第9章:終わらぬ声
朝の空は雨を迷っているような色をしていた。織乃は窓を開け、肌に触れた空気の重みで今日の街の雰囲気を先に感じた。空は、濡れてはいないのに乾いていない、言葉を決める前の沈黙のような朝だった。
机の上には水鞠透李が選んだ本が置かれていた。読み終えたはずなのに、表紙を見るたびにまだ続きがある気がした。それは、物語の続きではなく、自分の中に残された言葉の続きだった。
鞄に本を入れる。
入れなくてもいい。
もう感想は伝えた。
それでも織乃は本を置いていけなかった。持っているだけで、透李との会話に細い糸が残っているような気がした。
外に出ると、東京の朝は少し湿っていた。駅に向かう道の端で自転車のブレーキ音が短く響き、近くの植え込みから土の香りが漂ってきた。織乃は鞄の重さを肩で受け止めながら、いつも通り駅に向かって歩いた。
今日は会えるだろうか。
そう思うことに、もう言い訳ができなかった。
雨の日だからでもない。
本の話があるからでもない。
名前を知ったからでもない。
ただ、水鞠透李に会いたい。
その言葉は胸の奥で静かに形になりかけていたが、織乃はまだそれを声には出さなかった。しかし、もう見ないふりはできなかった。
神楽坂の駅を出ると、空は低いままだった。街は朝の準備を始めており、店先の布看板が風もないのにわずかに揺れていた。湿った空気には、古い木の匂いと焼ける前の小麦の匂いが混ざっていた。
いつもの角に透李はいなかった。
織乃は歩幅を落とさなかった。
落とさないようにした。
胸の中で何かが小さく崩れた。会えない朝はこれまでもあったが、今日はその空白に名前がある。「水鞠さんがいない」と思った瞬間、朝の道が急に広く感じられた。
出版社に着くと、入口のガラスに淡い影が映った。織乃はそこにいる自分を見て少しだけ目を逸らした。待っている顔をしている気がした。
机に鞄を置き、本を取り出すか迷ったが、結局出さなかった。鞄の中にある方が誰にも見られず、心臓に近い気がした。
仕事は重かった。
原稿の確認、著者への連絡、印刷所から戻ってきた修正原稿の整理。紙の白さはいつもより硬く感じられ、鉛筆の線も強く残る。織乃は作業を丁寧に進めたが、心だけが何度も窓の外へ出て行ってしまった。
連絡先は、まだ知らない。
前の夜、そこまで近づいた。
けれど交換しなかった。
怖いと言った。
透李も怖いと言った。
それは優しい停滞だったのだと思う。急がないための、壊さないための時間。しかし、今朝その時間が少しだけ苦しかった。
会えないときに声が届かない。
その事実がこれほど心細いとは思わなかった。
昼に近づくころ、窓の外が少し暗くなった。雨が降るほどではないが、空気の重みが増して通りの音が低く響く。織乃は給湯室に行き、水を飲んだ。
水は冷たかった。
喉を通る感覚だけが現実だった。
スマートフォンを見ても当然何もなく、水鞠透李という名前は連絡先に存在しない。存在しない名前を探すことほどむなしいことはない。
織乃は画面を伏せた。
本当は、昨日聞けばよかったのかもしれない。
そう思ってすぐに苦しくなった。
聞けなかったのは自分だ。
でも、聞けなかった自分を責めるほど単純な気持ちではなかった。近づきたいのに怖い。失いたくないからこそ、形を変えるのが怖い。
失いたくない。
その言葉が胸に浮かび、織乃はカップを持つ手を止めた。
まだ手に入れたわけでもないのに。
それでも失いたくないと思っている。
そのことが何よりも怖かった。
同じ頃、透李は装丁事務所の机に向かっていた。白い紙の上に置いた文字の位置がどうしても定まらなかった。ほんの少し上げても、下げても、違う。今日は、余白が落ち着かなかった。
霧生織乃。
心の中でその名前を呼ぶ。
名字だけではなく名前まで思い出してしまう。昨日彼女が差し出した名前、駅の白い光の中で聞いた音。織乃という響きは紙に置くにはまだ柔らかすぎる気がした。
今日は会えなかった。
透李は、その事実を仕事の合間に何度も確認していた。
いつもの朝に彼女はいなかった。
自分も少し遅れていた。
たったそれだけで、生活のどこかがずれてしまった。近づくほど、わずかなすれ違いが大きくなる。知らない人だった頃なら、気づかずに済んだはずの空白だった。
机の端には白いメモ用紙が置かれている。
連絡先を書こうとしてまだ何も書かれていない紙。
昨日、渡せなかったもの。
透李はその紙を見て指先を軽く曲げた。渡せばよかったのかもしれない、けれど霧生が「怖い」と言った声を思い出すと、無理に差し出すことができなかった。
大切にしたいと思うほど、手が遅くなる。
それが優しさなのか臆病さなのか、透李にはまだ分からない。
午後、織乃は外へ出る用事を頼まれた。遠くはないが、いつもの坂から少し外れたところにある小さな配送所に控えを届ける用件だった。鞄に本を入れたまま、仕事の封筒を抱えて出版社を出る。
外は今にも雨が降りそうだった。
けれど雨はまだ落ちてこない。
路地の空気は湿気を深く含んでおり、壁の白さは少し灰色がかっていた。織乃は封筒を胸元に抱え、乾いているはずの石の上を慎重に歩いた。
仕事の道。
ただの用事。
そう思おうとした。
けれど、足は透李と偶然会った坂の方を覚えている。印刷所に向かった裏路地、書店前の光、駅での紙片拾い、神楽坂のあちこちに透李との短い時間が薄く貼り付いている。
街が透李を思い出す形に変わっている。
織乃はそれを自覚し、胸の奥が少し痛くなった。
配送所で用事を済ませ、外に出る。空から細かな雨が落ち始めていたが、傘を差すほどではない。しかし、髪や袖に確かに水の気配がする。鞄の中の本を思い出して、織乃は庇の下で立ち止まった。
本が濡れる。
そう思った。
そしてすぐに、透李の声を思い出した。
「本、気をつけて。紙、濡れないように」
織乃は鞄を抱き直した。
雨が少しずつ強くなる。
傘を持ってこなかったことに気づき、唇をかんだ。朝の空を見て迷ったのに、急いでいて置いてきてしまった。小さなミスだ。けれど今日は、その小ささが心に刺さる。
濡れない場所でしばらく待てばいい。
そう思う。
けれど、仕事に戻らなければならない。
織乃は庇の下から足を出そうとした。
そのとき、隣に影が差した。
雨音が少し遠くなった。
見上げると、藍色の傘があった。
透李だった。
「霧生さん」
その声を聞いた瞬間、織乃の胸は痛いくらいに解きほぐされた。
「水鞠さん」
声が出た。
思ったより弱い声だった。
透李は織乃のカバンに視線を落とし、それから濡れかけた肩を見た。
「傘、ありませんか?」
「朝、迷ったんですけど」
織乃は小さく息を吐いた。
「置いてきてしまいました」
「本は?」
「鞄の中です」
「よかった」
その一言があまりにも透李らしくて、織乃は泣きそうになった。自分より先に本のことを心配する、その気遣いが優しくて少しずるい。
「水鞠さんはどうしてここに?」
「紙を受け取りに行った帰りです」
透李はそう言った。
「偶然です」
偶然。
その言葉は、以前ほど簡単に言えなくなっていた。
「偶然が」
織乃は言いかけた。
「続きますね」
透李は静かにうなずいた。
「続いてほしいと思っているから、そう見えるのかもしれません」
織乃は息を止めた。
雨が傘をたたく音が増える。
人の流れは少なく、細い道には雨のにおいが広がっていた。庇の下にいた数人がそれぞれの傘を開き、離れていく。織乃と透李だけがひとつの傘の下に取り残されたようだった。
「帰れますか?」
透李が聞いた。
「出版社までは近いので」
「送ります」
すぐにそう答えた後、透李は少しだけ目を伏せた。
「嫌でなければ」
織乃は答えられなかった。
嫌ではない。
まったく嫌ではない。
むしろ、そう言われて胸の奥が熱くなった。しかし、ひとつの傘に入るのがどれほど親密なことかを、織乃は知っていた。雨の日に何度も近くにいたはずなのに、名前を知った今は意味が違っていた。
「嫌ではないです」
ようやく言った。
「でも」
透李が待つ。
「近いですね」
声が小さくなった。
透李は少しだけ息を飲んでから、傘の角度を慎重に変えた。
「できるだけ、無理のない距離で」
その言い方に織乃は胸が痛くなった。近づきたいのに、透李はちゃんと怖さを見てくれる。だから余計に近づきたくなる。
二人は歩き出した。
肩は触れない。
けれど、傘の円は小さく、互いの呼吸がいつもより近い。雨粒が布を叩き、街の音を丸く包む。織乃は鞄を胸に抱え、濡れないように少し内側へ寄った。
透李の袖がほんの一瞬だけ、織乃の手の甲に近づいた。
触れてはいない。
それでも体が覚えてしまう距離だった。
「本、読み返しましたか?」
透李が言った。
声は落ち着いていた。
しかし、緊張を隠しているようにも聞こえた。
「少しだけ」
織乃は答えた。
「でも、今日は読むと水鞠さんを思い出してしまって」
言ってしまってから、足が止まりそうになった。
透李も一瞬だけ歩幅を乱した。
雨音が強くなる。
「それは」
透李は言葉を探した。
「困りますか?」
織乃はすぐに答えられなかった。
困る。
でも、嫌ではない。
その言葉の並びを前にも使った気がした。自分たちはいつも嫌ではないという遠回りで近づいている。
「困ります」
織乃は正直に言った。
「でも、なくなったらもっと困る気がします」
透李は何も言わなかった。
その沈黙は傘の下で静かに熱を帯びた。
「霧生さん」
透李の声が低くなった。
「はい」
「僕も困っています」
織乃は顔を上げた。
透李は前を見ていた。雨で濡れた道の先、出版社へ向かう細い坂道を見つめていたが、声は織乃へ向いていた。
「会えない朝があると、仕事の合間に考えてしまいます」
織乃の胸が大きく揺れた。
「本の感想を聞きたいとか、雨が降ったら会えるかもしれないとか、そういう理由を探している自分に気づきます」
透李は少しだけ息を整えた。
「理由がないと声をかけられないままでいたかったのに、理由がない日にも理由を探してしまう」
織乃は鞄を抱える手に力を込めた。
雨が強まる。
傘の中の空気が少し狭くなる。
「私もです」
織乃は言った。
声は震えていた。
「今日、会えないかと思っていたら」
言葉が詰まる。
それでも、逃げなかった。
「さびしかったです」
と言った。
ついに言った。
胸の奥で長く閉じていたものが開いた気がした。恥ずかしさより先に痛みがきた。自分の本当の声は思っていたより小さく、思っていたより切実だった。
透李が立ち止まった。
織乃も止まる。
雨の中、傘の下だけが静かだった。
「僕も」
透李は言った。
「さびしかったです」
その言葉は織乃の胸をまっすぐ抜けた。
大げさではない。
強い告白でもない。
けれど、今の織乃にはそれで十分すぎた。さびしいという感情を共有してくれた。そのことだけで、涙が出そうになる。
「水鞠さん」
名前を呼ぶと、透李の視線がようやく織乃に向いた。
「はい」
「このまま終わるのは嫌です」
言ってしまった。
もう戻せない。
けれど、戻したくなかった。
雨が頬にかかったわけでもないのに顔が熱く感じられ、織乃は視線を逸らさずに透李を見た。怖い。けれど、今言わなければまた何もないふりをしてしまう気がした。
透李の目が揺れた。
「終わらせたくありません」
透李は静かに言った。
「僕も」
その返事を聞いた瞬間、織乃は息を吸った。
深く。
ようやく息ができた気がした。
「連絡先」
透李は鞄に手を伸ばした。
今度は途中で止めなかった。
小さなメモ用紙を取り出し、雨に濡れないように傘の内側で慎重に持った。白い紙にはすでに文字が書かれていた。
織乃はそれを見た。
水鞠透李の名前。
数字と短い連絡先。
「昨日、書きました」
透李は少しだけ目を伏せた。
「渡せませんでした」
織乃はメモを受け取った。
指先が触れた。
ほんの少しだけ。
けれど、確かに触れた。
雨音が一瞬遠くなった。
「ありがとうございます」
声が震えた。
透李は織乃を見た。
「無理に連絡しなくていいです」
「します」
織乃はすぐに言った。
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
透李も驚いたようだった。
織乃はメモを鞄の内側へしまい、濡れないように本の間へ挟んだ。水鞠が選んだ本の中に水鞠への道が入る。そのことが胸を締めつけるほど、大切に思えた。
「私も」
織乃は鞄から小さなメモを探した。
仕事用の控え紙しかなかった。
その裏にペンで自分の連絡先を書いた。手が少し震えて数字がいつもより不揃いになったが、整え直さなかった。
そのまま渡した。
透李は両手でそれを受け取った。
まるで紙見本よりも大切なものを受け取るように。
「ありがとうございます」
透李の声は低かった。
「大切にします」
「連絡先を、ですか?」
織乃は少しだけ笑おうとした。
透李は真剣にうなずいた。
「はい」
その真面目さに、織乃は胸が痛くなった。
冗談にしたかったのに、できなかった。
「私も、大切にします」
メモの入った本に手を添えて、織乃は言った。
雨は少し弱まっていた。
しかし、街はすっかり濡れていた。足元の道には細い光が伸び、遠くの店の明かりが水面に揺れていた。織乃と透李は再び歩き出した。今度は少しだけ距離が離れていた。
近づきすぎない。
けれど、もう遠すぎない。
出版社の前に着くと、織乃は足を止めた。戻らなければならない。仕事の続きがある。紙も原稿も、人を待ってはくれない。
けれど、今は別れが惜しい。
前よりもはっきりと。
「ここです」
織乃が言った。
「はい」
透李は傘を少し傾け、織乃が濡れずに中に入れるようにした。
そのしぐさは昔から同じだった。
けれど今は、意味が違っていた。
「水鞠さん」
「はい」
「あとで連絡します」
透李の目が静かに開かれた。
「はい」
短い返事。
でも、そこには明日へ続く音があった。
織乃は出版社の扉へ手をかけ、中へ入る前に振り返った。透李は、まだ傘の下にいた。雨の中で、濡れた街よりも少しだけ静かに立っていた。
「また」
織乃は言った。
「また」
透李が返した。
条件のない「また」。
織乃は中へ入った。
扉が閉まると、雨音が少し遠くなった。室内の空気は、紙と電気の熱を含んでいて外の湿りとは異なる匂いがした。織乃は鞄の中の本に手を入れ、メモがそこにあることを確かめた。
ある。
たったそれだけで胸が落ち着いた。
仕事場に戻ると、机の上にはまだ紙の束が残っていたが、さっきまでとは違っていた。会えない不安に押しつぶされそうになる感覚が消えていたのだ。代わりに、何かを守るような温かさが胸に広がっていた。
終わらせたくない。
言えた。
さびしい。
言えた。
織乃は椅子に座り、目の前の原稿を開いた。文字はまだ細かく、仕事はまだ残っている。それでも手が動いた。水鞠へ続く道は鞄の中にある。
夜が深まるまで織乃は仕事を続け、窓の外の雨は細くなってやがて音を失った。織乃が帰るころには、街の灯りが濡れた道に静かに落ちていた。
駅に向かう道で、織乃はスマートフォンを取り出した。
連絡先を登録する。
水鞠透李。
文字を打つ指が少し震えた。
登録された名前を見て、織乃はしばらく動けなかった。画面の中に水鞠の名前がある。会えない日に届く道がある。うれしいのに、胸が少し怯えている。
最初の言葉をどうするか。
織乃は迷った。
何度も打ち、消した。
本のことを書こうか。
雨のことを書こうか。
「今日はありがとうございました」だけでは少し遠い気がする。けれど、近すぎる言葉はまだ怖い。駅に着くまで、織乃は画面を閉じたり開いたりした。
電車が来る気配が足元から伝わってくる。
織乃はようやく文字を打った。
「今日は傘に入れてくれてありがとうございました。本も連絡先も濡れずに持って帰れました」
送信するまでに少し時間がかかった。
送った。
画面の中で、自分の言葉が水鞠に向かっていく。
胸が痛むほど静かになった。
透李から返事が来たのは、織乃が電車に乗って少ししてからだった。
「よかったです。霧生さんが濡れなくて、本も無事で」
続けて、もう一つ。
連絡をもらえてうれしいです」
織乃は画面を見つめた。
車内の音が遠のく。
うれしいです。
そのまっすぐな言葉が胸の奥に触れた。短いのに逃げない言葉だった。織乃は返事を打とうとしたが、すぐには打てなかった。
私もです。
それだけを書いた。
送る。
短すぎるだろうか。
でも、今はそれが一番本当だった。
水鞠からの返事は少し間を置いて届いた。
「また話しましょう」
織乃は、その文字を見て目元が熱くなるのを感じた。
また。
もう、偶然だけの言葉ではない。
雨だけの言葉でもない。
織乃はスマートフォンを胸元に少し近づけたが、すぐに恥ずかしくなって鞄にしまった。しかし、しまっても言葉はそこに残っている。
部屋に戻るころには雨はほとんどやんでいた。窓を開けると、夜気が濡れた道路のにおいを運んできた。机の上に本を置き、その間から水鞠のメモを取り出した。
濡れていない。
折れてもいない。
織乃はそれをしばらく見つめた後、引き出しの奥ではなく本の最初のページに挟み直した。隠すのではなく、なくさないようにしたいと思ったのだ。
スマートフォンがもう一度、小さく震えた。
水鞠からだった。
「今日は、言えてよかったです。さびしかった、と」
織乃は息を止めた。
文字になると、あの言葉はまた別の熱を持った。雨の中で聞いた声が画面の中に静かに残っている。織乃はしばらく返事ができなかった。
やがて、ゆっくり打った。
「私も、言えてよかったです」
それだけで精いっぱいだった。
でも、足りない気もした。
少し迷って、もう一文を付け足した。
このまま終わるのは嫌だったので。
送信した後、織乃はスマートフォンを伏せた。
心臓の音が近い。
やりすぎただろうか。
重かっただろうか。
けれど、嘘ではない。怖かったけれど、送った。自分の言葉を初めて、水鞠へ届く場所へ置いた。
返事はすぐには来なかった。
その間、部屋の音がやけに大きく感じられた。冷蔵庫の低い音、遠くを走る車の音、窓の外から落ちる最後の雨粒。織乃は本の表紙に手を置き、呼吸を整えた。
やがて、画面が光った。
「終わらせません」
短い一文だった。
織乃はその文字を見て、涙が出そうになった。
強い言葉ではない。
けれど、はっきりしていた。
それは、透李が初めて逃げずに差し出した言葉のようだった。織乃は画面を指でそっと撫でた。触れても向こうには届かないが、それでも触れたかった。
水鞠の部屋では、送ったメッセージを見つめた透李が深く息を吐いていた。「終わらせません」と打つ前に、何度も迷った。重いだろうか。急ぎすぎだろうか。けれど、それ以上薄めたら嘘になる気がした。
さびしかった。
「終わらせたくない」
霧生もそう言った。
なら、自分も逃げたくなかった。
机の上には霧生からもらった連絡先の紙があった。透李はそれを、名刺入れではなく紙見本の箱の上に置いた。仕事のものではないが、紙として大切に扱いたかったのだ。
画面が光る。
織乃からの返事だった。
「ありがとうございます。私も、終わらせたくないです。」
透李はその文字を見て、しばらく動けなかった。
夜の部屋は静かだった。
窓の外では雨上がりの道路を車が通り、水を押し分けるような音ではなく、もう乾き始めた道を撫でるような音がした。透李はスマートフォンを机に置き、目を閉じた。
会えない日があっても、もう届く道がある。
それは安心であり、責任でもあった。
大切にしなければならない。
透李はそう思った。
織乃は灯りを落とす前に、もう一度だけ画面を見た。連絡先にある「水鞠透李」という名前から届いた言葉。たったそれだけで、夜の部屋は昨日までと違っていた。
失いたくない人。
その言葉が胸に浮かんだ。
もう否定できなかった。
まだ好きだとは言えない。
言えば、何もかもが大きくなりすぎる気がする。
けれど、失いたくない。
それだけは、本当だった。
織乃は本を閉じ、メモを挟んだまま机の上に置いた。雨上がりの夜気が窓の隙間から入り、部屋の中を静かに冷やしていく。遠くの街の音が少しずつ遠のいていく。
水鞠に最後に短くメッセージを送った。
「おやすみなさい」
すぐに返事が来た。
「おやすみなさい、霧生さん」
名前付きのその一文を見て、織乃は画面を胸に近づけた。
夜の底で雨上がりの街が、静かに息をしている。
「終わらせたくない」という言葉が胸の奥に小さく灯っていた。




