第5章:遠回りの光
夜の雨が洗い残した湿気が、神楽坂の細い道にまだ薄く残っていた。織乃は駅の出口を出て、傘を持たない手を胸元で一度だけ握った。空は晴れきらず、雲の隙間から差し込む光が、石畳のくぼみに残った水を静かに照らしていた。
朝の坂は雨の日とも晴れの日とも違っていた。
濡れているのに雨は落ちてこない。
それが少しだけ寂しいようで、少しだけ助かったようでもあった。雨が降っていれば話せる理由がある。けれど降っていなければ、何も起こらないまま通り過ぎられてしまう。
織乃は、そのどちらも欲しがっている自分に気づき鞄の紐を持ち直した。昨夜、改札の前で交わした言葉が胸にまだ残っている。「また、雨の日に」。あれは約束ではないのに、約束に似た形で心の奥に置かれていた。
いつもの角が近づく。
織乃は視線を上げた。
そこに透李はいなかった。
拍子抜けするほど自然に、そこには道だけがあった。濡れた石、閉じた店のガラス戸、路地の奥へ抜ける薄い朝の色。人の気配はあるのに、探していた気配だけがない。
今日は会わない日なのだろう。
そう思った。
そう思うために、少し力が要った。
出版社へ向かう途中、織乃は一度だけ振り返りそうになったが、やめた。振り返れば、自分が待っていたことを自分に見せることになる。朝の光はやわらかいのに、そういうごまかしだけが妙に容赦なかった。
仕事場の扉を開けると、乾ききらない紙と木の香りが迎えた。織乃は鞄を机に置き、封筒の束を整えた。今日は外へ出る用事があると、机の端に置いたメモが知らせていた。
神楽坂の裏手にある印刷所に再校の紙を届ける。
いつもの駅と坂だけではない場所へ向かう用事だった。
織乃は封筒の角を指で押さえ、紙が曲がっていないことを確かめた。雨の残る道を歩くには少し気を遣うが、今朝は傘を持っていなかった。その身軽さが不思議と心細かった。
午前の光が建物の壁を少しずつ白くしていくころ、織乃は封筒を抱えて外へ出た。坂の表通りから一本奥へ入ると、街の音は急に薄くなる。飲食店の裏口、古い塀、小さな階段、そして、濡れた植木鉢の土の匂い。
神楽坂は、表の顔よりも裏の道のほうが生き生きとしているように思われた。
観光客の足音が届かない場所に、暮らしの擦れた音が残っている。
織乃は封筒を胸元に抱え、狭い坂をゆっくり上った。雨上がりの石はまだ冷たそうで、靴底に返る感触がいつもより柔らかい。壁沿いの細い排水溝では昨夜の雨がまだ、かすかな水音を立てていた。
角を曲がった時、紙袋を抱えた人影が見えた。
織乃は足を止めた。
透李だった。
藍色の傘は持っておらず、代わりに薄い紙を入れた大きな袋を片腕に抱えていた。いつもの坂で傘越しに見る姿とは違い、肩の線も歩くときの重心もはっきりと見えた。
透李も気づいた。
互いに少しだけ動けなくなった。
雨の日ではない。
駅でもない。
それなのに、私たちは向かい合っている。
「おはようございます」
透李が先に言った。
織乃は思わず息を吸った。雨が降っていない朝にその言葉が置かれた。昨日までなら難しかったはずの一言が坂の途中で静かに形を持った。
「……おはようございます」
返した声は少し遅れた。
けれど逃げなかった。
路地の上では雲の隙間から光が差し込み、細く伸びて透李が抱えた紙袋の端を白く照らしていた。織乃は視線をその袋に落とした。きっと仕事のものだろう。雨に濡らしてはいけないものを抱える姿は自分と少し似ていた。
「紙ですか?」
織乃が言った。
言ってから、昨日よりも自然に声が出たことに気づいた。
「はい、見本紙を取りに行った帰りです」
透李は袋を少し持ち直した。
「そちらも」
「再校を届けに行くところです」
「紙を運ぶ日ですね」
その言い方が少しおかしくて、織乃は口元を緩めた。
「そうですね。濡れない日で良かったです」
「本当に」
透李の目元も少しだけやわらいだ。
雨がないのに会話が続いている。
その事実が織乃の胸の奥を静かに熱くした。昨夜の雨のせいにした言葉が、今日は雨なしでここにある。しかし、それは急に近づく感じではなく、濡れていた道が少しずつ乾いていくような変化だった。
坂の途中は狭く、誰かが通れば肩を寄せなければならない幅だった。織乃が壁際に寄ろうとすると、透李が先に一歩外側へ移動した。紙袋が濡れる心配はないのに、その動きは雨の日と同じように自然だった。
「ありがとうございます」
「癖みたいになっていますね」
透李は少し困ったように言った。
「道を譲るのが、ですか」
「それもありますが」
そこで言葉が止まった。
織乃は続きを待った。
「あなたが歩きやすい方を、先に見てしまうのかもしれません」
その言葉は路地の湿った空気の中に静かに落ちた。織乃はすぐに返答できなかった。傘の柄をなぞる代わりに、封筒の角をそっと撫でた。
心のどこかがあまりにも静かに触れられた。
「それは」
織乃は言いかけて視線を落とした。
「優しすぎる言い方です」
「そうでしょうか」
「はい」
織乃は顔を上げた。
「そんな風に言われると、歩く場所を間違えられなくなります」
透李は一瞬だけ驚いた後、小さく笑った。
「それは困りますね」
「困ります」
織乃も笑った。
声は小さい。
けれど、今までより少し長く残った。
路地の奥から乾きかけた土の匂いが漂ってきた。どこかの軒下に置かれた鉢は雨を含んで濃い色になり、遠くの通りを走る車の音は、布越しのように柔らかくここへ届いていた。
「この道、よく通るんですか?」
織乃が聞いた。
「時々です。紙を扱う店がこの先にあるので」
透李は坂の上を少し見上げた。
「表の通りより人が少なくて、落ち着きます」
「わかります。少し迷いそうになりますけど」
「迷いますか?」
「初めての頃は、似たような坂が多くて」
「神楽坂は、まっすぐ行かせてくれない感じがありますね」
「わざと遠回りさせられているみたいですね」
織乃がそう言うと、透李は少し考えるように目を伏せた。
「遠回りのほうが、見えるものもあります」
その言葉に、織乃は今日この場所で会ったことを思い出した。いつもの駅でもなく、決まった角でもなく、仕事の途中で偶然に入った裏路地。遠回りだったかどうかはわからないけれど、いつもの道では見ることのできなかった透李の姿があった。
傘を持っていない手。
紙袋を抱える腕。
少しだけ仕事の疲れが残る目元。
そういうものは雨の日の傘の下では見えにくかった。
「そうかもしれません」
織乃は静かに言った。
透李の視線が織乃に戻る。
ほんの短い間だった。
しかし、その短さの中に言葉にできない何かが確かにあった。
「お時間、大丈夫ですか?」
透李が言った。
織乃は封筒を見た。
「少しなら」
と言ってから、少しならという自分の言葉に驚いた。急いでいると言えばよかったのかもしれないが、口が勝手に残れる場所を作ってしまった。
透李は、その言葉を軽く受け取ったふりをしてくれた。
「この先、階段があります。濡れた後だと少し滑りやすいので」
「ありがとうございます」
「案内します。途中まで」
「案内します」という言葉は丁寧だったが、織乃にはそれが「一緒に歩きましょう」の少し遠回しな言い換えに聞こえた。そう受け取ってしまう自分が少し恥ずかしかった。
「お願いします」
織乃はそう言った。
並ぶほど近くはない。
けれど、同じ方向へ歩き出すには十分な距離だった。
坂を上がると石畳の色が少し変わり、古い石の間に残る細いコケが雨上がりの湿気を吸って深い緑色を呈していた。織乃は封筒を抱える腕に力を入れ、足元を確かめながら進んだ。
透李は少し前を歩いた。
けれど離れすぎない。
曲がり角に差し掛かるたびに、振り返るほどではない動きで織乃の歩幅を確かめるその気配が、織乃には伝わってきた。気を遣われすぎるのは苦手なのに、透李の気遣いはなぜか息苦しくない。
押しつけないからだと思った。
触れる前に、ちゃんと空気を残してくれる。
「出版社のお仕事をされていると、外へ出ることも多いんですか?」
透李が振り返らずに聞いた。
「多くはないです。でも今日は届けものがあって」
「大切な紙ですね」
「はい、誰かの言葉の途中です」
自分で言ってから、織乃はその表現を少し気に入った。完成していないもの、まだ誰かの手を必要としているもの、そういうものを抱えて歩くことが今の自分の仕事なのかもしれない、と。
透李はゆっくりとうなずいた。
「途中のものは、扱うときに少し緊張します」
「装丁もですか?」
「はい。まだ顔が決まっていない本は、こちらを見ている気がします」
「見ている」
「どういう姿にするのか、と」
織乃は思わず紙袋を見た。
「少し怖いですね」
「怖いです。でも、そこが好きです」
透李の声は静かだったが、仕事の話になると、その声の奥に熱が感じられた。大きな声ではないし、言葉を飾るわけでもないが、紙や本に触れるときだけ、透李の中にあるものが少し表に出る。
織乃は、それを見てしまった気がした。
見てしまったが、目を逸らせなかった。
「好きなものの話をすると、少し声が変わりますね」
と言ってから、織乃は自分の大胆さに驚いた。
透李も足を止めかけた。
「そうですか」
「はい、少しだけ」
織乃は慌てて付け加えた。
「悪い意味ではなくて」
「大丈夫です」
透李は振り返ってやわらかく目を細めた。
「気づかれるとは思っていませんでした」
「すみません」
「謝らなくていいです。たぶん、うれしいので」
たぶん。
その曖昧な言葉が織乃には不思議に感じられた。自分でもよく使う言葉だ。はっきりと言い切るには勇気がいるけれど、嘘にはしたくないときに使う言葉だ。
階段の前に着いた。
石の段は低いが、端にまだ雨の水が残っている。透李は先に下を見てから少し横へ避けた。
「ここです」
「本当に滑りそうですね」
「ゆっくりで」
織乃は一段目に足を置いた。靴底が湿った石を捉えた。封筒を抱えているせいで片手が使えず、少しだけ体が揺れた。
その瞬間、透李の手がわずかに動いた。
触れはしなかった。
けれど、支えようとしたのがわかった。
織乃の胸が音もなく跳ねた。
触れなかったのに、むしろ触れられたような気がした。透李はすぐに手を戻し、何もなかったかのように視線を階段へ落とした。その慎重さが、織乃の心を余計に揺さぶった。
「大丈夫です」
織乃は言った。
声が少しだけ硬かった。
「はい」
透李は短く答えた。
その短さの中には、触れなかったことへの気まずさと触れたかったことを隠すような気配が込められていた。織乃はそれを想像し、封筒を抱える腕に力を込めた。
階段を下りきると、狭い路地が急に開けた。小さな印刷所の古い扉が見え、内側から機械の低い振動が漏れていた。紙を裁つ匂い、インクの苦味、そして湿った木の棚の匂いが混ざり合っていた。
「ここです」
織乃が言った。
「着きましたね」
「案内、ありがとうございました」
「いえ、僕も近くまで用事があったので」
それが本当かどうか、織乃には分からなかった。
けれど、問い返さなかった。
もし遠回りだったとしても、それを確かめてしまうのは少し怖かった。遠回りしてくれたのかもしれないと思える余地が、今はやさしく感じられた。
「では、行ってきます」
「はい」
透李は紙袋を抱え直した。
「紙、無事に届きますように」
織乃は笑った。
「そちらの紙も」
「ありがとうございます」
言葉はそこで終わった。
しかし、透李はすぐに去るのではなく、織乃が扉に向かうのを待っていた。見送られているのか、見守られているのか、その違いがうまく分からなかった。
織乃は扉の取っ手に手をかける前に少しだけ振り返った。
透李はまだそこにいた。
そのことが胸の奥へ静かに届いた。
印刷所の中は外より少し温かく、機械の振動が床から足裏に伝わった。織乃は、封筒を渡す用件を済ませ、戻りの書類を受け取った。
見知らぬ作業場の空気には出版社とは異なる紙の匂いが漂っていた。それはもっと生々しく、まだ言葉になる前の白さが積もっているような匂いだった。織乃はその中に立ちながら、透李の言葉を思い出した。
「まだ顔が決まっていない本は、こちらを見ている気がします」
本当に、そうかもしれない。
紙は何も言わない。
けれど、待っている。
織乃は書類を鞄に入れて外へ出た。
透李はいなかった。
当たり前だ。
用事があると言っていた。
それでも扉を開けた瞬間に、探してしまう自分がいた。織乃は小さく息を吐き、坂の上に戻る道を見た。ひとりで歩くには少しだけ違って見える道だった。
先ほどまで隣にいたはずの気配が、まだ石段のあたりに残っている。
織乃は階段をゆっくり上り、滑らないように封筒を抱え直した。途中で透李の手が動いた瞬間を思い出し、足元よりも胸のほうが危うくなった。
触れなかった。
だから、残った。
もし触れられていたら、きっともっとはっきり動揺しただろう。けれど、触れなかった手のほうが想像の中でいつまでも近い。織乃はそんな自分に少し呆れた。
出版社に戻るころには空が明るさを増し、雲は残っているものの雨の気配は遠のいていた。通りを行き交う人たちは傘を持っておらず、昼の街は少しずつ乾いた音を取り戻していた。
仕事場に戻って机に書類を置くと、机の上の紙束がさっきまでより静かに見えた。外の出来事を内側へ持ち込んでしまったようで少し落ち着かなかった。
午前の用事は終わった。
けれど心の中では、坂の途中がまだ終わっていなかった。
透李の姿。
紙袋。
階段で動いた手。
好きなものの話をすると変わる声。
それらが紙の上の赤字よりも鮮明に織乃の心に残っていた。織乃は校正紙を開き、誤字を探そうとしたが、目は文字を追いながら心は別の路地を歩いていた。
昼の光が窓際に差し込むころ、織乃は給湯室で冷めかけた紅茶を飲んだ。今日は雨の匂いよりもインクと乾いた石の匂いが強く残っている。紅茶の渋みが舌の上に広がり、少しだけ現実に戻れた気がした。
偶然会っただけ。
仕事の途中でたまたま同じ道を通っただけ。
そう言い聞かせるのは簡単だった。
けれど、偶然で済む出来事なら、なぜ階段の一段目まで思い出してしまうのだろう。なぜ、触れなかった手のことまでこんなにはっきり残っているのだろう。
織乃はカップを置いた。
答えを出す必要はない。
けれど、答えを出さないことにもそろそろ力がいる。
透李は事務所に戻って紙袋から見本紙を取り出した。薄い生成りの紙、青みのある白、雨雲の下でも沈まない灰。午前中に選んだ紙はどれも静かで、手の中に置くと少しだけ温度が違っていた。
けれど、集中できなかった。
坂の途中で会った織乃の姿が仕事机の上に何度も重なった。封筒を抱える腕、階段で揺れる体、振り返った時の目。朝の駅では見えなかったものが今日はあまりにも多かった。
透李は紙の端をそろえながら手を止めた。
支えようとした。
触れなかった。
その一瞬を何度も思い出している自分がいる。
触れないことを選んだのは距離を守るためだったが、守ったはずの距離は胸の中では少しだけ縮んでしまっていた。相手に触れなかったのに、自分のほうが揺れている。
透李は窓を見た。
外の光は午前より少し明るい。
雨の日だけの関係だったはずが、雨のない坂の途中へと広がっていった。駅でもいつもの角でもない場所で会ったことで、織乃はひとつの道に閉じ込められた人ではなくなった。
仕事をする人。
紙を抱えて歩く人。
階段で少しだけ体を揺らす人。
笑うときに声を大きくしない人。
知っていることが増えるのはうれしい。
うれしいから、怖い。
透李は紙見本の一枚に指を置いた。ざらりとした質感が皮膚に残る。紙は触れればわかるけれど、人は触れなくても残ることがある。
午後はゆっくりと過ぎた。織乃は机に向かって午前に受け取った書類を整理していた。印刷所の機械の振動がまだ足の裏に残っているようで、椅子に座っていても体の奥がわずかに揺れている。
窓の外では雲の切れ間から細い光が差し込み、濡れた屋根を乾かしていた。街は朝の湿り気を脱ぎかけており、雨上がりではなく雨のあとに晴れに戻る途中の匂いがした。
織乃はその匂いを少し好きだと思った。
雨そのものより淡く、晴れの日より柔らかい。
何かが終わったあとにまだ完全には終わっていない感じがする。
自分の気持ちも似ていた。
始まったというには早い。
けれど、何もないとは言えない。
その中間に、透李との時間がある。
午後の終わりが近づくにつれ、仕事場の音が少しずつ変わっていった。紙をめくる速度が遅くなり、椅子を引く音が増え、誰かのため息が棚のあたりに吸い込まれていく。織乃は机の上を整えながら、帰り道のことを考えないようにしていた。
今日はもう会わない。
そう思う。
けれど、午前に会っただけで十分だとは思えなかった。「十分」という言葉は、もっと欲しいと思っている人が使うものかもしれない、と気づいて、織乃は少しだけ苦しくなった。
外に出ると、神楽坂は夕方の光を受けて薄い金色に見えた。石畳はほとんど乾き、溝にだけ水の線が残っていた。店先からは、だしの香りではなく焼き魚の香ばしさと開け放たれた扉の奥にある木の香りが漂っていた。
織乃はいつもの駅へ向かう道を歩いた。
朝の角を通る。
誰もいない。
それでも今日は、いないことが昨日ほど寂しくなかった。別の場所で会ったからだろう。いつもの場所以外にも透李が存在していることを知ってしまったからだろう。
関係が少し広がった。
その広がりはうれしいのに、落ち着かない。
織乃は坂を下りながら午前の裏路地へ続く角を見た。そこを入れば印刷所の扉があり、階段があり、透李と並ばずに歩いた短い道がある。
行く必要はない。
けれど、足が少しだけ向いてしまった。
織乃はそのまま駅へと向かった。
進んだ自分を少しだけ褒めた。
透李も仕事を終えて事務所を出た。空は夕方の色を含み、神楽坂の屋根の上では雲が薄くほどけていた。紙袋はもう持っていなかった。手の中は空いていて、その空き方が朝よりも少し物足りなかった。
透李は駅に向かう前に、午前の路地の入り口で足を止めた。
そこへ行く理由はない。
見本紙はもう事務所にある。
用事は終わった。
それでも視線だけが、坂の奥へ流れていく。織乃が封筒を抱えて歩いた道、階段で少し揺れた場所、扉の前で振り返った姿。
透李は小さく息を吐いた。
用事がない場所に行きたくなる。
それはもう、仕事ではなかった。
しかし、透李は路地へは入らず、駅のほうへ歩き出した。今日、これ以上偶然を探し続ければ、それは偶然ではなくなってしまう気がした。
探してしまう自分を、まだ織乃に見せる勇気はなかった。
駅に向かう道で夕方の人波が増え、透李は改札近くまで来ると、前方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。黒い鞄、髪の揺れ方、そして歩く前に一瞬だけ足元を見る癖。
織乃だった。
透李は声をかけなかった。
距離は少しある。
人も多い。
朝でもなく、雨でもなく、裏路地でもない。ここで声をかけるには理由が足りない。理由が足りないのではなく、理由を自分で引き受ける必要があった。
織乃は改札へ向かった。
その背中を見ていることが自分でも少し苦しかった。
透李は鞄の持ち手を握った。
声をかければ振り返るかもしれない。
けれど、振り返った後の自分が何を言えばいいのかわからなかった。
そのとき、織乃が足を止めた。
落としたのは小さな紙片で、封筒の間に挟まっていたのか、白い紙が床近くへ滑り、改札へ向かう人の流れの端で止まった。
透李は考えるより先に歩き出していた。
紙片を拾う。
薄い紙だった。
何も読まないようにすぐ裏へ返した。
「落としました」
声をかけた瞬間、織乃が振り返った。
驚きが目に浮かび、それからすぐに午前中と同じ柔らかさがにじみ出た。
「ありがとうございます」
織乃は紙片を受け取った。
指先が触れそうで触れなかった。
まただ。
織乃はそう思った。
触れそうで触れない。
その距離ばかりが今日何度も胸に残る。
「偶然ですね」
織乃が言った。
「はい」
透李は短く答えた。
けれど、それだけでは足りない気がした。
「今日は偶然が多いですね」
織乃は紙片を封筒に戻しながら、小さくうなずいた。
「多いですね」
その声には少しだけ笑みが含まれていた。
駅の明かりが互いの横顔に淡く落ちている。外の夕方とは違い、ここには人工的な白さがあった。人の流れは絶えず、立ち止まっているとすぐに日常に押し戻されそうだった。
「紙、無事でしたか?」
透李が聞いた。
「はい、届きました」
「よかった」
織乃はその言葉に午前の印刷所前の情景を思い出した。見送るように立っていた透李、そして扉を開ける前に振り返った自分。あの一瞬が今の駅の明かりの中でまた重なった。
「見本紙は?」
「無事です。湿気もそれほど」
「よかったです」
織乃がそう言うと、透李は少しだけ目を細めた。
「紙の心配ばかりしていますね」
「本当ですね」
織乃は笑った。
「でも、紙の話なら話しやすいです」
そう言ってから、胸が静かに鳴った。
本当に言いたかったことの輪郭が少しだけ見えた気がした。紙の話なら、雨の話なら、坂の話なら、何かを間に置けば話せる。何も間になくなったとき、自分はまだ透李に声をかけられるのだろうか。
透李はその言葉を丁寧に受け取ったようだった。
「僕もです」
短い返事だった。
けれど、そこに逃げはなかった。
改札前で人の流れが少し乱れた。織乃は一歩だけ横に避けた。透李も同じくその方向へ動いた。肩が近づき、すぐに離れた。触れていないのに、空気だけが一瞬狭くなった。
「では」
織乃が言った。
「はい」
透李が頷いた。
別れの言葉はいつも短い。
けれど今日は、その短さがいつもより惜しく感じた。
織乃は改札へ進みかけた。
そして、ほんの少しだけ振り返った。
「今日はありがとうございました」
午前の案内のこと。
駅で拾ってくれた紙のこと。
それだけではない気がした。
透李は静かに首を振った。
「こちらこそ」
何に対しての「こちらこそ」なのか。
織乃にはわからなかった。
けれど、わからないまま受け取った。
電車の中で、織乃は落とした紙片を何度も確かめたが、重要なものではなかった。それは、印刷所から受け取った控えの一部で、誰かに見られて困るような内容ではなかった。
それなのに、透李が読まないように裏返して拾ってくれたことが印象に残った。
見ない優しさ。
踏み込まない手。
触れない距離。
今日はそればかりが胸に残る。
車窓の外では夕方が夜へと変わりつつあった。雨は降っていない。窓に水の線はなく、街の灯りはいつもよりくっきりと見える。しかし、織乃の心には雨の日に似た湿り気があった。
雨ではない日に、話した。
駅ではない場所で会った。
そのことが今日という一日を、静かに変えていた。
透李もまた帰りの電車で手の中を見ていた。何も持っていない。紙片は返したし、見本紙も事務所に置いてきた。しかし、指先には薄い紙を拾った感触が残っていた。
織乃の指先には触れなかった。
触れなかったことをまた覚えている。
透李は目を閉じた。
今日声をかけたのは、紙を落としたからだ。
理由はあった。
しかし、その理由を見つけた瞬間に安堵した自分もいた。声をかけられる理由があることを、こんなにもありがたいと思う日が来るとは思わなかった。
理由がなくても、いつか声をかけられるだろうか。
その問いは夜の電車の揺れの中で静かに残った。
織乃の部屋に着くころには、外の空気は乾き始めていた。窓を開けると、雨のにおいではなく、遠くの道路に残った昼の熱とどこかから漂う洗剤のにおいが入ってきた。織乃はかばんを置き、封筒を机に並べた。
紙片をもう一度取り出す。
なんでもない紙。
けれど、今日透李の手を通って戻ってきた紙。
その事実だけで、少し違って見える。
織乃はそれを仕事の書類と一緒に戻し、机の端を整えた。完全に揃えようとして手を止め、最後の一枚だけを少しずらした。
揃っていないものにも触れる場所がある。
あの言葉は、まだ生きている。
夜が深くなり、部屋の影が濃くなる。織乃は灯りを少し落とし、椅子に座ったまま目を閉じた。今日の神楽坂の裏路地がまぶたの裏に浮かび上がる。
坂道。
紙袋。
階段。
触れなかった手。
駅の白い光。
落とした紙片。
ひとつひとつは小さい。
けれど、積もると無視できない形になる。
恋という言葉は、まだ大きすぎる。
けれど、雨の日だけの人ではなくなった。
その事実だけが、織乃の中で静かに確かだった。
透李の部屋では、机の上に薄い藍を含んだ紙見本が置かれていた。今日選んだものの中でいちばん静かな紙だった。透李はそれを指でなでて、神楽坂の坂道の光を思い出した。
織乃が言った。
「紙の話なら、話しやすいです」
透李はその言葉を何度も考えた。
なら、いつか紙の話ではないことも話せるだろうか。
雨の話でも、坂の話でも、仕事の話でもないことを。
その問いはまだ早い。
けれど、早すぎる問いほど心の中では先に場所を取る。
透李は紙見本を机の端に置き、窓の外を見た。夜の街は乾いた灯りを浮かべていた。今日は雨ではなかったが、織乃の声は雨の日と同じくらい近くに残っていた。
偶然が多い日だった。
でも、偶然だけではない気がした。
そう思ってしまうことを、透李はもう完全には否定できなかった。
織乃はベッドに入る前に窓を閉めた。外の音が薄くなり、部屋の中に自分の呼吸だけが残る。胸の奥は雨の日ほど濡れていないけれど、乾いてもいない。
坂道の途中で会った。
それだけの一日。
それだけなのに、今日の神楽坂は、もう昨日までと同じ場所ではなかった。いつもの駅、いつもの角、雨の日の傘。その外側にも透李はいて、自分もまた雨の日だけの自分ではいられなくなっていた。
織乃は目を閉じた。
晴れた日にもあなたと話したい。
その言葉はまだ声にならない。
けれど、今日雨でも晴れでもない坂道でほんの少しだけ、あなたと近づいた気がした。
夜の底で石畳に残っていた水の気配が、静かに消えていく。しかし、坂の途中で生まれた小さな熱は乾くことなく、胸の奥に残っていた。




