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第8話 過去編 熾火 その1

 目蓋の裏には、あの夏の放課後が焼き付いていた。

 茜色に染まった教室で、ひとり静かに涙を流す『天城 透(あまぎ とおる)』の小さな影。

 声を殺して、涙をこらえて。

 あまりにもできすぎたシーンだった。

 あの一瞬には、物語の世界に紛れ込んでしまったかのような錯覚があった。

 息を呑み、しかる後に我に返って。そして言語化しがたい焦燥にかられた。

 いつもは口うるさくて煩わしい彼女の意外な姿を目の当たりにして、ついつい声をかけてしまった。成り行きで彼女と恋人である『風祭 優吾(かざまつり ゆうご)』の関係を修復する手伝いを安請け合いしてしまった。

 篤志(あつし)自身、恋愛経験なんてないくせに。


――バカなことしたよな。


 後から思い返すと、どう考えても暴挙だった。

 風祭にまつわる噂を集め、休日に尾行し、決定的な現場を見てしまった。

 その一方でこれまでは不倶戴天の敵みたいに思っていた透を慰めていた。

 幸いと言うべきか、それとも偶然の産物か。

 結果的にではあるが、なんとか風祭と話し合うことはできた。

 透の想いを伝えることはできたし、風祭は透と話をすると言っていた。

 概ね良い方向に向かっているはずなのに、篤志の胸にはモヤモヤとした感情が残っている。


「ちょっと、篤志。帰ってきてるなら、ひと声かけなさいな」


「うるせー」


 自室にこもってベッドに寝転がって見慣れた天井を眺めていると、ドアの外から小うるさい姉の声が聞こえてくる。

 生まれてこの方、篤志は姉と口喧嘩して勝ったことがない。

 何かにつけていいようにこき使われており、あれこれ思い返してみると姉のせいで女性と距離を置くようになった気がする。

 透を苦手に感じていたのも、彼女の言動に姉の片鱗を見ていたからかもしれない。今さらながらに、そう思う。姉と透はまったく別の存在なのに。ぶっちゃけうるさい以外は全然似ていない。


「あらやだ、可愛い」


──何が可愛いってんだ?


 ずっと同じ屋根の下で暮らしているのに、篤志にはこの二歳年上の姉の考えていることがさっぱりわからない。永遠にわからない気がする。男と女は同じ人間という種族のくくりに含まれていても、異なる種族のようにさえ思えてくる。自覚するほどの偏見の根源は、どう考えてもこの姉だった。


「どうかしたの? 何かいいことでもあったの?」


「いいことなんかねーよ、あっち行ってろ!」


「おうおう、威勢のいいことで。これはズバリ失恋と見た」


「なっ!?」


 反射的に上体を起こし、手元にあった枕を掴んだ。

 ドアの向こうからはクスクスとわざとらしい笑い声が聞こえてくる。

 沸き上がる感情のままに投げつけられた枕は、閉ざされたままのドアに当たって落ちた。

 姉の笑い声が大きくなった。


──失恋? 俺が?


 意外な言葉に反論の文句が出てこなくて、口を閉ざしたままドアを睨みつけていると、『お腹が空いたら降りてきなさいよ』と言い残して姉の気配は遠ざかっていった。

 しばらくそのまま固まって──大きく大きく息を吐き出した。


「失恋って……そんなんじゃねーよ」


 誰もいないはずの廊下に向けた声に、力はなかった。



 ★



 何があろうと時間は流れるし、朝日は昇る。

 寝付けないまま朝を迎え、あくびを噛み殺しながら学校に向かう。

 そこかしこから飛んでくる『おはよう』に『おはよう』を返す。

 いつもと変わらぬ儀式めいた、ありふれた光景。

 教室に足を踏み入れた篤志は、自分の机に腰を下ろし、そのまま盛大に突っ伏した。


「眠い……」


 今さらになって眠気が襲いかかってきた。

 身体が奇妙な浮遊感に囚われる。目を開けていても視界が暗い。

 教室のざわめきが、すぐ傍にあるはずの何気ない音が遠い。

 ままならない我が身を恨みながら、少しでも睡眠を確保するために目蓋を閉じる。

 せめて教師が来るまで、いや教師が来ても別に構わない。

 授業をサボるなんて、それこそ日常茶飯事……


大久保(おおくぼ)さん」


 曖昧な意識を覚醒させる声は、頭上から降ってきた。

 芯の通った、透き通った、そして凛とした声。

 一番聞きたかった声。一番聞きたくなかった声。

 無視するわけにもいかない。心配をかけることは本意ではない。

 覚悟を決めて顔を上げると、そこには予想通りの顔があった。


 年齢に比して幼さの残る、それでいて整った顔立ち。

 短めのポニーテールが後頭部で揺れている。

 頭の位置は机にへばりついている状態の篤志からでもさほど高くはない。


「……おはよう、透さん」


『天城 透』

 昨晩ずっと篤志の脳裏を占めていた少女。

 長らく湿っぽい表情を見せていた彼女は、今やすっかり以前の明るさを取り戻していた。

 それはとても良いことのはずだった。

 なのに……素直に喜ぶことができない。

 重たい鉛を飲み込んだような不快感と、口の中に広がる苦い味。

 言葉にならない、したくない感情を悟られないよう表情を作ることに苦心する。自分でも驚くほどの、嫌な心境の変化だった。


「随分とひどい顔……いえ、そう言うわけではなくて、その……」


 良くも悪くもまっすぐな気質ゆえに、言い回しに苦戦しているようだった。

 あまり言葉選びがうまいとも思えない。

 なんなら不細工な顔をあげつらっているようにも聞こえてしまう。

 もちろん目の前の少女にそんな意図があるわけもなく、単に寝不足で顔色が悪いことを指摘しているだけだとわかっているから、腹は立たない。


「いや、ひどい顔で間違ってないって。鏡見たとき自分でもびっくりしたし」


「お身体が悪いんですか?」


 気遣う声。

 透に他意はない。

 この少女は基本的に誰にだって優しい。

 自身の苦境を差し置いて、迷子の子供に手を差し伸べるほどに。

 難なく透がやってのけたそれは、決して誰にでもできることではない。

 だからこそ、彼女に胸中を打ち明けるわけにはいかない。

 そもそも篤志自身が己の心を直視できていないし、言葉にできない。


「まさか。ただの寝不足」


「それは……」


「気にしなくていいって。漫画の読みすぎだから」


 息をするように嘘をついた。

 息をするように嘘をつけた。

 心配そうに見つめてくる透の眼差しに、呆れの色が混ざる。


「試験も近いのに、そう言うのは感心できませんね。そろそろ受験を意識しないとまずい頃合いですよ」


「はいはい、わかってるって」


「とてもそうは見えませんが……えっと、ちょっとよろしいですか?」


 親が子を諭すような声と眼差しに続いて、透は少し言い淀んだ。

 はっきりとわかるくらいに声量が抑えられる。

 周囲の耳を憚る話題と知れた。

 聞きたくない。篤志の本能が直感した。

 聞かねばならない。篤志の理性が警鐘を鳴らした。


「何?」


「いえ、その……放課後に少しお時間がいただきたくて」


「いいよ、どうせ俺は暇だし」


 本音を言えば聞きたくなかった。

 内容は予想できたが、『忙しい、無理』とは言えなかった。

 先ほどのように嘘をつくことができなかった。

 舌が重かったが、最低限どうにか取り繕うことはできた。

 暇であることを、これほど恨めしく思ったことは過去になかった。


「それはそれで困りますが……すみません、本当に少しだけですので」


「はいはい。時間空けとくし。教室でいい?」


「お願いします」


 教室にチャイムが鳴り響き、透は自分の席に戻っていった。

 いつもは耳障りな電子音が、今日この瞬間だけはありがたかった。

 去り行く彼女の跳ねるようなエネルギッシュな一挙一動に目を奪われる。


──話って、やっぱあれだよな……


 透の表情と声、そして振る舞いから想像がついた。

 内容が内容だけにここで話すことはできなかろうとも。

 ちらりと視線を横に向けると、隣に座っていた生徒が慌てて前を向く。

『天城 透』はお人よしだが、耳ざとい隣人に話題を提供するほど間抜けではない。彼女が自己犠牲的精神を発露させるのは、いつだって誰かが困っている時だ。今はその時ではない。


「……覚悟、決めるか」


 自分自身にしか聞こえない声。

 小さくて、ため息交じりで、掠れていて。

 まったく力がこもっていないその声は、自身を納得させることすらできなかった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 「苦手」から「好き」になるのはあっという間だったかあ。 お礼を言われてそれで関係終わり。それは間違いなく失恋なんだろうけれど。 サブタイが極めて暗喩的な。
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