愚者の楽園
「あ~身体が重い~、ほんっと妊婦ってた~いへ~ん」
ベッドの上で横になりながら、ロラは大きな声で愚痴を言う。
同じ部屋にいるジョエルに聞かせるために。
妊娠前ならば、間違い無くジョエルはロラを気遣う言葉を掛け、優しく抱きしめただろう。
しかし今のジョエルは、ロラを見ようともしない。
「それだけ太れば、妊婦じゃなくても重いだろうな」
馬鹿にしたように言い捨てるジョエルからは、ロラへ対する愛情など欠片も感じなかった。
ベッドの上から降りたロラは、なにやら作業しているジョエルの斜め後ろへ立った。
「は? レベッカ・ブーケ様?」
ジョエルの手元を覗き込んだロラは、低い声で書きかけの手紙の宛名を読み上げる。
「契約の見直しをしたいので、三日後に本館に来てください? あの女をここに呼ぶの?!」
本文も読み上げたロラは、不機嫌な声をあげ表情を歪ませる。
「金の為だ、しょうがないだろう。アイツの生活も保証してやってるから、こんなに金が無いんだ。別館で贅沢に暮らしているに決まってる」
確かにレベッカは、伯爵夫人にしては贅沢に暮らしていると言えるだろう。
しかし別館での食費から維持費、人件費も全て、王宮からの公妾費と王太子の私費で賄われている。
ジョエルの個人資産からも、ブーケ家の収入からも、今は一銭も払われていない。
払われたのは、新婚初日とホテルに行くまでの二日間だけ。しかも食事は一度も食べていない。
本館にあったレベッカの部屋の調度品でさえ、実家のエルフェ家が用意した物だった。
別館へ通じる通路を守る警備兵に、本館の執事が手紙を渡す。
「我が主ウッドヴィル伯爵であるジョエル・ブーケ様から、奥様宛のお手紙になります」
執事が差し出した手紙を警備兵は片手の平に乗せ、そのままスイッと水平に動かした。
手紙がハラリと地面に落ちる。
「はぁっ?!」
警備兵が態と落としたのかと執事は怒りも露わに睨み付けるが、警備兵は気にした様子も無く無言で手紙を拾い上げた。
「この手紙は、レベッカ様への悪意が込められているので、結界を越えられません」
警備兵に言われ、執事は目を丸くした。
「結界? 結界が張られているのですか? 王家の私室でもないのに?」
王城内にある王族の居住地には、特殊な結界が張られているのは有名だった。
しかしここは、一伯爵の敷地内に在る別館である。
「ここには王太子殿下もお泊まりになられます」
当然のように護衛兵は言うが、先程の台詞ではレベッカを護る為の結界だと言っていた。
何かからくりが有り、ただ単に本館の人間に嫌がらせをしているのだろう、と執事は必死に解決策を考えた。
「では、私が手紙の内容をレベッカ様にお伝えしに行きます」
執事は手紙を開け、内容を確認する。
別に特に悪口も何も書いてない、契約内容の見直しを話し合いたい旨と、日時が書いているだけだった。
やはり悪意など無いではないか、と執事は奥歯を噛み締める。
「通れるなら、どうぞ」
警備兵達は最初から道を塞いではいない。執事は二人の間を通ろうと足を踏み出し……見えない壁に阻まれ、尻もちを突いた。
「なぜ通れると思ったのか」
馬鹿にしたように言いながら、今まで対応していたのとは違う警備兵が落ちた手紙を拾い、中身を確認する。
「俺が伝えておいてやるから、お前は帰んな。愛人の存在を隠してレベッカ様を陥れようとした奴等に、この結界は通れねぇよ」
ジョエルからの手紙を執事の胸に押し付けると、警備兵は別館の方へと歩いて行った。
「……と、いうわけなんだが、どう思う?」
ガストンは結界前で起こった事と、手紙の内容をリズへと伝え、相談した。
「行かなくて良いと思う、けど、決めるのはレベッカ様だからなぁ」
レベッカの午後のお茶の準備をしながら、リズが答える。
妊婦にも大丈夫なハーブティーにクッキーと軽食をワゴンに載せる。
「それにしても、不穏な気配を感じるからって理由で俺をあそこに立たせた殿下に吃驚だよ」
レベッカの護衛のはずのガストンが結界入口に居た理由は、ディオンの命令だったようである。
「普通の警備兵じゃ駄目だったの?」
リズが手を止めずに会話する。
「単なる警備兵だと自己判断出来なくて、何度もレベッカ様に確認しに行く事になるだろ」
与えられている権限の違いで、単なる警備兵ならば、その場でウッドヴィル伯爵の手紙の内容をレベッカへ伝えに行っただろう。ジョエルは仮にも夫である。
「それは大分煩わしくて、妊婦のレベッカ様に負担を掛けそうだわ」
リズが納得して何度も頷く。
「そして今俺は、殿下よりもアンが怒りそうでとても緊張している」
ガストンが小さく溜め息を吐き出した。
リズはレベッカ用とディオン用で別々のお茶の準備を終え、ワゴンを押して歩き出す。
その隣を、ガストンが並んで歩き出した。




