多数決
ある日、学校のロングホームルームの時間に文化祭の出し物を何にするかという話し合いになった。
ある人はお化け屋敷。
ある人は店。
ある人はシューティングゲーム。
ある人は音楽会。
意見は全くまとまることはなく、ますます散らかっていく。
これを見かねた先生は多数決を提案した。
全員にプリントの裏紙が配られて、そこに自分が最も良いと思う出し物を書き、最も選ばれたものを文化祭の出し物とする。
この時点では誰も異論はなかった。
このクラスは女子よりも男子の人数のほうが多く、誰もがなんとなく結果を予想していた。
しかし、多くの人の予想と反して、音楽会が最も得票数を得た。
全く持って偏見ではあるが、この世の中に文化祭で音楽会をしたいと思う男など存在しない。
多くが女子の票を得たと予想するのは容易いことだ。
なぜ、このよう事が起こったのか。
男子の票がシューティングゲームと格闘技の2つに割れてしまったのだ。
当然といっていいのかはわからないが、男子は抗議した。
こんな結果は間違っている。
合唱会で同じことをやっているじゃないか。
もう一度やり直すべきだ。
多種多様な抗議の中、一方で女子はこの結果が正しいからやり直す必要はないといっている。
僕はこの現状を少し面白いと思いながら見ていた。
自分自身は、正直言って文化祭の出し物なんてどうでもよかった。
文化祭は他のクラスや部活動を巡るのが楽しいというのが持論である。
そのため、むしろ、あまり人手を必要としない音楽会のほうが都合がよい。
僕が面白いというのは、この議論が社会の写し絵のようになっているように思えたからだ。
現状を変えたくない保守派
現状を否定する改革派
利害が噛み合わず、決して交わる事のない様子はまるで水と油である。
結局、この議論は決着がつかずにホームルームが終わってしまった。話し合いはまた来週である。
終わってもなお、教室には険悪な空気が漂っている。
しかし、険悪な空気になるということは結果はどうであれ、多数決という手段を取ったときから決まっていた。
荷物を鞄にいれて、チャックを閉める。
そうして帰る準備をしていると友人に話しかけられた。
「音楽会なんてありえーねよな」
「それな」
自分としては何でも良かったが、わざわざそれを言う必要もないので適当に相槌を打っておいた。
「そもそも多数決じゃなくて最初から話し合いで決めればよかったのに」
確かに、それはとても合理的なように感じられた。
話し合いとは互いの妥協点を見つける作業である。
それをしてさえいればここまで議論が白熱することもなかったのではないか。
しかし、それでよいのだろうか。
妥協点を探す。
誰もが妥協する。
すなわち、全員が不満を抱えるということ。
それは果たして、多数決よりも合理的な手段と言えるのだろうか。
多数決のようにどちらか一方が不満を担うことはなくなるだろうが、クラス全体の不満の総量は大して変わらないように思える。
最大多数の最大幸福という言葉がある。
これは最も多くの人々に最大の幸福をもたらす行為を善とするという考え方である
この言葉に基づいて考えるなら多数決という手段は善である。
がしかし、今回は少し違う。
なぜなら、文化祭で音楽会をするということに反対する人の数が賛成する数よりも多いから。
とすると、この決定は悪であるとも考えられる。
教室を出て、上靴を靴箱に入れて、靴を履き、駅へと向かう。
駅につくと、なにかの抗議活動が行われていた。
どうやら、米軍の駐屯基地に関することであるようだ。
増設を許すな
政府の横暴だ
様々な文言の書かれた看板は何を伝えたいのかよくわからない。
通行人はそこに何もいないかのように素通りする。
日本に住んでいれば見慣れた光景であるが、今日は少し考えてしまった。
例えば、もし政府が沖縄に米軍基地を100個増設するという一見あり得ない事を行ったとする。
しかし、これは法律などを考慮せず、最大多数の最大幸福のみを考えれば善となる行為なのではないか。
しかし、常識的な視点で見てみると、とても考えられない行為である。
人間は結局のところ利己的な生物であるが、時として、弱者を助けることもある。
異なる2つの性質を持ち合わせており、善の定義づけなど不可能に近いことなのだろうと考える。
駅に入り、財布を取り出そうとする。
定期券を財布の中に入れているからだ。
しかし、財布がない。
待合室に行き、鞄を探してみる。
だが、どこにもない。
誇大な妄想をしていて、財布を落としたことに気が付かなかったのかもしれない。
駅員に聞いてみると、つい数分前に誰かが届けに来てくれていて、財布は見つかった。
何が善か、悪かどうか定義づけすることは難しいが、人間の良心は善であるのかもしれないと思った。