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4来訪、再会、天変地異


 肝心のチャーハンのお味についてだが、短時間で調理したにしてはなかなかいい味をしていると、僕自身は評価している。

 水分もきっちり飛んでるし、野菜の噛みごたえもバッチリだ。ただ、モモちゃんこと妹、桃里はどうなのか、作り手として気になるところなので、

「おいしい?」

 と感想を訊いてみた。

 モモちゃんは微かに頷いた。ふっくらと柔らかいほっぺをチャーハンで膨らませているのは、マズくない証拠にはなりそうだけど、出来れば口を開いて感想を聞かせてほしかった。

 どうやら黙りモードに入ったらしい。こうなるとモモちゃんの中に僕は存在しなくなり、空気中のキセノンレベルで薄い存在になってしまう。

 ストレートにいうとシカト。妹思いの僕にその精神攻撃は効果大なのである。

 彼女と会話することは喜びの一つなので、モモちゃんの口をなんとか開かせようと思案したけど、何も方法が浮かばなかった。

 家で預かることになった女の子をダシにしようとも考えたが、もう訊くことがないことに気づいて断念する。他になにかあっただろうか。

 カチャ。僕のそんな思いを断ち切るように空になった器とスプーンがぶつかり合う音がした。食べ終わったモモちゃんは小さく手を合わせ、空いた食器を流し台に持っていく。

 パターンとして、そのまま自分の部屋に行ってしまうだろう。いつもは気にしないのだけど、いかんせん、今はウチに二人っきりだ。兄妹仲を深めるいいチャンスかもしれない。できればなんで僕を毛嫌いするようになったのか、教えて欲しいところである。

 と、いろいろ考えているうちにモモちゃんはリビングから出る扉に手をかけていた。

「ウィンナーもなかなかおいしかったです」

 最後にそう言うとドアを閉めて出ていった。


 残されてぽかんとする。久しぶりに笑顔が見れたと、嬉し涙が出そうになった。我が生涯に一辺の悔いなし、と崖っぷちで叫びたくなったが、もちろんそんな行動力を僕はもっていない。

 さて、

 僕も空になった器を流し台にもっていく。皿洗いはあとでまとめてやればいいから今は放置だ。

 これから何をしようか。

 当初の目的のお風呂に行こうかとも考えたが、妹とまったく思考回路が同じと見られるのも、なんとなく癪なので風呂はいつも通り夕方まで見送りにすることにした。

 そうなると午後の予定ががら空きだ。夏休みの宿題に手をつけようとも思ったが、半分以上終わらせて余裕があるくらいなのでとりわけ焦るような問題ではない。強迫観念はあるけれど。

 次に思い浮かべたのが散歩だった。しかし真夏の太陽の元気っぷりを考えれば、ベストな選択とは言えないだろう。行く手には炎天下がどっしり待ち受けているし、アスファルトに反射する太陽光は上と下とで容赦なく僕を照り焼きにするだろう。思い浮かべたら、外出する気もなくなってきた。僕が脆弱な精神をしているからではなく、殺人的太陽光を思ってのことだ。外に出るならば、近場を選択しなくては。

 そうなると……、

 一瞬花見川むくげの顔が浮かんだ。

 すぐに首をふってイメージを飛ばす。彼女と会う予定はもうないのだから忘れてしまっていい人だ。第一、会おうにもどこに行けばいいのかサッパリである。不法投棄場?山登りはもう御免だし、会える可能性は皆無だ。

「コンビニ行こう」

 片手で握り拳を受けとめる古典的アクションを虚しく演じ、惰性が導き出した結論は、歩いて5分の市民の味方だった。


 二階に上がり、『とうり』とピンクのネームプレートがかかったドアをノックする。返事はない。許可なくドアノブを捻るなんて野暮なことはしないけど、どうせ鍵がかかっていて僕の侵入を拒むだろう。

「コンビニ行ってくるけど何か買うものある?」

 ドア越しにモモちゃんに語りかける。なにか必要なものがあったら同時に済ませてしまおうと思ったのだ。数秒の沈黙があって中から返事があった。

「……ピノ」

「ピノって、アイス?」

「はい」

「了解。それじゃ行ってきます」

 すべきことを終えたので、階段に向かって歩きだす。

「あ、待って下さい」

 すでに背後にあった扉が開いて中からモモちゃんが出てきた。呼び止められるなんて久しぶりである。ドアから少しだけ顔をだし僕を見つめている。

「なに?」

「あの、兄さん、ちょっと……」

 なにか言いづらいことでもあるのだろうか。とりあえず、進んだ数歩分後ろに下がり、彼女の話やすい位置に移動した。

「少しここで待ってて下さい」

 バタン。生ぬるい風圧に目を細める。中になにかを取りにいったらしい。

 モモちゃんとこれだけ多く会話をするのは久しぶりな気がする。

 前半、わけのわからない女の子にからまれてマイナス点だった今日の運勢は後半にきて怒濤の追い上げを見せているようだ。

「お待たせしました」

 またすぐにドアが開いてモモちゃんが手になにかもって現れる。

「お金ならいいよ。アイスくらい奢ってあげる」

「違います」

 財布でも取ってきたのだろうと思ったのだが違うらしい。

 なにが、と口を開くのを遮り、彼女は手に持っていたものを無理やり僕の胸に押し当ててきた。ほぼ条件反射で受け取る。譲渡がすんだと判断すると、悪い目つきで僕に一瞥をくれドアをパタンと閉めた。

「玄関に落ちてました」

 手に持っていたそれを、おそるおそる見てみる。

 橘特選DVDだった。

 その内の一本が、手の中にある。ドアを挟んだモモちゃんの声は深い泥の中で聞いているように妙に遠い。

 あっれー、おかしいな。全部紙袋につめたと思ったのに落としたんだろうか。

「ち、違うよ、モモちゃん!このアダルトDVDは橘の奴が、」

 カチャ

 返事はなく、代わりに鍵が閉まる音が虚しく響いた。

「……」

 奇跡の追い上げを見せたさそり座の運勢はゴール間近で失速し、落とし穴のトラップにはまって死んだ。モモちゃんは、この先僕と口をきいてくれるのだろうか。望みは限りなく、薄い。

 彼女の部屋のドアは文字通り固く閉ざされていた。教会のような静謐で荘厳な雰囲気を醸し出し、不浄な心を寄せ付けようとはしない。

 どんなに誤解だと声高々に叫んだところで、疑わしい時点で罰という厳格な意思で僕の言葉を跳ね返すだろう。

 見えない空気のバリアと先ほど鼓膜を刺激した現実の鍵とが、僕と妹の間に深い溝を作り出した感じがする。子供部屋の薄い扉のはずなのに、隔てる壁はエアーズロックのように堂々聳え立っている。


 沈みこんだ気持ちのまま、僕はとぼとぼと階段に向かって廊下を歩きだした。

 いつか分かってもらえる日を、信じ足を動かすことにする。立ち止まってなんかいられない。足を止めれば涙が流れそうだから、ではない。


 階下のすぐ先に玄関がある。階段を下りながらひとまず、捨て忘れてしまい残ったたった一枚のディスクをどうするか考えていた。

 中途半端に残された物を処分するのは意外に面倒だ。一度に済ませられれば楽なのだが、もう一回同じ作業をしなくてはいけない。二度手間である。

 そんな煩わしさを伴って僕の意識は深層へと沈殿していく。外の気温を考えれば、また山登りなど脳天気なことは言ってられないだろう。

 あの辺りの丘陵地帯は、太陽により一層近いからか、余計に暑く感じられるのだ。イカロスの蝋で固めた翼もデロデロに溶けてしまうことだろう。

 たった一枚のDVDくらい残しておいても構わないのだが、妹だけでなく両親に見つかったらと考えたら、おちおちしていられない。隠し通すのが困難な現状、処分が最良の選択だろう。

「だけど、あそこに行くのは面倒なんだよなぁ」

 しゃがみこんで靴に履き替える。意識しなかったが、僕のスニーカーは先ほどの登山の際についたのだろうか、泥が微量に付着していた。数グラム重くなった履き古しの靴は、それだけで僕の足を鉛にしそうだった。

 ピンポーン

 憂鬱から飛びかけた意識を引き戻すように、玄関チャイムの弾ける音が響きわたった。顔を上げ、すぐ目の前のチョコレート色のドアを見る。この先に誰かいるらしい。

 郵便配達とか回覧板だろうか?新聞代はまだだろうから考えられるのはこの2つであり、まさか妖しげな宗教勧誘とかではあるまい。

 催促するようにもう一度チャイムが押された。それに「はーい」と応え、立ち上がってドアノブに手をかける。

 なぜドアスコープを覗かなかったのか。この時、躊躇という名の警戒をみせていれば、流されるような生き方をしなくてすんだかもしれないのに。

「どうもこんにちは」

 玄関というのは出発を見守り、帰還を受けとめる神聖なる場所だ。人々が出入りする場所はそのまま幸せの通り道に直結すると僕は考えている。

 そんな場所に、僕の不幸を象徴する人物がのっそり立っていた。

「花見川、」

 むくげ。

 変わった花の名を持つ少女。

 二度と会うことはないと思っていたはずの彼女がそこにいた。

「よっ、トウちゃん久しぶり!さっきは、その、失礼しちゃったね……」

 そこに居るのがさも当然のように身の丈あるほどのキャリーバッグを持って僕に気さくに笑いかけている。

「あ、それは別にかまわないけど、は、花見川、さん、なんで君が僕の家を知っているんだ?まさか尾行したのか?」

 言葉を失いそうになるけど、ここで気落ちしてたら、僕の心は霧散してしまいそうなので必死になって言葉を紡ぐ。

「嫌だなぁ私にストーカー癖はないよ。ていうかっ」

 びっ。彼女の指先が僕の鼻の頭ギリギリまでつけられる。

「私のことは下の名前――むくげ で呼んでって言ってるでしょ」

 初対面の女の子を下の名前で呼ぶなんて小人の僕には憚る大事だ。

「……そんなことより指が近いよ」

 ふう、と息をついて腕を下ろし「そんなことより、じゃないよ」と前置きを置いてから彼女は続けた。

「むくげ、って知ってる?漢字ではキヘンにすみれって書いて槿むくげなの。読みにくいって平仮名で名付けられたけど、それがまた柔らかいイメージで気に入ってるんだ」

「そうなんだ。それより、」

「韓国じゃ国花になるくらいメジャーな花なんだって。白居易っていう有名な詩人が一日花として儚いイメージを植え付けたらしいよ」

 白居易なら聞いたことがある。唐代の詩人で、案禄山の乱で知られる玄宗と楊貴妃のエピソードを七言古詩の長恨歌で詩にした人だ。連理の枝に比翼の鳥と、心に響く言葉が多くあるので印象に残っていた。

「日本では古くは朝顔って呼ばれる朝咲いて夜しぼむ白や紅紫色の花のことをさすの。万葉集かなにかに書かれてるよ。勿論今の『朝顔』とは別物だけどね。トウちゃんも見たことあると思うけど、朝顔より少し大きくて、」

「じゃなくて!」

 マシンガントークの弾切れは期待できそうになかったので、たまらず怒鳴っていた。

「なんで、君がココにいるのさっ!」


 セミの鳴き声を表すときしばしばジージーやミーンミーンが多用される。前者は油蝉、後者はミンミン蝉の鳴き声だ。

 だけど、気のせいか、この時僕の耳には、ヒグラシのカナカナカナ…という切ないメロディーが響いていた。時期的にまだ早すぎてありえないけど、局地的天変地異なら僕の世界で確かに発生していたのだ。

「あれ?聞いてないの?」

 キョトンとした表情を、すぐに緩ませて、彼女は破顔して続けた。


「今日から白江家のお世話になる、花見川むくげ です。よろしくねっ!」


 おいおい、まさか……

 玄関も夏の熱気やられたのか、僕の思考は回らない。

 今日から預かる女の子って、花見川……。


「それはそうと、トウちゃん。さっきから大切そうに胸に何抱いてるの?」

「あ」

 僕は視線を落とし、それから静かに泳がせた

「不潔ー!」

 その二文字が再び響くのにそう時間はかからなかった。




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