23暴力、策略、逆転の礎
遊園地のコーヒーカップをふざけて回し過ぎた時に起こるような生暖かい血液が僕の脳みそをたぷたぷと浸していた。鏡の迷路で自己を見失いかけた時のように、僕の気分は最悪だ。簡易版インフルエンザを食らったような心持ち。
流れていた『乙女の祈り』はやみ、再び静寂が支配している状況下で、僕を見下すように樒原は言葉を吐き捨てた。
「一方的ってのもつまらねぇな。ちょっとはやり返してみたらどうだよ」
視界にはくすんだ白い床。教室のタイルにはところどころ上履きでついた黒い擦り跡がついている。そこに頭をつけて寝転んでいるのだと思うとさらに気分が沈みこみそうだ。
「立てよ。こんなんじゃねぇだろ」
一つの綿埃が落ちているのを見つけた。だから学期終わりの大掃除はちゃんとすべきなんだ。汚い世界に反抗心がくすんでいくような気がした。
「無理。ギブアップ。立てない、というか立ちたくない」
「おいおい、いいのか?だったら俺は花見川むくげを追いかけるぜ。今ならまだ間に合うだろうからな」
「それは困るな。ちょっと待ってくれ今足に力を……」
言い切る前に樒原は駆け出す態勢をとっていた。反射で手を伸ばし彼の足首を掴む。ギリギリのところで抑えることができた。
「なんだ、まだ腐ったわけじゃなさそうだな」
「僕にナイト様は無理みたいだけどね」
武闘派ではないただの高校生になにを求める。
カラン、と小気味よい音をたて何かが頭上から降ってきた。チラリと目をやる。ナイフだった。頬の横に、昨日彼と投げ合った思い出のナイフが存在していた。
樒原がなぜか知らないが落としたらしい。
「拾えよ」
「……」
「サービスで、貸しといてやる。俺は今からお前に徹底的に暴力を加えるからな。ただやるだけじゃ寝覚めが悪くなる」
情けで僕に武器を寄越した、とでもいうのか。フィクションの痺れるワンシーンでも演じているつもりなのかもしれないが、それははっきり言って油断だし、余りにも僕をバカにし過ぎている。
「ナイフを持ってる方が、優位に決まっているじゃないか」
「だからだ。武器を持っていても俺には適わないって教えこんでやんだよ。立ちな。いつまで寝っ転がってるつもりだ。蹴り上げるぞ」
「とんだ自意識過剰だ」
口で言いつつ、彼の足首から手を放し、ナイフを拾ってから足に力を込める。生まれたての子馬よりは早く立てたはずだ。
僕が立ち上がるその様子をバカにしたように樒原は鼻で笑った。油断しているならそこをつかなきゃ、絶対的弱者には勝ち目がない。
鞘のようについていた皮のカバーを外し、横に放った。佐々木小次郎はそれで敗れたけど、実際は試合中、刀をおさめる鞘は邪魔になるから仕方ないのだ。
抜き身になったナイフ。わかっていたことだけど、やはり刃物は刃物だった。窓の向こうの太陽を浴びて淡く白い光を反射させるそれは下手をすれば人の命を奪う危険なものだ。
「これは痛いじゃすまない。わかってて僕にナイフを渡した意図が読めないんだけど……。ああもしかして警察が来た時に被害者と加害者を逆転させるためか?」
「んなセコい事は考えてねーよ。ただ単に俺はお前に教えたいだけだ」
ムカつく笑顔をしたあと、続けた。
「なにをしても俺には勝てない、ってことをな」
「えらい傲慢なんだな。ナイフは簡単に肉を裂けるぞ。渡さなきゃよかったと後悔するかもしれないよ」
「覚悟を持って人にナイフを向けるのは案外難しい。良心がストッパーになって考えているようには出来ないからだ。お前が人を殺そうするやつには見えない」
確かにただの高校生の僕がそんな覚悟を持てるはずがないし、これから先、人に殺意を向けたという十字架を背負って生きていきたくはない。
「それゆえ、覚悟をもっている俺のほうが、お前に勝るのは道理だろ?人に殺意を抱くのを肯定するわけではないが」
「それでも、君は殺されるもしれないだろ。僕にその気がなくても事故ってしまう恐れさえある」
「素人にヤられるくらいなら、その程度の実力しかなかったってだけの話だ。そんでもってそうされないだけの自信と経験が俺にはある」
「ナイフを装備したくらいの僕に負ける気はしないってことか」
「そういうこと」
勝てる気がしなかった。樒原の言う通り、意識も意思もない僕がいきなり血が飛び交うバイオレンスな世界に行けるはずがないのだ。今だってナイフを持つ手が震えている。僕はいつだって弱いだけの人間だ。弱いから中学生の時女の子を泣かせてしまったし、妹の信頼を勝ち取ることも出来やしない。だけど、ナイフを躊躇なく振るえることが強さだというなら僕はそんな強さなどいらない。
「樒原、君の言う通りだ」
「分かったのなら、そこで黙って突っ立ってろ。警察を相手にするのは面倒なんだ。はやく花見川むくげを追いかけて誤解を解かなきゃなんねぇ」
「確かに僕がナイフを持ったくらいで、連続通り魔犯にはかなわないだろう、だから」
花見川の顔が浮かんだ。これは時間稼ぎではない、僕の覚悟で、最初の勇気だ。
「ゲームをしよう」
「ゲーム?」
腕を伸ばせば届く距離、それはつまり殴り合うことができるということだ。それでも樒原は僕の言葉に耳を貸す気にはなってくれたらしい。
「そう、ゲームだ。ルールつきのレールの上なら僕の勝算はゼロにはならない」
「おもしれーこというじゃねぇーか」
「ルールは昨日と同じ、ナイフを投げ合って落としたり刃の部分を掴んだら負け」
「はぁ、わかってんのかお前?」
ため息をついてから樒原は続けた。
「言っておくがナイフの扱いには結構長けてるぞ、俺は。昨日の夜だって内緒にしてたが実は得意な遊びを提案したにすぎないんだ」
ああ気がついてさ。現に樒原がナイフを落としたのは不意打ちの一回だけだ。あとは全部僕の負け。
「折角のチャンスを俺の土俵でやるってのかい?まあジャンケンとかまるっきり運まかせにされるよりはマシだがよ」
「だからこそ、君の得意なゲームで勝つからこそ、それが僕の完全勝利になるんじゃないかな」
「なるほどな。喧嘩で勝敗を決めるより確率が高いとふんでるわけか。ふん、愚かな選択肢だ」
「勝てば官軍だろ。勝負はなんであれ勝てればいいんだ」
「いいぜ、のってやる。ちなみに言わせてもらうが、俺が負けるなんてことは絶対にありえないからな」
今のうちに高をくくっておけばいい。見くびれば見くびるほど僕の勝率は上がっていくのだから。
「勝者の権利は、僕が勝った場合、君にはすっぱり花見川を諦めてもらう、仲間に入れたいなんて考えるな。そして君が勝った場合、花見川が警察に行くのを僕も止めるし、君が彼女と話合いが出来るようにもする。これでいいか?」
「いいぜ。万に一つ俺が膝をおった場合は俺の仲間には、無能力者だったと報告しといてやる。それにしてもここまで躍起になって花見川と会わせないようにするなんてひょっとしたらひょっとするかもしれねぇな、あの女の超能力」
痛いところをつかれたが、聞こえなかったふりで無視した。
「次に、投げ合うナイフだけど絶対に取れない速度で投げるのは禁止。落としたら負け。刃の部分を掴むのも。そして最後に、ナイフは」
小刻みに震えが起きる右手でナイフの柄をギュッとつかんで彼に見えるように示した。
「抜き身でおこなう。カバーはなしだ。当然掴んだら、手が切れる」
「はっ、いいじゃねぇか。手のひらに負けのしるしが刻まれるんだ。乙じゃんか」
「決まりだな」
数歩後ろにさがる。ナイフを投げるのに必要な間合いを取るためだ。等間隔で並ぶ机の道で僕たち二人は互いを無言で見合っている。樒原がどれだけナイフの扱いに長けていようが、絶対に負けるわけにはいかない。どんな卑怯な手を使おうと、勝つしかないのだ。
ナイフに目線をやる。震えは止まっていたが、カバーがかかっていない刃の危険度は昨日の倍はあるだろう。振るわなくてよくなったのは救いだが、樒原が僕に武器を渡した油断に賭けることには変わらない。
「じゃ、いくよ」
僕はナイフが天井スレスレになるよう、高く緩やかに放った。




