第四話
魔王は倒れた。任務は完遂された。
リンネはインクを補充しながら、この数日間の観察を振り返った。
面談、同行、戦闘の観察。
様々なデータが揃った。
あとはそれを整理して、報告書にまとめるだけ。
ペンを走らせていると、馬車が止まり、扉が開いた。
勇者だった。
「ちょっといいか」
「もちろんです。どうぞ」
勇者は馬車に乗り込んで、リンネの向かいに座った。狭い空間に、二人きりになった。
リンネはペンを持ったまま待った。
「魔王を倒して、どうですか。達成感はありますか」
「ない。魔王は弱すぎた」
「そうですか。では今の気持ちを——」
「つまらない」
勇者はそう言って、腰の剣に手をかけた。
目の焦点が、一点に絞られていく。
口元が緩んでいく。
興味深い、とリンネは思った。
どれくらい時間が経ったのか、リンネには分からなかった。
気がついたとき、馬車の床に横たわっていた。
体が動かなかった。視界の端に、赤い液体が広がっているのが見えた。羊皮紙が何枚か、同じ色に染まっていた。
◇
また扉が開いた。
今度は聖女だった。
無言で乗り込んできて、リンネの傍らに膝をついた。
手のひらが胸の上に置かれた。光が広がった。
体が戻っていく感覚があった。
リンネは起き上がって、まず羊皮紙の状態を確認した。
血で読めなくなった箇所が多かった。新しい紙を取り出して、続きを書いた。
【追記・一回目】
勇者、帰路において衝動行動を確認。魔王討伐後の刺激欠乏による代償行動と推察。聖女による回復を受け、現在は問題なし。
聖女はまだ馬車の中にいた。リンネが顔を上げると、聖女と目が合った。
頬が赤かった。目が細くなっていた。
「ありがとうございました」とリンネは言った。
聖女は何も言わずに馬車を降りた。
◇
しばらくして、また扉が開いた。
勇者だった。
「また来てしまった」
勇者は言った。どこか困惑したような声だった。
「止めようとしたんだが、足が勝手に」
「大丈夫ですよ。どうぞ」
衝動の制御が困難な状態。
依存性の形成が疑われる。
長期的なカウンセリングの必要性が——
二回目が終わったとき、リンネは馬車の壁に背を預けて天井を見ていた。
体は動いた。聖女がまた来て、また回復してくれたからだ。
リンネは新しい羊皮紙を探した。
もう残り少なかった。インクも減っていた。
【追記・二回目】
前回と同様の衝動行動。勇者本人も困惑している様子が見られた。自己認識はあるが制御が困難な状態。これは回復の見込みがある段階と考えられる。
書き終えて、リンネは少し考えた。
馬車の中が暗くなっていた。
夜になったのかもしれない。
城まであとどれくらいあるのだろう。
御者はまだいるのだろうか。
そういえば、馬車が動いている感覚がしばらくない。
ふと、賢者の不在に思い当たる。
外で何か、効率的な計算でもしているのだろうか。
彼が扉を開けないのは、今のこの状況が彼の論理において『最適解』だからかもしれない。
◇
三回目が終わったあと、聖女は以前より長く馬車の中にいた。
無言で、リンネの隣に座っていた。
回復魔法を使い終えた後の、あの表情のまま。
目が虚ろに輝いていた。
どこか遠くを見ているような、あるいは何も見ていないような目だった。
「聖女様、大丈夫ですか」
聖女はゆっくりとリンネを見た。それから、かすかに微笑んだ。
そして、何も言わずに、馬車を降りた。
リンネはメモした。
【聖女・追記】
施術後の情緒状態に変化が見られる。回数を重ねるごとに反応が強くなっている印象。適応の加速と思われる。良好な兆候。
◇
何回目かは、もう数えていなかった。
羊皮紙は全て使い果たしていた。
リンネは馬車の壁板に直接、爪で文字を刻んでいた。
インクの代わりに、手元にあるものを使った。色は赤かったが、書けないよりはましだった。
追記。
勇者の来訪頻度が上がっている。間隔が短くなっている。聖女の回復も安定している。むしろ以前より手際が良い。
問題なし。
馬車の外は静かだった。虫の声も聞こえなかった。
御者の気配はもうなかった。どこかへ行ったのかもしれない。リンネはそれも壁に刻んだ。
御者不在。帰路の到着が遅れる可能性。
王城への報告は遅延するかもしれないが、この期間を観察に充てることができる。有益かもしれない。
◇
扉が開いた。
勇者だった。今回は何も言わなかった。目だけが、馬車の中を見た。
リンネは壁から手を離して、向き直った。
「どうぞ。お待ちしていました」
◇
夜が明けたのか、また暮れたのか、リンネにはもう分からなかった。
馬車の中の壁は、三面が文字で埋まっていた。
リンネは四面目に取りかかっていた。
思考は明瞭だった。観察は続けられていた。
ただ一つ、気になることがあった。
リンネは壁にそれを刻んだ。
問題があるとすれば、彼らではなく、私の常識の方なのかもしれない。
刻み終えて、少し考えた。
しかし、すぐに打ち消した。
常識とは多数決だ。正常と異常を分けるのは数の論理に過ぎない。
扉が開いた。
リンネは向き直った。
次のカウンセリングが、始まった。




