもう、その心配はなさそうだ。私は大息を吐き自然と、瑠璃子の頭を撫ででやっていた。

 今夜は祭りの晩だ。瑠璃子もそれに相応しく、(めか)し込んでいる。

 藤色の生地に白い水仙のあしらわれた浴衣は、着物としての格では普段使いの振り袖に劣るものの、この娘の朱い瞳に映える。

 頭にのせた大きなリボンがまた、愛らしい。帽子ほどの大きさのそれは、着物と同じ藤色の布地を白いレースで縁取られている。心持ち不格好と見える作りさえも、愛嬌(あいきょう)に一役買っているからすごい。それにしても、裁縫はあまり得意でないのかも知れないな、初音は……。まぁ、男も独り所帯が長いと、無用なところに目敏(めざと)く成る。これが、その良い例であろう。

 ままごと遊びをしている内に、蝉の鳴き声が戻る。いつの間に、これほど人気がなくなったのやら……。聞こえるのは虫の声と、白紙を引っ掻くペン先の音だけだ。

 祭りの一団はそろそろ、手取川へ行き着き、人形を流したであろうか。儀式には一体、どのような形姿(なりかたち)の人形を用いたのだろうか。瑠璃子の身の安全が確保されて……今更ながら、痛く好奇心を催している自分に気付かされた。

 加えて気に成るのは、人形の姿以外にもある。川へ流された後で、人形たちを待ちうける運命。その辺りには、正直、大いに興味をそそられる。

 そうは言っても、人形が粗雑なものであった場合は、(わら)人形や、紙で作られた人形であった場合は、考えるまでもなかろう。

 私が興味を覚えるのは、人形が名匠の手に成る逸品であった場合の話だ。

 厄払いに使われた人形なのだから、凶事を招かぬ様、多くは通り過ぎるに任せるはず……。しかしながら、目の前を流れて行くのは、瑠璃子と同じ……とまではいかないか、手本となる者の器量もある事だし……まぁ、とにかく、傑作と呼ぶに相応しい人形が、手で取れる所へ来るのだ。

 好事家(こうずか)に売れば、良い稼ぎに成るのは間違いない。不心得者が助平心を起こすのには、それで充分であろう。

 勿論、そうはさせない為にも、大志を始め、荘野の者たちは手を打つ。だが、そうして睨みを利かせたとして、海まで流れ着く人形は幾らもなかろう。……と、ここまで筆を進め、ようやくと気付いたのだが……これではまるで、稔郷村人魚伝説の焼き直しではないか。どうやら、以前に記した小説家を目指すと言う妄言は、撤回しなければなるまい。

 ただ……妄言の吐き納めに、もう一つだけ胸中のわだかまりを記す。

 もし瑠璃子が厄払いの人形なら……そして、その役目を果たしているとしたら……瑠璃子は……この人形は、災厄を宿している事と成る。のみならず、荘野の者たちはそれと承知で、この人形を川より拾い上げ、初音に与えた。……まぁ、妄言は、あくまで妄言に過ぎはしない。

 そろそろ、筆を休めるとしよう。初音が忍び足で近付いて来るのに備え、瑠璃子とのままごと遊びを再開せねばならないからな。それと、お遊びのお遊びに……そのまたお遊びのついでで、『私はお前の母さんを好いているのだ』と、瑠璃子に告げておくのも悪くはないだろう。いつか初音へ思いを打ち明ける、その手始めとして……それから、私に好意を抱いてくれているらしい瑠璃子への、けじめとして……。

 だがその前に、気付け薬代わりの煙草を、一服つける事にする。」


 「八月十三日――晴れ。人魚のそれを思わせる(うろこ)雲、祭りの名残りの如く空を流る。

 昨夜の、祭りから帰った初音は上機嫌であった。

 肩の荷が下りたかの様な、気持ちの良い笑顔を浮かべて、

〈お陰さまで、恙無(つつがな)く運びました。〉

と、熱く、大きな吐息を漏らす。祭りでは随分と飲まされたのであろう。

 私もそれを聞いて、初音の上気した顔を見て、素直に良い事だと思えた。しかし……そんな初音の(ほが)らかさが、一夜明け、一変する。

 今朝早く、初音が私の部屋に駆け込んで来たのだ。

 彼女に夜討ち朝駆けを受けるのは、別段、珍しい事でもない。だが今朝は、その血相からして違っていた。

 普段であれば、こっくりっ、こっくりっと、舟を()ぐ要領で頷き返すだけの私も……。その蒼白の顔色を見せられては、眠気など何処(いずこ)かへ吹き飛んでしまう。

 まず何よりも先に、倒れ込みそうな彼女の肩を支え、深く息をするよう促す。それで白い頬にも、多少の血の気は戻った。

 この腕に身体を預けながら、彼女は涙を流して私への非礼を詫びた。それから、ゆっくりと、朝駆けの理由を口にする。

 所々で、しゃくり上げ、嗚咽が混じる。その為、話に取り留めがなく、言葉の途切れた部分では何度か、こちらから問い直す必要があった。

 そんな初音の話を要約すれば、

〈瑠璃子が昨夜から口を利いてくれない。祭りに連れて行かなかったのを、拗ねているのだと思う。これまでも、そういう事はなくはなかった。そうは言うものの、こんなにも長く、こんなにも頑なに、喋ろうとしないのは初めてだ。もう自分には、どうしたら良いのか分からない。しかし、お前にならば気を許し、何を不満に思っているのか、瑠璃子も打ち明けてくれるかも知れない。だからどうか、本心を話す様、瑠璃子を説得してみて欲しいのだ。自分ではきっと、厳しく叱ろうにも、結局は甘やかす方へ向いてしまう。それでは、誰より瑠璃子の為に成らない。〉

と、こう成るのだが……。つまり、瑠璃子から悩みを聞き出して、その上で機嫌を直す様に諭して欲しいと……どうやら、初音はそういう事を私に望んでいるらしいのだ。

 さて、これはどうしたものか。人形の悩みを聞く事は勿論、諭すなどという真似が私に出来る訳もない。

 『首尾よく、瑠璃子を説得する事が出来た。』と伝えて、それで、初音が納得してくれれば良いのだが……。」

 

 稔郷村に残ると決めた矢先の、予期せぬ不協和音。日記からは、彼の苦しい心境が伝わってくる。

 本当ならば彼も、決意を新たに、清々しい気持ちで八月十三日を終えたかったであろう。だが、事態は更に、彼の予期せぬ方向へと進んでいく。

 

 「八月十四日――快晴。空の鱗雲は溶け消えても、未だ、我らを取り巻く暗雲は消えず。

 本心を述べると、微かに……この村に留まったのを後悔している。

 昨晩、私の部屋を訪れた初音に、私は『授業を受ける態度はいつもと変わりない。だが、どうして拗ねているのかを、話してはくれなかった。』と、瑠璃子の様子を伝えた。

 これは言うまでもなく、作り話である。そして、作り話であればいっそ、初音の喜びそうな物語をでっち上げても良かった。しかし……これまで良い様に彼女を偽っておいて、意気地のない……それでも小さな不安が、私を躊躇させたのだ。

 初音はその端正な顔に、ありありと失望の色を浮かべていた。

 私に気を遣ってだろう。しばらくは世間話に花を咲かせ……しかしその花も、長くは(つぼみ)を開いて居られなかった。足早に立ち去る後ろ姿も痛ましく、私の胸を締め付ける。

 一昨日までは、順風満帆な未来を夢想し、疑う事もなかった。今更ながらに、自分の浅はかさを恨めしく感じている。

 この問題を時間が解決してくれる様に……明日の朝、屈託のない初音の笑顔を見られる様に……ただ祈るしかない。」

 

 八月十四日の日記は、太く、(いか)めしい、殴り書きの文字から始まる。だがしかし、移ろう彼の心情を表わすかの如く、その筆圧はじわじわと衰えていく。

 最後に蚯蚓(みみず)がのたくった様な文字を残して以降、八月十五日、十六日の二日間。日記は付けられていない。


 「八月十七日――雨。何日か振りお湿りに村人活気付く、だが、私と初音にとっての喜雨とはならず。

 ここ数日で、目に見えて初音はやつれてしまった。瑠璃子は頑なに、彼女と話すのを拒み続けているそうだ。

 小休止の折には、いつもと変わらぬ笑顔で……いいや、私を心配させまいと無理に作った笑顔で、コーヒーとクッキーを運んで来る。カップを手渡す彼女の手。その手首が、一回り細く成って見えた。

 どうして初音が……どうして彼女が、この様な仕打ちを受けなければならないのか。否、そうでない事は、私も解かっている。瑠璃子が人形である以上、瑠璃子に語らせないのは初音であり、初音こそが彼女自身を責め苛んでいるのだ。

 そうと分かっていても、私にはどうする事も出来ない。……理由があるのだ。

 これまでと同じく、日中は、私が瑠璃子の指導をする。初音はそれを望んだ。そうして、これまで通りの時間割を過ごす内、私は気付かされた。初音にとっての瑠璃子が、まさに生命線であると……。

 離れの居室で、私、初音、そして瑠璃子の三人は、昼食と小休止に卓子を囲む。その時、初音が運んでくる膳は二つ。小休止で出されるコーヒーも、茶菓子も、必ず、二人分だけだ。

 彼女の中でそれらは、私と瑠璃子の為のもの。彼女自身の分は別勘定で、自分は既に食べ終わったと思い込んでいるのだ。

 それでは一体、瑠璃子の分を誰が食べるのか。当然、初音が食べるのだ。

 無意識にそうしているのかは分からない。しかしながら、瑠璃子と楽しそうに喋りながら、パクパクと、箸で器用に食事を口に運んでいる。それでいて少しも下品に見えないのは、流石と言わざるを得ない。小休止の、コーヒーと茶菓子でもそれは同じだ。

 だが今は……。瑠璃子は初音と口を利かず、食事も取ろうとしない。その結果、初音が食事をする機会も失われている。おそらくは、昼食だけでなく、朝食も、夕食も……。

 瑠璃子はそれで良い。人形が口を利かないのも、食事をしないのも、当たり前の事なのだから……。しかし人間である初音は、それではいけないのだ。

 口数が減り塞ぎがちに成っているところへ、食事も出来ず……弱り目に(たた)り目とはこの事であろう。自ら食を断った八百比丘尼でもあるまいに……。

 いいや、自ら不吉な想像をするのは止めよう。凶事を呼ぶ元だ。そんな事より今は、初音に少しでも食事をさせる。私がやるべきは、それであろう。」


 「八月十八日――快晴。澄み渡る青空、爽やかな日差し、ただただ憂鬱な影を落とす。

 『また貴女と、(みぞれ)が食べたい』。そう私から初音にねだった。

 初音は最初、食を断っている瑠璃子に……彼女の中ではそうなのだ……遠慮している様だったが、何とか承知してくれた。

 氷水を食べたところで滋養にはならない。それに、食を断った身体には刺激が強いのではないか。私は悩み抜いた末、『せめて水分だけでも』という思いから、彼女へ申し出る事にしたのだ。

 ガラスの器に盛られた霙は、甘く、冷たく……。初音は、ゆっくり、ゆっくり、冷えた手を日差しで温めつつ、氷水を一杯だけ食べきって、それ以上は口にしなかった。

 お糸さんは目に涙を溜め、幾度も、私へ礼を言っていたが……こんな事に、何程の効果があるのだろう。

 私は初音の窮状を知りながら、こうして今も、瑠璃子の相手をしている。話す事も、食べる事もしない、この人形の……。

 一度は愛しいとすら感じた瑠璃子が、今は、ただただ憎たらしい。こんな物がなければと、本心から思っている。しかし、瑠璃子を遠ざけるなど、初音が許さないであろう。

 奇妙な話だ。いいや、奇妙な話は初めて瑠璃子にあった日から、ずっと、続いている。私がこんな風に思うのは……瑠璃子が初音を苦しめようとしている……そう思うのは、奇妙な話の続きなのだ。

 祭りの晩に考えた人形の行く末も、瑠璃子の沈黙も、全てが繋がって感じる。だからいっその事、この人形を川へ流してしまえたなら……。」

 

 傍らに感じる初音の衰弱が、少しずつ、しかし確実に、彼の精神を蝕んでいく。

 『瑠璃子が初音を苦しめようとしている』……彼のその不安は、(あなが)ち間違っていないのかも知れない。なぜなら、彼はこれまでにない程、瑠璃子の事を考えているのだから……。

 ここから先、日記への注釈は省かせてもらった。どうか自分の目で、日記の結末を、稔郷村で起こった怪事件の真相を、読み解いて欲しい。


 「八月十九日――雨。時ならぬ激しい雷雨、話し声すら掻き消すも、夕暮れ時には西日が覗く。

 今朝遂に、初音は起き上がる事が出来なくなった。

 いつまで経っても姿を見せない彼女に、心配した使用人の一人が寝所を訪ねたそうだ。そして、か細い息を吐き、悪夢にうなされる彼女を、慌てて揺り起こしたのだとか……。

 今日、私は未だ初音に会えていない。事の成り行きは全て、お糸さんから伝え聞いたものである。

 お糸さんは更に、初音からの伝言を携えていた。曰く、

〈この雷で瑠璃子が怯えているだろうから、申し訳ないが、少し早めに離れの方へ行ってやって欲しい。〉

 おそらく、瑠璃子の元へ向かいたがった初音を、お糸さんが説得してくれたのだろう。

 私からもお糸さんに『承知した。瑠璃子の事は自分が面倒を看るから、貴女はお糸さんの言う通りにしていて下さい。』と、言伝を頼んだ。私一人ではきっと、初音を寝かし付けて置けなかったはず……お糸さんには、感謝してもし切れない思いでいる。

 そうそう、お糸さんに感謝せねばならない事が、もう一つあった。朝食の膳と共に、何よりの朗報を運んで来てくれたのだ。

 初音はお糸さんの作った梅粥(うめがゆ)を、二杯も食べたらしい。……まぁ、私が『瑠璃子と朝食を共にする約束をした』と、そう告げて、彼女を言い包める臨機応変さには苦笑を禁じ得ないが……。

 何せよ、何にせよだ。初音が食事を取ってくれて、本当に良かった。いいや、私にとっては、良かったなどという生易しいものではない。助けられた……助かった……本心から、そう思っている。

 これで一先ず、初音は持ち直してくれるだろう。しばらくの間、私はこの離れに居座る事となるだろうが……。そうだとしても、初音が元気に成るのであれば構わない。体力を戻し、元気に成ったなら……彼女はまた、瑠璃子の傍らへ戻り、瑠璃子の為その身を削るに違いない。

 再び瑠璃子が初音に語り掛けるとしても、結果は同じだろう。いずれ、瑠璃子の存在が初音には、支えではなく、重荷と成る。その前に……初音が、瑠璃子と心中しようなどと考えるその前に……どうにか、瑠璃子の存在を除かなくてはならない。これはまさに、厄払いと言えよう。

 降り止まぬ雨の音に浸り、私は夢想している。

 外は水田の修繕に大童(おおわらわ)であろう。村の男連中は皆、(みの)を着込み、笠を被り、誰が誰やら分かるまい。その最中を、彼らと同じ格好をした私が通り過ぎていく。蓑の下には瑠璃子を背負い……。そして、首尾よく手取川に辿り着いた私は、濁流の中へ瑠璃子を放り込むのだ。

 我ながら、惚れ惚れする様な見事な計画である。無論、瑠璃子が居なくなれば同時に、私もこの村における居場所を失うであろう。しかし、初音が助かるのなら、それも仕方あるまいと……まったく、埒もない。

 明り取りから目の(くら)む様な夕陽が差し込む。これで今夜は、この離れに寝泊まりせずとも済むだろう。……こんな夢想を寝床まで引き摺る事もなかろう。」


 「八月二十日――快晴。昨日の雨が嘘立った様な日照り、柔い土の香が鼻腔をくすぐる。

 瑠璃子の指導の前に、初音の部屋を訪れる。彼女は、離れに寄り添うあの唐松の方を見ながら、(しき)りに瑠璃子の心配をしていた。

 そんな時、『瑠璃子は大丈夫』としか励ます事の出来ない自分を、情けなく感じる。

 気分直しと言う訳でもないが、午後は、庭園を散策した。稔郷村を訪れてより、日中は瑠璃子を前で指導の真似事。一度は日の高い内に、じっくりと眺めてみたい。常々、そう思っていたのだ。

 ……それに、少々の悪戯心も手伝った。あまりにも唐松の方を気に掛ける初音を見ている内……以前に抱いた好奇心が、ぶり返してくる。あの時の私は、てっきり、『初音は唐松の陰から、離れの様子を盗み聞きしている』のだと思っていた。だがそうではなく、何らかの装置が隠されているとしたら……。例えば録音機の様な物が、唐松のどこかに忍ばせてあるとしたら……それなら、どうだろうか。

 我ながら子供染みた考えだとは思う。しかし満更、根拠のない話でもない。

 最大の根拠は初音の素振りだが、もう一つ、昨日降った豪雨が上げられる。あの雨で装置が支障をきたした。あるいは、装置が露わに成っては居ないか、懸念を抱いている。初音の落ち着きなさの理由は、そこにあると……そう、私は考えた訳だ。

 幸い、初音はお糸さんの言い付けを守り、彼女の部屋で眠っている。ならば、好奇心を満たすのに、この機を逃す手はなかろう。……どんな児戯であろうと、この人形とのままごと遊びよりは好い。

 


 昼間の探索の件、筆を足しておく。唐松を(くま)なく調べたが、装置らしき物は見当たらなかった。しかし、湿って柔らかく成った唐松の根本に、木の板か、木の箱の様な物を見付ける。

 全容は掘り返してみなければ分からないが、かなり大きい。浅く埋められているのは、すぐに掘り出せる様にだろう。それでも、素手で掘る訳にもいかなそうだ……。

 これから、(くわ)か何か、手頃な農具を探してみる積りでいる。」


 「八月二十一日――曇り。星空を見ずに済みそうだ。

 私は間違っていた。それは(くつがえ)し様もないと言うのに、どこで間違ってしまったのかと、そればかり考えてしまう。

 初音の呼び出しに応じた事……この村を訪れた事……私を好いてくれた瑠璃子を、彼女の言葉を信じてやれなかった事……初音を愛してしまった事……唐松の根元を掘り返した事……。

 自分の行いが(ことごと)く間違いだと知りながら、それでも、どこで間違ったのかを考えずにはいられないのだ。

 瑠璃子……。彼女こそ、真に私の身を案じ、幾度となく私へ語り掛けてくれていた。そして私の為、母親の命すら奪おうとした。

 私がもっと早く、そんな瑠璃子の思いに気付けていたら……あの祭りの夜、瑠璃子が伝えようとした事の意味を理解できていれば……そして、祭りから私を遠ざけた初音を、怪しむ事が出来たなら……。悔やまれてならない。

 この日記は風呂敷で包み、離れの床下に隠しておこうと思う。見つかるのが早ければ、誰かの目に触れる機会があるかも知れない。これが、私と瑠璃子の……厄を背負わされた者の、ささやかな抵抗と成る日を祈る。

 荘野の者たちは寝静まった様だ。使用人たちが起き出さぬ今が、動き出す頃合いであろう。

 この行為によって、私が村人からどの様な目にあわされるか……。あるいは、命を奪われるかも知れない。

 しかしながら、瑠璃子から厄を払い落とすこと以外、私には罪滅ぼしのしようがない。もう、どうしようもないではないか……。

 結局、辰蔵の将棋の腕を上げてはやれなかった。今はただ、それが心残りだ。」


【巻末に寄せて】

 ここまで読み進めてもらった事に、まずは、感謝を述べたい。そして、東雲譲(しののめゆずる)の日記を先入観なく読んでもらう為、あえて伏せていた『怪事件』をここに記す。

 〈昭和二十二年八月二十三日、石川県石川郡揚郷村(ようごうむら)を流れる一級河川、手取川で男の水死体が上がった。

 男は東雲譲と言い、東京の大学に籍を置いている。地元の人間の話によると、譲は当時、親戚である荘野家を頼って、近在の稔郷村に住みついていた。だが、稔郷村の住人のほとんどは、譲と面識がなかった。荘野家の者ですら、『譲は病気がちだった。いつもそれを苦にしていた』と答えるに留まっている。

 これだけを聞けば、病気を苦にした入水自殺と考えられなくもない。しかし、当局にもそうとは片付けられない理由が、そこにはあった。

 上がった死体は、二つあったのだ。

 譲の死因が明快な水死であるのに比べ、もう一人の死体に関しては、断言するのが難しかった。それと言うのも、もう一人の死体は既に木乃伊(みいら)化しており、身元すら分からない状況で、医者の所見により十代の女性である事が分かったのみであったからだ。

 二人の遺体は、譲の背中に女性の木乃伊が負ぶさる形で、川縁へ打ち上げられていた。

 この様に奇怪な事件が、物見高い世間の耳目を集めぬ訳はない。当然、『病気を苦にした青年が木乃伊と心中』、『人魚村の祟り』などと騒ぎたてられ、日本中で一大センセーショナルを巻き起こす事に成る。

 しかし、この怪事件の、怪事件たる所以は、ここからだ。

 譲の水死体が上がってから、二ヶ月後。譲の同輩並びに大学関係者の嘆願により、当局の捜査が荘野の屋敷に及ぶ。

 その家宅捜査の折、屋敷の離れで不気味な物が発見される。それは二つの人形であった。

 人形の一つが東雲譲の生き写しであった事が、まず、捜査員たちを震え上がらせた。そして……もう一体の人形が、年の頃は十二、三歳の少女の姿をしているのに気付くと……捜査員たちの恐怖の念は、頂点に達したのだった。〉

 

 これが世に知られる、稔郷村の怪事件のあらましである。

 家宅捜査で見つかった二体の人形について、荘野の家人は厳しい追及を受ける事に成る。しかし不気味な人形の存在以外、遂に、譲の死に繋がる証拠は見つからなかった。

 譲の背負っていた少女の木乃伊も、彼が墓地から盗み出したとされ(当時はまだ、土葬が珍しくなかった)、この事件は結局、気を病んだ男の入水自殺で決着する。……怪事件の現場という新たな伝説と、『人形村』という不名誉な通り名を、私の故郷に残して……。

 彼の日記は、当局の家宅捜査で見つかった。それが巡り巡って私の手元を訪れ、そして今、貴方の目に触れている。ある意味では、私も、貴方も、事件の当事者と言えるのかも知れない。それ故、貴方には知る権利があるだろう。この怪事件を読み解く為の、最後の一欠片……。離れの床下から見付けられた日記の、白紙の項を捲り終えた先に……その最後に、ひっそりと記された一文を…。

 そこには、こう記されていた。

 〈いつまでも お待ちしています 先生 〉

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