序。-2
薫が歩いて行く先に現れた怪物。その怪物から辛くも逃げるも次に出会ったのは、ビルに取り込まれた女性であった。
コンクリートにめり込みビルから突き出た女性は自分を殺してほしいと、薫に懇願する。
店の奥からパタン、パタンと足音は出口を目指して歩いているのか明瞭に聞こえるようになり、それと同時にその主の姿がぼんやりと薄暗がりから現れる。
相手の容姿を確認して薫は喜ぶどころかジリジリと後退った。
だってそいつは素っ裸で頭のない、腹に顔があるブヨブヨとした巨体だったのだから。
「あーああー」
声というより音を発する、後ろから迫り来る巨体から薫は必死になって逃げていた。
頭の中では逃げよう逃げようとそれだけしか思いは繰り返していないが、曲がり角を見つけその先が狭路だとわかると慌ててそこへ身を滑り込ませる。
滑り込んで直ぐにドンっと大きな音が響いて、その時間の短さに絶望しそうになるが薫は後ろを振り向いて音の主を確認した後、まともに呼吸ができないまま狭路の奥へと足を進めた。
相手となる巨体の腹に顔を収めた化け物は、予想以上に足が速い。どうも若返ったらしい薫は身体能力もその当時に戻ったらしく、百メートルはいかずともたった三十メートルほど全速力で走っても息切れすることはなかった。が、巨体の足の速さに恐れる心は呼吸を浅くさせて薫はぜいぜいと肩を上下に息を吸っては吐いてを繰り返していた。
廃墟のようなビル群とは違い少しは先のありそうな崩れてもいない無人の街にたどり着いたかと思いきや、まさかの化け物に追いかけ回されるとは想像だにもしていなかったと薫は正面を見据えながら心の隅で思う。
ビルとビルの間はとても狭く、あの巨体はこの道に入って来られない。
それに安心して薫は走る足を緩め、息を整えようとその場に留まる。数回、大きく呼吸してようやく頭にも酸素が十分に行き渡った頃、今度はどこからか吹き抜ける風といっしょに微かな、本当に微かな声が聞こえた……そんな気がした。
恐怖による空耳かと思い壁に背をもたれさせ、肺の奥から深呼吸をする。すると今度こそ、
「助けて」
と声がした。
ずっと独りだと思っていたから、薫はその声を聞いて一気に血の気が引くと立ちくらみを起こす。それほどまでに驚いたのだが、この声はどこから聞こえたのだろう。
揺れた視線を地面に落としたまま戻すと、ゆっくりと顔を上げて辺りを見回した。
今、聞こえるのはビルの間を抜ける風の音と自分の呼吸。
他には? と、息を潜めて数秒待つと、再び「助けて」と声が聞こえた。
やっとのことで声の方向はつかめたが、その場所が尋常じゃない。なにしろ声は自分の頭上から聞こえたのだ。その事実に、薫は三度目の恐怖に見舞われた。
(上? 上って……窓とか壁しかないわよね?)
恐る恐る見たくもない上方へ視線を正面の壁から引き剥がすように動かすと、そこから四十五度動かしたあたりでおかしなモノが視界に入る。
ありきたりなコンクリート剥き出しの壁がそこにはそびえているのだが、その壁から、見間違いでなければ人間が生えていた。
その壁から生えている『人間』は脚が完全にビルの中にあって、白衣らしき物をまとう腰から肩までは袈裟懸けにコンクリートへめり込んでいる。唯一固定されていないのは頭と首だが、ボブカットの後頭部を見せていたその『人』は視線を感じたのだろうか、ギリギリと首を回しこちらを見ようとしていた。
「ひ」
薫はその場から後退ろうとしたが、どうしたのか足が動かない。斜め上にある壁からはみ出た頭はとうとう顔を見せてきて、どうにか片目だけ彼女に視線をあわせた。
「た、助けて」
どこかキーの高い声、ふっくらとした頬に真っ赤なラインで引かれた口紅。多分女性と思しきその人物は「助けて」の他にもう一つ、薫へ懇願した。
「お願い、あたしを殺して」
一瞬、薫は己の耳を疑ったが再度、振り向いた顔が「お願い、殺して」と願ってきたからそれが聞き間違いではないと確信する。
けれど、薫は見送る葬儀社の人間であって、人殺しなんかしたことない。
「え……え……」
誰だって見ず知らずの人間に自分の殺害を求められても拒否をするか戸惑うもの。ましてやその相手が壁にめり込んでいたら、その時の心は正常を保てるだろうか
無論、薫の場合は『ノー』である。しかももう何時間も孤独を味わい、その上、奇妙なビル群をくぐり抜け少し前には得体の知れない化け物に遭っている。心を正常に保つのはとうの昔にできないでいるのだ。
「お願い、ずっと苦しいままなの。だからあたしを、殺して」
振り向き続けるのも労力の一つなのだろう。壁から生えた人間は顔を元の位置へ戻しながら、それでも懇願を繰り返す。
「殺して」なんて到底聞き入れられない願いだと思ったが、その中に「ずっと苦しい」というワードを見つけて薫は正気に戻った。
震えていた脚はしっかりと地面を踏み締め、寒気を催していた体は温かみが奥から溢れてくる。
恐怖に塗れた全身が息を吹き返して、薫は一歩、二歩と歩みを進めた。そうして壁人間の正面へ回り込み、彼女と視線を合わせるために思い切って壁を見上げる。
「……苦しいの?」
薫からの問いかけに、ふっくらとした顔立ちに藍色の濃いアイシャドー、真っ赤な口紅の女は小さく頷いた。
「ずっと何も食べていないのに、死ねないの。お腹は空いているのに、死なないのよ。痩せないし、死なないし、なのにお腹は空くの」
女はボソボソと虚ろな眼差しで話すと、宙空を見つめていた瞳が薫を捉える。
「あなたが初めてなの。ここに閉じ込められてから会った人。ずっと助けを呼んでいるのに、誰も来てくれない。ここに閉じ込められてあなたが初めて来てくれた人」
……何故だろう。ここまで聞いて薫はこれ以上、この女性の身の上について探ってはいけないと、そう思い始めていた。
なにしろ薫は彼女へ引導を渡す手段も勇気も持ち合わせてはいない。これ以上、その身に起こった悲劇を聴いたとして、何をしてあげられるというのか。
「殺してって……どう死なせてあげればいいのか……」
ここまで言って情けが仇になったことへ気づいて、薫は歯噛みをする。
「お願い、包丁でもなんでもいいからあたしを殺して。確実に死ぬまで刺して。首を折ってでもいい。本当に死んだんだって信じられるくらいまで、あたしを殺して」
薫とは違って、女はどこか正常に見えて実際は狂れているのかもしれない。薫は現状に錯乱しているだけだが、女は苦しまない死に方を求めるのではなく、死、そのものを願っている。どんなに死を願ってもその途中、苦しむであろう包丁の滅多刺しを誰もが望むとは思えない。
それに気づいて薫の心は混乱に染まる。
「で、できない……できないわよ! 包丁なんて持っていないし、そこまで届かないし!」
段々と何を言っているのかわからなくなってきた薫へ、狂気の女も負けじと言い返した。
「苦しいの。あたし、ずっと苦しいのよ! おしっこもうんちもこの中でやって、なのに出せないのよ! おしっこはどうにか出るのに、うんちは出せないの! なんで出てくるの⁉︎ なんで出ようとするの⁉︎ もうずっと食べていないのに! もう何日経ったのかわからないのに!」
ああ、そうなのかと薫の頭の芯は冷静になって、だからこそゾッとする。
この女性はコンクリートにめり込んだだけで、体は壁に同化していないのだ。だから彼女は生きている。けれど生きている理由がわからない。だって彼女は何日も、日数がわからないほど壁の中にいるのに、痩せても餓死にも至っていないのだから。
女は錯乱したように「殺して殺して殺して」とノンブレスで叫び出した。薫は数歩後退りはしたものの、それ以上は足が竦んで動けない。
呼吸は再び浅くなり、恐怖で涙がじんわりと瞳を覆う。人の心で彼女を助けてはあげたいが、その人助けが人殺しとなると結局それは成し遂げられない。
女は狂気に、薫が混乱に陥った頃、突如として女の叫びがぴたりと止まり、風の音を残してシン……と静まり返る。
それに遅れてボタっと音がすれば、目の前の女は地面に首だけを落としていた。
「……は?」
何が起こったのかわからない。目の前ではボチャボチャと何かが地面に滴り落ち、加えて足音が背後から迫ってくる。
幸い吹き抜ける風は足音と同じ背後からやってきて、目の前のアスファルトで瞬く間に赤黒い水溜りとなった『何か』の臭いは嗅がずに済んだ。
変わらず呆然とする薫の脇を足音が通り抜けるとそれは正面へと移動して、彼女がようやくなにかの気配に気づいた頃には目の前に『誰か』が立った。
その誰かは血溜まりの中へ平然と足を踏み込むと即座にしゃがみ込み、無表情となった首をじっくりと検分してすぐそばを飛び回るあの黒い球体へ、無口となった女の顔を記録するように水溜りの中を指差す。それから何も言わずに立ち上がり、くるりと薫へ顔を向けた。
たった十数秒の間だが、薫の心の中では目まぐるしく思考が飛び回る。
(子供? 男の子? 中学生くらい? 甚兵衛を着てるの? 目の端に化粧でもしてる?)
心の中の言葉には全てに疑問符が付いた。
理由のわからないまま口を閉ざしている彼女の前に立つ少年は、くりっとした丸みのある眼差しで薫を見上げる。
「大丈夫ですか」
驚いた。薫は飛び上がるほどに驚いた。ここに来て自分の身を案じてくれる人間に出会えたことで、彼女はとても驚いた。
相手の身を案じるというのは自分自身に余裕がある証拠。こんなにテンパっている成人した女と違い……齢の頃は一三、一四あたりだろうか、今の若返ったらしい薫より十歳近く年下に見える少年は対する相手の身を案じ、小さく首をかしげる。
「あの、どこかお怪我でもしましたか」
薫よりも頭一つと半分ほど背の低い少年からの柔らかな眼差しと、ちょっとだけトーンが高い変声前の軽やかな声。春の石楠花の華やいだ香りの中に針葉樹の青い香りが混じるような、そんな芳香が藍色の作務衣にも似た着衣の少年から漂って来て、薫の混乱し切った心をそうっと宥めた。
先ほどは見間違いだったのか、青いと思っていた少年の瞳は茶色みがかった黒で、漆黒の髪は真ん中分けにされたおかっぱに近い形で切り揃えられている。化粧と思っていた瞳と同じくらいの大きさの真っ赤な三角形は底辺を目尻よりも一センチほど離したところに描かれて、彼の雰囲気を少しだけ異質にしていた。
「ここは後で鑑識が入りますので、他に場所を移しましょう」
自失している彼女の手を見て一瞬戸惑いはするものの、少年はそっと薫の手を取ると他の狭路へと促した。
入り組んだ道を幾たびも曲がり、目的のあるようなしっかりとした足取りの少年によって連れてこられた場所は狭路に逃げ込む前にいた、広い道路と似たようなところであった。
「……そういえばあの化け物……」
やっとのことで瞳に光が戻った薫がポツリと呟くと、すぐさまそれに反応して少年が応える。
「あなたが出遭った、巨漢の腹に顔のある怪物ですね? 多分あれは【壬癸1等級】でしょう。詳しく調べないと分かりませんが、異形から逃げきれたのは幸いです」
何を言っているのかさっぱり分からないが、どうもあの化け物からは逃げきれたらしいと知り薫はホッとする……と同時に、あの女性は一体どうしたのかとようやく眼下にある少年と目を合わせた。
「あの人! ……あの女の人の首、突然切れて落ちてきたわよね?」
ああ……と少年は応じると、目を泳がせもせずに明確な答えを返してくる。
「あの方は【ユラギ】による被害者です。次のユラギの変調が来るまではただ苦しむだけだと思い、ぼくがあの方の頸を斬りました」
あの女性が故意に殺されたのだと露ほどにも思わなかった薫には衝撃の事実であったが、人語を話し人を平気で『殺す』ような人間と今、自分は相対しているのだと気づいた彼女は相手にさとられぬように少しだけ右足を後方へ一歩、踏み出しながら疑問を呈した。
「そういえばボウヤ……って感じじゃないわね、ごめんなさい。……キミ、なんで私が化け物と遭遇したの知っているの? しかも、どんな化け物だったのかも知っているし」
その問いかけにはなんともバツの悪そうな表情で眉をハの字にすると、
「そのう……あなたの周囲を飛んでいる【ブラック・ウィドウ】から情報を逐一もらって観察していました」
今も薫の側から離れない、黒い球体をチラリと見る。
少年に一つ。薫に一つ。
計二つのこの球体がどうやって飛んでいるのか見当はつかないが、まるで虫のような物体が情報をやりとりするような『モノ』だとは考えてもいなかったと、自分の肩のあたりを低いうなりを上げて飛んでいる、黒い球体をまじまじと見つめた。
少年は現状を忘れて球体のあれこれを見ている彼女へ、口を開く。
「あなたが静中都市へ迷い込んだとの報せであなたの元へ行くように、三宝博士から命令を受けました。これからぼくの教導員である御堂さんが来るので、一緒に待ってくださいませんか」
そこで自分が何かの街へ迷い込んだらしいとわかった薫が、未亡人から少年へと視線を戻した。
「あー、そのう……迷ったのはアナタ達の事実かもしれないけれど、私にとっては迷ったわけじゃないのよねえ。こう、気づいたらココにいたのよ。せ……セイチュウトシ? そもそもセイチュウトシどころか屋外に出たおぼえはないのよねえ、これが」
どうも退路を断たれたらしいと気づいて薫は逃げることをあっさりと諦めると、今度は腹を据えて少年ときちんと向かいあう。
「やっぱり不思議に思うわよねえ。その顔、そう言っているわよ」
いや、その……と慌てる少年に苦笑いを見せると、彼に少しだけ親しみを覚えながら自分がここへ来るまで何をしていたのか、薫はざっくりと話し出した。
「私、葬儀会社に勤めているのよ。で、今日はね、ちょっと、まあ、立て込んだ方のお葬式でね。それで夜になってしまって。お通夜もなしにお坊さんに読経してもらって、明日、火葬だって決まっていたの。で、お坊さんに帰ってもらって、それで誰もいなくなった廊下へ見回りに出て……」
そこで薫は顰めっ面になると、
「……そうよねえ。見回りのため、廊下を歩いていたらその先に白い煙が充満していたのよ。お線香の煙にしては凄すぎるし、すわ、火事か⁉︎ って焦ったわ。でも、まずは煙の正体を確かめるべきか、それともその場ですぐに叫んで皆を呼ぶか。二者択一を少しの間だけ迷っている時に普通に瞬きをして、そうしたら何故か、ここにいたってわけ」
突然すぎて何が起こったのか、今になっても理解も何もしていないわよーと、薫はカラカラと乾いた笑いを漏らす。
「でも……キミのような子供にあの人の最期を任せてしまったのはごめんなさい。ああいうのは大人の私がどうにかするべきだったわ。殺してなんて言われたの、三度目なんだけどね。根性据えて三度目の正直で、私がなんとかするべきだったわ」
笑いをやめて真面目な顔になると、少年にきっちりとした角度で腰から折り曲げ頭を下げた。
「頭を上げてください。ぼく達ホムンクルスにそのような態度は必要ありません」
お辞儀をしたまま頭上から聞こえる内容がまたまた「分からない」もので、薫の中にはいくつめかの疑問符が増える。
「そんな態度って……ホムンクルス? 何、新しい何かの区別? それとも差別?」
これには少年の顔が困惑にまみれ、どう説明すればいいのかと頭を悩ませる最中、左手の道から真っ黒な箱にも身紛う車らしきものがこちらへ迫ってきた。
その黒い箱の道路の設置面には銀色の球体がいくつかめり込むように付いていて、それがタイヤの代わりに箱をここへ運んでくる。
道路の上を音もなく走ってきた黒箱は彼女の近くへと横付けしてきて、見たこともない物体へ薫は思いのほか驚いた。
ただの黒い長方形の立方体かと思いきや、お次はその黒い壁面に縦の線が現れて、それがみるみるうちにドアの形になると窪み、そのまま今度は窪んだ部分が上方へと持ち上がり消える。そうしてその後ろには三十代半ばすぎにも見える白衣姿の男が一人、突っ立っていた。
「ゴッドネス、ご苦労。続きは私が応対するよ」
少年を労いながら長方形の箱から降り、薬剤か何かの汚れが所々に付いた白衣を気にする様子もなく男は薫へと振り向く。
「初めまして、私は彼、ゴッドネスの教導員、御堂 一生です。……ところで私、しっかりと声が出ていますか? 近年あまり声を出して話すことがなかったから、聞き取りにくかったら教えてください」
矢継ぎ早に起こる出来事へ、薫はもう思考を放棄してこくこくと頷くしかなかった。
まずは薫が着ているワイシャツの話をされて、彼女が面食らう。
「……は、ボタン?」
「ええ、それは石油から作られたポリアミド樹脂製ではないですか?」
貝殻でできているボタンは扱いが面倒だからとプラスチック製のボタンのワイシャツを選んだのは確かだが、何故かほんのりと、相手から咎められているような気がして薫は首を傾げつつ、
「ポ、ポリアミドかどうかは知らないけれど、プラスチック製なのは確かよ」
数度頷いた。
それではそのネクタイも化学繊維ではないかと訊かれ、薫はますます面食らう。
「……前はシルク製のネクタイを使っていたけれど職業柄けっこうネクタイも酷使して、たまに洗うにしてもそれなら手洗いの楽な化繊がいいかなって、それで数ヶ月前にこれに買い替えたばかりよ」
答えを知った御堂はやけに深刻な表情をして、薫は酷く居心地が悪い。
——何がいったいマズいのか。いやいや、このネクタイどころかワイシャツのボタンだって、今では当たり前に出回っているだろうに——
当惑する薫をよそに、御堂はここでは三機目となる未亡人へ向き直ると、何やら思い悩んだり頭を左右へ振ったりする。
御堂のゆるくウェーブがかった真っ黒な髪は、耳より上はざっくりとショートヘアに、耳より下以降は刈り上げにした、いわゆるツーブロックという髪型なのだが、薫はその名称を『まだ』知らない。
ただ、その清潔感のある髪型の下にあるちょっと腫れぼったい瞼と一緒に全体的に楕円形にも見える目は、なかなかに眠たそうだ。鼻もわずかに丸みを帯び、しかし顔は全体的に四角くいわゆる男っぽい顔立ちではあるのだが、眠たさがそこそこに襲ってくるのか御堂の動作がどこか鈍重でなんともいまいち頼りない。
静まり返る世界でぼんやりとしていた薫だが、御堂の厚めの唇が動いて少しだけくぐもる声が彼女を我に返した。
「えー……と、その服、どこで購入しましたか?」
さっきから頓珍漢な質問ばかりされている、そんな気になっていた薫が答えようとするも、何かどこかがボーっとする。すると、ずっと隣りにいた黒い球体が、ピピッピピッと軽い電子音を鳴らした。
〈要監視巳ノ二十一、体内温度が上昇中。これ以上屋外にいると熱中症になる可能性九十八パーセント〉
いかにも無表情な機械音声が語り終わると、さっきまで眠たそうにしていた御堂が目をパッチリと見開き、薫の顔をじっと見る。
〈あ、こりゃヤバいわ〉
御堂の直ぐそばにいるブラック・ウィドウから何故か彼の声が聞こえて、彼女が不思議そうな顔をする。それをお構いなしに薫の両脇を固めるよう男二人が立ち、拒絶する間も与えられぬままに黒い箱の中へと汗だくの女が連れ込まれた。
ずっとグロテスクと面妖にさらされていて薫は気づかなかったが、この【静中都市】とやらは外気が非常に暑く、とてもじゃないが十二月の大晦日も間近な夜更けからやってきた服装には耐えられる状況ではなかった。
車中らしき黒い箱の中は二五度前後と涼しく、彼女はそこでようやく自分が暑さで思考がおかしくなりつつあったことを知る。
ホッと一息ついている横で、御堂は何やらゴソゴソとしていた。そうして隅にあったバケツ大の円柱の中心へ腕を突っ込むとそこから手のひらで握れるくらいの、長さ二〇センチほどの円筒を取り出して、それを未亡人に掲げ見せると、数度こくこくと頷いてお次は薫へと円筒を差し出し、
「まずは飲んでください」
と手渡してきた。
……が、飲めと言われても、薫にはそのひんやりとした筒が注ぎ口もなにも無い、ただの透明な筒にしか見えない。
中でシャバシャバとオレンジ色の液体が揺れるそれをはじめは缶ジュースかなにかと思って彼女はプルタブを探すが、上下らしきところは真っ平ら、円い面のところもつるりとしているばかりでなにもない。
端から見ればサルが見知らぬ物を手にしてためつすがめつクルクルと物を回しているような滑稽な一場面になるが、少年と男は驚きを持ってその光景を迎えた。




