また辿り着けるといいですね
もし、あのとき別の選択をしていたら――。
そんな小さな「分岐」の感覚をテーマにした短い物語です。
ゆっくりとした余韻を味わっていただければ幸いです。
いつもの週末。
特に目的もなく、ぶらりと呑みに出かけた。
駅前をゆっくり歩いていると、見慣れない明かりが目に入った。
スナック、だろうか。
こんなお店、あったかな。
何年もこの街に住んでいる。
駅前の顔ぶれだってだいたい知っているつもりだった。
それなのに、その扉には見覚えがなかった。
小さな看板、すりガラスの向こうに、オレンジ色の柔らかな光。
何気なく、扉を押した。
「いらっしゃいませー」
女性の声がした。
店に入ると、ふわりとタバコと柑橘系が混ざったような香りが漂ってきた。
カウンターは10人ほど座れる広さ。
奥にボックス席が2箇所。
こじんまりとしているが、清潔感があって落ち着いた雰囲気だ。
ごくごく普通のスナックだと思った。
「お客さん、初めてですね」
カウンターの中から、女性が微笑んだ。
40代後半だろうか。
目元に品があって、物腰が柔らかい。
もう一人、少し若い女性がグラスを拭いていた。
「ええ、初めてです。このお店、昔からあったんですか?」
「えぇ、10年以上前からずっとやってますよ」
「そうなんですか。全然気がつかなかった」
ママはクスッと笑った。
その笑いが少し引っかかったが、深くは考えなかった。
週末というのに、客は誰もいなかった。
こういう日もあるのかな、と思いながら席についた。
「何呑みます?」
「焼酎の水割りでお願いします」
慣れた手つきで、グラスに水割りが作られていく。
氷の音が静かな店内に響いた。
「私も一杯、呑んでもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「カンパーイ」
グラスが軽く触れ合い、
氷が溶ける音だけが、ゆっくりと広がった。
ふと視線を巡らせると、不思議に思った。
扉が、5つある。
1つは入ってきた出入り口。
1つはトイレだろう。
だが残りの3つは——何も書かれていない。
ごく普通の扉が、壁にさりげなく並んでいた。
「扉が多くて面白いお店ですね」
「あらー、気がつきました?」
ママは楽しそうに目を細めた。
「もし気になるのでしたら、開けてもらってもいいですよ」
「ふーん、そうなんですね」
特にそれ以上気にすることなく、焼酎を口に運んだ。
悪くない夜だった。
いい感じに酔いが回ってきた頃、トイレに立った。
「お手洗いはこちらですよ」
ママがカウンター越しに手を差し伸べる。
トイレの隣に、例の扉の1つがあった。
何も書かれていない、普通の扉。
一瞬、ノブに手を伸ばしかけた。
でも、トイレが先だな。
そう思い直して、扉の前を通り過ぎた。
席に戻ると、おしぼりが差し出された。
「おかえりー」
「ありがとう」
もう一杯、水割りを頼んだ。
3つの扉が気になって仕方ない。
人としての好奇心だろうか。
それとも、少し酔いが回ったせいだろうか。
それを察したように、ママが口を開いた。
「気になりますよね」
「え?」
「お客さん、さっきから扉をちらちら見られているので」
「……気になりますよ。こんなにたくさん扉のあるお店、初めてなので」
「開けてみます?」
開けたい。
いや、やめておこう。
その気持ちが交互に押し寄せた。
「ところで、お客さん地元の方?」
ママが話題を変えた。
「そうですよ。だからこのお店、ずっと前からあったのかなと不思議に思っていたんです」
ママはまた、あのクスッという笑いをした。
さっきと同じ笑い方だった。
「……え、なにその笑い?」
しばらく、沈黙が流れた。
「何でもないですよ、お客さん」
ふと時計を見た。
23時を少し回っていた。
「まだ大丈夫ですよ」
ママの声が、どこか遠くから聞こえるように感じた。
気のせいだろうか。
「いや、今日は帰ります。扉は……次の楽しみにしておきます」
笑顔で返すママ。
お金を払い、店を後にした。
夜風が少し冷たかった。
雰囲気の良いお店だったな、と思いながら歩いた。
翌日。
何気なく、昨日の道を通った。
ない。
確かにここだったはずだ。
見慣れた駅前の通り。
あの小さな看板があったはずの場所には、何もなかった。
壁があるだけだった。
お店の名前も、思い出せない。
そのとき、帰り際のママの言葉が耳に戻ってきた。
「また辿り着けるといいですね」
見送りの言葉にしては、どこか変だと思っていた。
今になって、その意味がじわりと染みてきた。
何気なくポケットに手を入れると、ライターが1つ。
お店のロゴが入っているが、文字は消えかかっていて読めない。
でも確かに、昨夜あの店でもらったものだった。
あの扉の1つくらい、開けておけばよかった……。
もう一度辿り着けたとして——今度は、開ける勇気があるだろうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
誰にでも、気になりながらも選ばなかったことや、
踏み込まなかった場所があるのではないでしょうか。
この物語の扉は、そんな「もう一つの可能性」です。
あなたなら、開けましたか?
少しでも余韻が残れば幸いです。




