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25乱入、噴煙、決着


 今までの努力がすべて水の泡となる、とってはいけない行動というものがこの世には存在する。例えば今、花見川が取っている動作がそうだ。安っぽい感情にまかせて、教室に戻ってきたはいいが彼女が来たところで現状は改善どころか、悪化するだけだろう。

「戻れっ、バカ!」

 どうして僕が樒原に殴られているか、わからないわけではあるまい。彼女が戻ってしまったら意味がなくなってしまう。切れた舌を震わせ大声をあげる。

 僕に馬乗りになっている樒原はニタニタと笑いながら、花見川を歓迎しているようである。彼女は動かず教室の惨状を、両目を見開いて観察していた。机がたくさん崩れ、男二人がもみくちゃになっている様子、といったら語弊があるが、僕が樒原から暴行を受けていることは確かである。

「早く行けっ!」

 もう一度叫んだ。なにをしに戻ってきたか知らないが、頼むから自分のことだけを考えて生きていってほしい。

 いくら樒原が通り魔だろうと、殺しはしないだろう。少しいたぶられるだけだ。そういう淡い期待を突っ立ったままの花見川に再び吐き出そうとした時だ。

「トウちゃんからぁぁッ」

 こっちに向かって彼女は走りだしていた。手に持った物をいじりながら、怒涛の勢いである。あれは、

「嘘、だろ?」

 消火器だった。階段のところに備えつけられていたものだ。

 呟く樒原に、少女は安全ピンを外し、照準を合わせレバーを握った。

「離れろぉぉぉ!!!」

 赤い円筒形を携える少女の姿はすぐに薄いピンクの煙に紛れてわからなくなった。彼女の叫び声と噴射音とがまじり、いきなり戦場に出たのではないかと錯覚させられるほどの硝煙弾雨。

「ぶっ」

 消火剤に含まれる成分が僕の視界を覆い隠した。雲に突っ込んだかのようだ。正確には僕ではなく、上に居座る樒原が包まれているのだけど。

「て、めぇ、くそがっ!止めろ!」

 彼は叫びながらむせび返っている。あたり前だ。消火器にはキチンと『人に向けてはいけません』と注意書きがされているハズであり、いくら人体に無害だと言っても、その煙自体がスモーク弾のようなものなのだ。

 消火剤の粒子はとても細かく、少し吸っただけで咳がおこる。勢いも想像以上に凄まじく、直撃を食らっていない僕も状況が把握出来なくなるほどあたりはピンクの噴煙に満ちていた。

「ど、けぇぇぇ!!!」

 花見川が叫んだのとほぼ同時に、僕の身体がふっと軽くなった。どうやら僕の上に乗っていた樒原が堪らずどいたらしい。

 ブシューと轟音をあげ吐き出される消火剤に終わりが見えないので直接止めに行こうとしているようだ。

「でめぇ、くそったれがっ!」

「こ、こないで!」

 視界が悪い。煙が目に入らないよう閉じているのだろうか、樒原はヨタヨタと移動しながら消火器をむける花見川に近づくが、常に距離を取ろうとする彼女にたどり着きそうもなかった。

 上からの圧力がなくなった僕は、軽くなった身体を起こし立ち上がる。殴られた痛みやらなんやらが倦怠感に変わろうとしているが、ここで転がって見ているだけなら将来絶対に後悔するだろう。着々と花見川に近づく樒原の背後に一気に走る。

 僕の視界も相変わらず最悪だが、樒原が壁になっているため直撃は免れている。僕は目を極力閉じないように彼の背中にまわった。

「んなっ!?」

 首をロックし、身体を宙に浮かせ、足が軸にならないよう床にたたきつける。思ったよりすんなりできた。今朝読んだ格闘技の本に書いてあった取り押さえ方だ。彼を転ばせた後は、ドラマの中の刑事がやるような体勢で、腕を捻りあげ本の通りの間接技で自由を奪った。

「てめぇ、調子こいてんじゃねぇぞタコっ!さっさと放せ!」

「嫌だっ!」

 上手く技は決まっているらしい。彼の自由を見事に奪ったのだから、本の知識もなかなかバカにしたもんではない。非力な僕の力で殺人鬼を取り押さえているのだ。これはもう凄まじい奇跡なのである。

「花見川、花見川っ!」

「ふ、ふぇ?その声はトウちゃん?」「樒原は無力化したから、噴射を止めてくれ!」

 噴煙は変わらず僕らを包んでいた。

 味方である僕にも見境なく煙は襲いかかっている。もう、凄まじくて目も開けていられない。

 必死の訴えに、花見川は噴射口の向きをかえ、煙が直接僕らにかからないようにした。

「と、トウちゃん、すごい!」

「君のおかげだよ。っごほ。そ、それより早く消火器を止めてくれ」

「あっ、え、これどうやって止めるの?」

「レバーを握るのをやめれば、とまるはずだろ」

「え、でも止まらない、あれ」

 口の中が粉っぽい、僕が抑えつけている樒原も苦しそうに咳こんでいる。タンは消火剤のピンクになっていることだろう。

「嘘だろ。壊れてるなんてことはないはずだから……、あっ、安全ピンは?アレをもとの位置にさせば…」

「あ、と、とまった…」

 ようやく止まった消火器だが、その噴煙自体が火災と間違うのではないかと思うくらいの凄まじい勢いだった。

「……なかの薬剤がなくなったんじゃない?」

「え、そ、そんなことないよ!私がなんとか止めたんだよ!まだ残ってるはずだから」

「それならいいんだけど」

 粉だらけの僕らと違い一人小綺麗なセーラー服姿の花見川は一仕事終えたように額の汗を拭った。僕も身体中の粉を振り落としたい。

「一件落着みたいな雰囲気のとこ、わりぃんだが」

 僕に抑えつけられたまま床に伏した樒原が声をあげた。

「どいてくんねーか?痛いんだわ」

「誰がどくか。さっきむちゃくちゃ殴られた恨みをはらしたいところだね」

 僕の口内は血液と消火剤とが混じって凄まじい不快感を演出しているのである。最悪な気分だ。

 ジンジンと痛みが続く頬も、血が止まらない鼻も、蹴られた脛も、すべてひっくるめてコイツのせいだ。

「そりゃ今のでチャラだろ。はやくシャワー浴びたいんだけど」

「奇遇だな。僕もだ」

 二人同時に花見川を見つめると、困ったように彼女は頭をかいた。

「あの状況でいいアイデアが浮かばなかったんだもん…」

「まあ助かったよ、ありがとう花見川。君が助けに来てくれなかったら僕はこの殺人鬼の新たな犠牲者になるところだった」

 再び赤髪に視線を落とす。彼の頭髪はいまやピンクの粉で悲惨な目にあっていた。

 彼だけではない、教室中がチョークの粉をぶちまけたみたいな有り様だ。これの片付けはさぞ骨が折れるだろう。

「あん時は殺そうかとも思ったが今はなんだか興がそがれて、やる気が萎む風船みてぇにどっかいっちまった」

「一生やる気スイッチをオフ状態にしといてくれ」

「だから、もうなんもしねぇから、どいてくれっつうの。痛いしかったるいしで最悪だわ」

「信じられると思うか?君は犯罪者だぞ。今放したら僕がピンチじゃないか。それに花見川もいる」

「っち、細けぇやろうだな。このままじゃお前も体力なくなって結局勝つのは俺になるとこを見逃してやるって言ってんのによ」

「言ってる意味がわからないよ」

「だから、今から警察をよんで来るまでずっと俺を押さえつけられるとでも思ってんのかよ。どうせジリ貧になるんだから、今の有利なうちに勝利者宣言しとけっつう話だ」

 不利な状況だとわかっているならなぜ彼はこんなに上から目線なのだろうか。そう疑問に思ったが、彼の言っていることに一利あった。確かにこの状況では埒があかなく、最悪終いまでは僕のスタミナがもたないだろう。

「今の発言、勝ち鬨をあげろってことはつまり、僕の勝ちってことでいいんだな?」

「お前たち、の勝ちだ。もうどうでもいい、早く帰りてぇ」

 昨日の夜、僕と樒原が交わした約束の一つ、花見川と会うのをあきらめてもらうためには喧嘩に勝つというもの。もうすでに出会ってしまっているので必然その前に提示した方の条件を飲んでくれたのだろう。花見川自体を諦める、という条件。

 そんな事情を知らない花見川は、僕らがなんの話をしているのかわからないといった表情でキョトンとしていた。

「本当に本当だろうな?解放した瞬間、やっぱ嘘、っていって牙をむくのはなしだぞ」

「そんなケチなことしねーよ、てめぇじゃあるまいし」

「よし、それじゃ勝ちということで、もう僕らと関わりあいになるのは止めてくれよ」

「あー、はいはいわかりましたよ。下手に藪をつついて粉まみれにされるんじゃかなわねーしな」

 彼と決着がついたようなので、つかんでいた腕を放すことにした。

「あ、そのまえに樒原もう一つ条件を飲んでくれ」

「ああん?なんだよ」

 大切なことを寸前で思いだした。

「教室元通りにしといてくれない?」

 完全に彼を解放する前に、軽くあたりを見渡し惨状に頭が痛くなった。机は倒れ、教室は粉まみれ、中途半端に使われた消火器は、その存在自体を秘匿するのが難しいだろう……下手したら停学ものである。出来ることなら先生にバレないようにしときたいところだ。

「はぁぁ?なんで俺が!?やだよ、だるい!」

「君が教室に来なきゃこんなことにはならなかったんだ。頼むよ」

「知らねーよ!てめぇらの教室だろ!むちゃくちゃにしたのは俺じゃねぇしよ」

「このままじゃ学校に君が不法侵入してたことがバレるし、そうなると君の会社の人たちにも迷惑がかかるんじゃないかな。僕如きじゃこの惨状を改善できそうにないし」

「脅す気かよ……、はぁ、まぁ一理あるし、しょうがねぇな。仲間に手伝ってもらうか…」

「仲間?」

「掃除がめっちゃ上手い能力を持つやつ」

 なんでもかんでも能力ってつければ認められると勘違いしてないだろうか、この殺人鬼。

 花見川は相変わらず首をひねったままなので気づいてないみたいだけど、下手したら君もその怪しい樒原カンパニー(仮)という微妙な会社に入社させられるところだったんだぞ!と声を荒げたかった。

「全部君に任せるよ」

 言って僕は立ち上がる。約束通り解放された樒原は僕らには何もせず服についた消火剤を払いおとしている。

「にしてもこれを元に戻せってか、はぁぁ、鬱だぁ…」

「それじゃ僕たちは帰るから」

 肩を落とす彼を無視して花見川と一緒に教室を出ようとあるきだす。

「マジか。少しは手伝ってけよ」

「断る。自分でまいた種だろ。自分でどうにかしなよ。箒やちりとりはそこのロッカーに入ってるから」

「なーんか納得できねぇな」


 ぶつぶつ不満を口にしている彼の方をドアに手をかけ振り向いた。最後のお別れの言葉を爽やかに言ってやろう。 

「それじゃあな、樒原。もう二度と僕らの前に現れるなよ。付き合ってらんないからさ」

「そりゃこっちのセリフだ」

「あ、そこのナイフ忘れるなよ。床にキズがついて無きゃいいんだけど」

「んーあー」

 樒原は肺に溜まった空気を吐き出すように低い唸り声をあげながら、体からピンクの粉を振りまいて腰を屈めて床に転がる囮にしたナイフを拾う。

「床にゃ、キズはついてないみてぇだなぁ」

 僕の心配に返事をしてから、近くに落ちていた革製のカバーでナイフの刃を覆うと、それをひょいと投げてきた。

「え、なんだよ?」

 うろたえつつもなんとかそれをキャッチする。柄の部分だった。

「餞別」

「いや、いらないんだけど」

「うるせぇな。てめぇは軟弱なんだから武器くらい持ってろ」

「いらないものを押し付けてないか?」

「今俺機嫌わりぃから、ピーチク騒いでるとそのナイフで舌を刻むぞ」

「それはご免だ」

 触らぬ樒原に祟りなし、だ。大人しく受け取ったソレをしまう。

「てめぇのせいで収穫ゼロであとで大目玉くらう俺の身にでもなってみやがれ」

「慰謝料と医療費をチャラにしてやった僕の度量の深さに感謝しなよ」

 心配そうな花見川の背中をとんと押してやり、廊下に出た。忘れる前にさっき回収した彼女の携帯電話を渡しほっと息をつく。

 やっと安心できる日々が帰ってきた。あのクサレ殺人鬼と二度と会うこともないだろう。

 花見川と出会って始まった奇妙な3日間、密度が濃い72時間だったけど、過ぎてみれば、いい思い出に、…なる、のかなぁ、これ。

 びっこを引く僕の足を花見川は心配そうに見ていた。




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