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やりなおし

作者: 植月 維智悟

胸くそ悪いお話なので、注意です。

直接的な描写はないですが、子どもが死にます。

 ーー本当に毎日イライラするーー


 朝方のマンションの一室から、ダンダンと足音が聞こえる。


「起きなさい! 何度も言わせないで!」


 女性がバタンと勢いよくドアを開ける。ドアの向こうには、ごちゃごちゃと物が散乱していた。その奥に置かれたベッドの上で、丸まった布団がもぞりもぞりと動いている。


「……起きてるよ」

「じゃあ顔洗ってきなさい! はやく! ママは忙しいの! ほらダラダラしない!」

 女性はバタンと力任せにドアを閉め、またダンダンと足音を立ててキッチンへと向かう。

 キッチンにはお弁当箱が3つ置かれている。昨日の残りをレンジから取り出して詰める。手元が狂って少しこぼしてしまい、女性は舌打ちをした。


「もう少し静かにしたら? ご近所に聞こえるよ」

 キッチンに男性が入ってきた。ネクタイをしめながら、女性に声をかける。

 女性はじろりと男性を睨むと、お弁当の一つを乱暴に持ち上げ、バンとテーブルに乗せて冷たく言い放つ。

「蓋はあなたがして」

 男性はため息をつき、食器籠から蓋を一つ取り出し、置かれたお弁当に蓋をする。無造作に放り投げられていた袋を手に取り、お弁当を入れてから、鞄にしまう。


「……自分の分だけしかしないなんて、ホント役たたない」

 ガチャガチャと食器籠から蓋を2つ取り出しながら、女性がぼそりと言う。男性は聞こえないフリをして、背広を取りに向かった。


 男性は背広を着て、鞄を持ち、キッチンの入り口に立つ。

「いってくる」

「食器」

 女性はお弁当箱を袋に入れながら、振り向きもせずに言う。


 男性はため息をつきながらダイニングに行き、二人分の皿とコップを持って流しに置いた。

「置けばキレイになると思ってんのかしら」

 女性がバタバタと着替えながら、大きな独り言を言う。


 男性は一度鞄を置き、スポンジに手を伸ばす。

「背広が汚れたらまたクリーニングださないといけないじゃない! もういい! 早く行ってよ!」

 女性は怒鳴りながらキッチンを出て、ダンダンと足音を立てながら洗面所へと向かった。

 途中にある先ほどのドアの前に立つと、力任せにドアを叩く。

「何やってんの! 早く準備しなさい! そんなんだと、パパみたいになっちゃうわよ!」

 もう一度ドアを叩き、ダンダンと洗面所に入っていった。


「……いってくる」

 男性が洗面所の入り口に立ち、女性に声をかける。歯を磨きながら、洗濯機を乱暴にセットしている女性からは返事がない。男性は肩を落としながら玄関を出ていく。

「もう!遅刻しても知らないから!ママ仕事行くからね!朝ごはんとお弁当も勝手に自分でしなさい!」

 玄関のしまり際に、また女性の声が響き渡った。


 ーーこれが、私の日常ーー


 ーーーーー


 乗っている満員電車が駅に到着した。ぐにゅりぐにゅりと人の波が動く。斜め前に座っていた人が立ち上がった。急いで周りの人を押し退けて、体を滑り込ませる。座った瞬間、どこからか舌打ちが聞こえた。大して気にせずに下を向き、音の出ていないイヤホンを耳に挿し直して目をつぶった。


 本当に毎日イライラする。


 今年42歳で結婚16年目。夫は今年44歳、一人息子は小学5年生。共働きで、一昨年都内のマンションを買った。仕事に追われ、家事に追われ、息子の世話に追われる毎日。平凡でドキドキするようなことなんて全然起きない。

 毎日つまらない同じことの繰り返し。


 こんなの、全然幸せじゃない。


 堅実で安定した優しい旦那を選んだつもりが、ただのつまらない男だった。これといった趣味もなく、休日も散歩くらいしか出歩かない。マンションを買ってからは残業が増え、それさえもしなくなった。家でゴロゴロして、本当に邪魔。

 生活は安定しているけど、夢見た生活からはワンランクもツーランクも下。いや、安定なんかじゃなくて、低迷だわ。それも一生、抜け出せることはないだろう。

 優しいと思ったのも、気が弱いだけだった。


 子供も最近全く言うことを聞かない。

 高い月謝を払いたくさん通わせていた習い事も、どれもこれも鳴かず飛ばずで全然身にならなかった。塾以外は全て辞めさせたが、その頃からものすごく反抗するようになった。

 唯一続けさせている塾も、最近はサボっているらしい。当然成績も落ちてきた。このままではきっと中学受験もうまくいかないだろう。

 先月の誕生日にねだってきたゲームもくだらなかった。旦那が買ってやっていたけど。このままだとぱっとしない大人にしかなれない。

 容姿も旦那に似ていまいち。

 期待はずれ。


 こんな結婚なんてしなければよかった。

 本当に失敗した。


 田舎の母親の顔を思い出した。母も毎日、そう愚痴っていた。子供のころからずっと聞かされていたので、私は絶対失敗しないようにしよう。

 そう思っていたのに。


 ああ、やりなおしたい。

 やりなおしたい。


 周りの騒音が小さくなった。一番大きな駅を通りすぎたのだろう。次が降りる駅だ。ため息をつきながら、顔をあげて目を開けた。


「……え?」


 辺りは真っ暗だった。急いでイヤホンを外してみたけれど、何の音も聞こえない。

「なにこれ? 停電?」

 まだ明るい朝だったはず。訳がわからない。スマホを確認しようと鞄を探る。と思ったのに、いつの間にか鞄もない。そういえば、座っていた筈なのに立っている。イヤホンもなくなった。

 真っ暗で自分の体も見えない。


 なにこれ、怖い。


「だ、だれか! 助けて!」

『助けてあげましょうか?』


 背中がゾクリとするような声が聞こえた。

「なに!? だれ!?」

『やりなおしたいのでしょう?』


 また聞こえた。頭のなかに直接響いているような感じで、どこから聞こえるのか全然わからない。恐くて泣きそうだ。


「ちょっとふざけないで! 姿を見せて!」

 声を震わせて叫んだ。頭の中に不気味な笑い声が響く。


『いいでしょう。お見せしますよ』


 目の前が真っ赤な炎に包まれた。思わず悲鳴をあげる。炎はメラメラと動きながらゆっくりと人の形になり、突然ふっと消えた。

 炎があったところには、男が立っていた。


 男は真っ黒のローブを着ており、ローブの胸元からは真っ赤なシャツがのぞいている。肌は色白を通り越して青白い。深めに被ったフードの隙間から見える顔は端整だが、白目がほとんど見えない目が不気味だ。

 男はうっすら笑いながら立っている。


 明らかに怪しい。でも他に頼れそうなものはなにもない。意を決して話しかけてみる。


「あなたは誰? ここはどこなの?」

『わたくしは悪魔。ここは時を司る場所です』

「は? あくま……?」


 悪魔って、あのおとぎ話とかにでてくる? うそ、冗談でしょう? 信じられない!

 でももう既に、信じられないことが自分の身におきている。

 もしかして、本当に……


「ほ、本物?」

『もちろん』

 悪魔はにっこりと笑う。目は全然笑って見えないけれど。


「私、どうしてここにいるの?」

『わたくしがお連れしました』

「はあ? なんでよ!」

『あなたが願ったのでしょう? やりなおしたい、と』

「え?」

『失敗なされたのでしょう? 助けてあげましょうか?』


 なんのこと? もしかして、結婚のこと? それなら確かに思った。いや、思っている。


「……できるの?」

『もちろん』

 悪魔はまた、にっこり笑う。

「どうやって?」


 悪魔はゆっくりと両手を広げる。ローブの袖が長すぎて手は見えない。

『申し上げた通り、ここは時を司る場所。わたくしはここに棲む悪魔です。時を操ることができます』

「時を操る……?」

『具体的には、あなたの時を遡ることができます』

「結婚前に戻してくれるってこと?」

『遡る、という意味ではそうです。正確にはご結婚前夜から、ご結婚の11年と1ヶ月と3日前までの、好きな時まで遡れます』

「ずいぶん中途半端なのね」

『決まりですので』

 悪魔はゆっくりと両手を戻した。


「じゃあ、えっと……22歳! 22歳の大学の卒業式の日に戻りたいわ。できる?」

『ご結婚の3年と3か月と2日前に遡る、ということですね。可能ですよ。でも本当にいいんですか? 一度時を遡ると、元に戻すことはできませんよ?』

「かまわないわ」

『息子さん、かわいいじゃないですか』

「どこがっ! 言うこと聞かないし、期待はずれだし」

『もう会えなくなってもよろしいのですか?』

「ええ」


 悪魔は不気味に笑う。

『実に潔いお方ですね。ご自身の欲望に大して妄信的で貪欲だ』

「なんとでも言ってちょうだい」

『誉めたのですよ。これでも』

「悪魔に誉められても嬉しくないわ」

『いいですねぇ。気に入ってしまいました』

「早くしてよ。もしかして、嘘なの?」

『いいえ。わたくしは約束は必ず守ります』

「じゃあさっさとしてよ」

『仰せのままに』


 悪魔はそういうと、右手を胸の前に置いて右足を左足の後ろに軽くクロスさせ、ヨーロッパの貴族のような礼をした。

「悪魔なのに礼儀正しいのね」

『ありがとうございます』

「あ、歳もちゃんと若くなるんでしょうね」

『もちろんです。記憶はそのままですが』

「あらそう。それは都合がいいわ」

『では』


 悪魔が指を鳴らすと、炎が現れて纏わりついてきた。少しびっくりしたが、全然熱くない。

『もしまた助けが必要であれば、いつでもお待ちしておりますよ』

「結構。今度は幸せな結婚をしてみせるわ」

 悪魔の笑い声が聞こえたが、だんだんと小さくなり、意識が沈んでいった。


 ーーーーー


「……ねえ聞いてる? 謝恩会の前に美容院行くんでしょ? 早くしないとバス間に合わないよ」

「えっ?」

 気がついたらずいぶん華やかな場所にいた。たくさんの若い男女がスーツや袴で着飾り、楽しそうに笑いあっている。


「ねぇってば」

 さっきから話しかけてくる女性が、袖を引っ張る。

「……カナエ?」

「急にぼーっとして、どうしたの?早く行こうよ」

 そう言って、バス停の方に引っ張られた。混乱しつつも、されるがままついていく。

 この娘はカナエだ。もうずいぶん前から疎遠になっていたが、大学の頃は一番仲がよかった。懐かしさがこみあげてきた。

「カナエ!」

「なに? っていうかもっと速く走りなよ。あっほらバス! 待って待って! 乗りまーす!」


 本当に、昔に戻ったんだ。


「すいませーん。……はあよかった間に合ったー……ちょっと、何にやにやしてるの?」

「ううん。なんでもない」

 ゆっくりとバスが発車する。


 今度こそ上手くやってやるんだから。


 ーーーーー


 玄関の鍵がガチャガチャと音をたて、ドアが開く音がする。やっと帰ってきた。


 しばらくしてリビングのドアが開き、電気がついた。

「……起きてたのかよ」

「何してたのよ。こんなに遅くまで」


 リビングに入ってきた男性はめんどくさそうにため息をつくと、何も言わずに横を通りすぎた。フワリと石鹸の匂いがした。

「……女のとこ?」

「今日はバンドの練習って言ったろ」

「女のとこでしょ」

「違うって」

「うそ。じゃあなんでこんなに遅いの?」

「タイチの家でミーティングしてたんだよ。来週デカいハコでライブだから、長引いたんだ」

「うそ! 石鹸の匂いもするじゃない!」

「練習で汗かいたからタイチに借りたんだ。でけー声だすな」

「うそうそうそ! うそばっかり! 女でしょ! 女がいるんでしょ!」

「だから違うって」

「うそつき!」

「いい加減にしろ!」


「……ほぎゃっ……ほぎゃあ! ほぎゃあ! ほぎゃあ!」


「ほら、起きちまったじゃねーか」

「あなたのせいでしょ! 泣き止ませなさいよ!」


「ほぎゃあ! ほぎゃあ! ほぎゃあ!」


「はあ?俺帰ってきたばっかりなんだけど。お前がしろよ」

「なによ! いつも家にいなくて全然育児しないくせに! いる時くらいしなさいよ! いっつもそうよね! 産休あけて私も働いてるのに! もうすぐ産まれて半年なのに何回オムツ替えた!? 何回お風呂に淹れた!? 何回……」

「わかった、わかったから」

 男性が襖を開け、隣の部屋に入っていく。


「ほぎゃあ! ほぎゃあ! ほぎゃあ!」

「ごめんなーうるさくして。ほら、泣き止め」

「ほぎゃあ! ほぎゃあ! ほぎゃあ!」

「よしよし、だっこしてやるから」

「ほぎゃあ! ほぎゃあ! ほぎゃあ!」


「うるさい! 黙ってあやしなさいよ!」

 隣の部屋からの声が聞こえないように耳を塞ぎ、目をつぶって机に突っ伏した。


 大学の卒業式のあとから、すぐに行動を始めた。

 夢を持つ方が素敵だと思ったから、インディーズバンドで有名だった人に狙いをつけた。3歳年下で、顔もかっこいい。あの手この手で猛アタックして、結婚した。26歳の時だ。


 その頃はバンド活動も順調で、このまま有名人の妻になるって浮かれてた。

 なのに、一向にメジャーデビューしない。人気も段々落ちてきた。収入は減っているのに、付き合いで出ていくお金ばかり増える。


 今年結婚5年目。

 デビューできないなら就職するように言ったが、メンバーもいるからとバンド活動を辞めてくれない。子どもができれば変わるかもと思ったのに、全然変わらない。


 家は賃貸アパートの1LDK。それでも毎月ギリギリ。

 これなら、前の方がまだましだったわ。そう、悪魔が時間を戻して、なかったことにしてくれた結婚。


 ああ、なんてこと。今度こそ、失敗しないはずだったのに。

 また失敗しちゃった。


『いつでもお待ちしておりますよ』


 ふと思い出した、悪魔の言葉。もし叶うなら、もう一度……。


 やりなおしたい。

 やりなおしたい。




 あれ、泣き止んだ? やけに静かになってけど、まさか……!


 ばっと顔を上げる。そこには何もない空間が広がっていた。胸が高鳴る。


「悪魔! ねぇ悪魔さん! いるんでしょ?」

『はい。こちらに』

 炎が現れたかと思うと、悪魔が立っていた。前の時と何も変わっていない。


『お久しぶりです』

「ねぇまた、お願いできない?」

 悪魔に向かって手を合わせ、首を少し傾ける。

「ね?」

『よろしいですよ』

「やったあ! ありがとう!」


 今度こそ、今度こそ幸せになるんだ!


『でもよろしいのですか? お子さん、今とってもかわいい時期でしょう』

「うるさいだけよ。まあ旦那に似て、顔はいいけど」

『元には戻せませんよ』

「だからいいって」

『もう会えなくなってもよろしいのですか?』

「しつこいわね。もう聞かないでよ」

 大きくため息をつきながら、悪魔に向かって手をヒラヒラさせる。


『これは失礼致しました』

「子供産まれたら、就職してくれると思ったのに。全然なんだもの」

『そうでしたか』

「だから、また時間を戻して。前回と同じ、大学の卒業式がいいわ」

『申し訳ございませんが、それはできません』

「はあ!? さっきいいって言ったじゃない!」

『時を遡ることは可能です。但し、今回は結婚前夜から、ご結婚の5ヶ月と20日前までの期間です』

 悪魔がにやりと笑う。


「なんでよ! 前回はできたのにおかしいじゃない!」

『決まりですので。』

 悪魔がさらににやりと笑う。尖った小さな歯が無数にはえている。それを見ると、背筋がぞくりとした。


「……いいわ。じゃあ戻せるギリギリまで戻してちょうだい」

『ご結婚の5ヶ月と20日前まで遡ることをご所望、ということですね』

悪魔はそういうと、ヨーロッパの貴族のような礼をし、指を鳴らした。

『仰せのままに』

 炎が現れ、纏わりつく。

『またお待ちしておりますね』

 悪魔の笑い声がだんだんと小さくなり、意識が沈んでいった。


 ーーーーー


「今日はサンキュー!! また来週もワンマンライブするからよろしくなー!!」

 気がつくと、大きな騒音の中に立っていた。暗い部屋の中、ギラギラのライトに照らされているのは結婚する半年程前の旦那だ。周りからは鼓膜がおかしくなるほど黄色い声が飛び交っている。

 ポケットに手をやると、何か入っていた。

 《今晩待ってる!》

 そう書かれたメモを一瞥し、くしゃりと丸めて会場を出た。近くにコンビニがあったので、メモ紙を捨てた。


 どうせ本命の女がいるくせに。前回は死に物狂いでその女から奪って、強引に婚姻届を提出したけど、あんな男くれてやるわ。私はもっと出世する男と結婚するの。

 そして今度こそ、幸せになるの。


 ーーーーー


 通帳とカード会社の利用明細を見て、舌打ちをする。今月も足りないじゃない。イライラしながらため息をついた。


「ねぇ、お母さん」

 おずおずとした声をかけられ、振り向く。

 小学生4年生の女の子が立っていた。

「……なに?」

「あ、あのね、ナギサちゃんのお家に遊びに行きたいんだけど、いい?」

 ちらりと時計を見る。14時を少し回ったところだ。

「何しに行くの?」

「サキちゃんが夏休みに引っ越しちゃうんだって。明後日の終業式が最後なの。だからお別れに、みんなで何かプレゼントしようって、今ナギサちゃんから電話があって……」

「はあ? 何か買うの?」

 女の子はびくりとして、頭をブンブンとふった。

「ううん。買わないよ。みんなで折り紙折って、あげるの」

「折り紙なんてどこにあるの」

「この間の図工の時間に余ったのを皆で持ち寄ろうって……」


 そういえば、先週買ってあげた気がする。それくらいならいいかな、と思ったが、オドオドした女の子を見るとなんだか無性にイラついた。

「だめ。折り紙だってタダじゃないのよ」

「でも……!」

「ダメったら、ダメ。電話して断りなさい」

「お母さん、お願い……」

「体調悪いから行けないって伝えなさい」

「……嘘つくのは悪いことだって、パパが……」

「親の言うことを聞かない方が悪い! 本当に聞き分けのない子ね!」


 バシッ

 ああいやだ、勢い余って、叩いてしまった。女の子は頬を押さえて涙ぐんでいる。

「……ごめんなさい」

「わかればいいのよ。最初からそう言えば、叩かなくてすむでしょう。あなたが憎くて叩いているわけではないのよ」

「……はい」

「電話して、お部屋に戻りなさい。明日月曜日でしょ。準備しときなさい」

「……」

「早く!」


 女の子がとぼとぼと部屋を出ていく。それを見ると、ちょっと罪悪感がある。あの子がいつもオドオドしているのが悪いのよ。

 でも、叩くのはやりすぎたかな……。

 やっぱりいいよって言ってこようかな。あの子ぐずだから、きっとまだ電話してないだろうし。部屋にいるかな?


 女の子の部屋の前に行き、ノックしようとすると中から泣き声が聞こえてきた。

「ママ……ママ……」

 かっとなって、ドアを力一杯開ける。女の子は涙でグショグショの顔をあげた。心底怯えた顔をしている。

「いい加減にして!」

「ごめっ、ごめんなさ……」

「ママ、ママって! 死んでしまった人のことなんて早く忘れなさい! 母親はもう私って言ったでしょう!」

「ごめんなさい……叩かないでっ……」

「二度とママなんて言わないで!」


 ーーーーー


「また、怒鳴ったんだって?」

 お風呂上がりの男性が、髪を拭きながら聞いてきた。洗い物を止めて、振り向く。

「なに、あの子が言ったの?」

「僕が聞いたんだよ。様子が変だったから」

「聞き分けがなかったから、叱っただけよ」

「折り紙くらい、いいじゃないか」

「はあ? あの子、そんなことまでしゃべったの? まさかナギサちゃんにも言ってないでしょうね! ケチな女ってバカにされちゃうじゃない!」

「いい加減にしてくれ。自分の体面のことばかりだな、君は」


 男性はため息をついて、ダイニングテーブルに座った。

「そんなにワガママを言う子じゃないだろ?」

「ええ、偽者お母さんにびくびくオドオド、遠慮ばかりのホントイイコね」

「……もう少し、気遣ってやってくれないか」

「気遣ってるわよ!」

 濡れた手でテーブルをばんと叩く。


「なにかあるといつもママ、ママ、ママ、ママ! 私の気持ち考えたことある!?」

「……娘にはちゃんと言い聞かせるよ。だから……」

「だいたい!」

 またテーブルをばんばん叩く。


「元はと言えば、折り紙買うのも躊躇するくらい、あなたのお給料が全然足りないからじゃない! またカードの引き落としもできないわ! 貯金も全然ないし!」

「君が新婚の時に、なんやかんやと買いまくったからだろ。仕事も辞めちゃうし……」

「あなたが出世しないからいけないんじゃない!」

「君が娘の世話を全然見ないのに、お袋に来るなって言うからだろ。専業主婦の奥さんいるのに、出張や残業断りまくったらそりゃ出世できないよ」

「おかしいじゃない! 前はあなたの同期の中でただ一人の部長だったのに!」

「……何の話だ?」


 しまった。しゃべりすぎた。


「……今まで、娘に二度も母親を失う体験をさせたくなかったから我慢してた。でも、君がこのままなら……」

「……もういい!」

 ダンダンと踏み鳴らしながら寝室に行く。

「おい、話はまだ……!」

「あなたは今日リビングで寝てよね!」

 そう言って、バタンと扉を閉めた。


 ベッドにダイブする。


 今度は確実にいい男を捕まえるために、知っている人に狙いをつけた。

 会社の上司。娘が2歳の時に奥さんと死別して、シングルファザーだった。


 悪魔のお蔭で3回目の結婚人生送ってるけど、実は全部同じ会社にずっと勤めている。前回2回とも、皆同じような人生を過ごしていたから、3回目もきっと同じになると思った。

 この人は、2回ともあれよあれよと出世して、最年少の部長になっていた。つまり、この人は今回も出世するはず。


 今まで、コブツキのオジサンなんて眼中にもなかったけど、出世しているのを見ると、なんとなく惜しいことをしたなんて思ってたりした。だから、今回はこちらからアプローチをかけてあげた。奥さんが亡くなって1年くらいだったことや、娘のことを理由に何度も断られたが、なんだかんだと1年くらい押しまくって結婚した。28歳になる少し前の時だ。


 今度こそ安牌で確実だと思った。でも結婚するまではとんとん拍子に出世していたのに、ピタッと止まってしまった。査定も良くないのか、ボーナスも減るばかり。あーあ、絶対に同じ人生になるとは限らないのね。


 今年もう32歳。旦那は41歳。本当なら去年、部長に昇進するはずだったのに……。


「やっぱり、この結婚もだめね」


 ーーーーー


 今回は23歳まで戻ることができた。

 次もまた、同じ会社の人にする。同期で一番禿げてる、ぽっちゃりチビ男。


 本当は見た目的になしなんだけど、意外と早く出世するのよね。そして実家がかなりの資産家で、地元では割りと有名なお宅らしい。でも次男だから、そんなに家のことしなくてもいいって言っていた。しかも結婚相談所で出逢った人と結婚したら、愛妻家で有名になるのだ。まあ、今回は出逢う前に私が落とすけど。

 こいつは3回とも同じような人生を歩んでいたけど、前回のことがあるから気を付けよう。


 案の定、ちょっと誘ったらすぐに付き合うことができた。1年程付き合い、25歳で結婚した。

 ちょっとした当て付けで、前回の結婚と同じ日に籍を入れて結婚式をした。前回は相手が再婚だったから、式はできなかったけどね。

 もちろん結婚式には前回の旦那である上司も呼んだ。適当な理由をつけて、娘も。なにも知らず二人してニコニコおめでとーなんて言っていた。まあ、悪魔のお蔭でなかったことになってるから、知らなくて当たり前なんだけど。なんとなく、見せつけることができた気がして、満足した。


 すぐに子供もできて、退職して、無難に結婚生活を送った。ブサイクとの生活は正直憂鬱だけど、お金を運んでくる機械だと思ってやり過ごした。そして、あっという間にもうすぐ28歳になろうとしている。結婚記念日の日にご馳走を買ってきて待っていると、旦那からメールが入った。


 《ごめん、今日遅くなる》

 《は?》

 《上司の娘が、急に亡くなったらしいんだ。ほら、結婚式に呼んだ子》

 《え? なんで?》

 《わからない。急に倒れたって連絡があったんだって。そのまま亡くなったらしいよ。上司の分の仕事も片付けることになったから……僕だけ帰るなんてできないんだ。ごめん》

 《あなたがすることないじゃない》

 《こんな時に、そんなこと言わないでよ》

 《せっかくご馳走準備したのに! どうするのよ!》

 《本当にごめん。帰ったら食べるから》

 《もういい!》


 その後、返信はなかった。イライラしながら子供と食事をすませた。旦那の分は捨てた。

 子供を寝かしつけながら、イライラが止まらなかった。この私があんたみたいなのと結婚してあげて、子供まで作ってあげたのに! 私を優先しないなんて!

 あの娘も、いつまで私の人生の邪魔をするんだ。でも亡くなったと聞くと、なんだか可哀想に感じる。やっぱり、全く同じ人生にはならないんだな。

 まあいい、今回の私の人生には関係のないことだ。でも、顔は可愛かったからな……あの娘。


 寝ている子供を見る。今の旦那に似て、はっきり言ってブサイク。

 生活は今までで一番安定しているけど、私が求めていた結婚は、こんなものだったの? 旦那はブサイクで別に好きでもなんでもない。子供もブサイク。刺激なんてなにもない、平凡な日々。


 いや、違うわ。私にはもっと、ふさわしい結婚があるはず。


 ーーーーー


『時を遡ることをご所望ですか?』

「ええ、またお願いね」

『かしこまりました。今回は結婚前夜から……』

「結婚の2年と1ヶ月と5日前まで、でしょ」

『その通りです。よくわかりましたね』

「私、頭の回転は早い方なの」


 悪魔が提示する遡れる期間は一見中途半端でバラバラだった。でも、ある共通点がある。結婚前夜から遡れるのは、私の子供の年齢と同じなのだ。例外として、上司の連れ子だけ結婚していた期間だった。すなわち、私が"母親"となった年月だけ、結婚前夜から遡れるのだ。


「そうでしょ?悪魔さん」

『その通りでございます。しかし……』

「なによ」

『それだけですか?』

「は? 何言ってんの? それだけわかってれば、十分でしょ」

 悪魔はにやーっと笑った。

「何その顔。今までで一番不快。バカにしてんの?」

『いえ。ますますあなたのことが気に入っただけです』

 無数にはえている歯が丸見えで、背筋がぞくりとする。

「……早く戻して。とりあえず、一番戻せるギリギリまで」

『結婚の2年と1ヶ月と5日前まで時を遡る、ということですね。今まで同様、元には戻せませんよ』

「わかってるわ」

『もう子どもさんにお会いできなくてもいいのですか?』

「いいから。」

『仰せのままに』


 ーーーーー


 それからも、何度も何度もやりなおした。

 時にはうんと時間を戻して、子供の頃からやりなおしたりもした。ちなみに、次に時間を戻した時、私の人生は一番最後に過ごした人生が上書きされていた。記憶は全て残っているし、現実の世界でゲームの2周目以降が体験できるようなものだ。


 私はいろんなことに挑戦した。失敗したら、誰か適当な人と結婚して子供作ってやり直せばいい。連れ子でもいいんだから、簡単。養子でも大丈夫だった。また、複数の子どもがいたら遡れる期間は全部合計されるという大発見もあった。


 私の人生はどんどん豊かで華やかになっていった。大学や就職先はどんどんレベルが上がっている。友人知人関係もとっても華やか。もちろん、結婚相手のレベルも。

 ああ心地いい……本来私のいるべき場所は、こういう場所だったんだわ。でも、やっぱり何かが足りない。私にふさわしい、最高の結婚、最高の人生がきっとあるはず。


 ーーーーー


『なかなか、お気に召しませんねぇ』

 もう何度目かもわからなくなったころ、悪魔が言った。相変わらず、にやりと笑っている。


「うーん、そうねえ。結婚の理想が高いのは、母親譲りかな」

『ほう、お母様の』

「いつも結婚失敗したって、私に愚痴っていたの。まあ、あの人の結婚なんて、私の今までの結婚と比べても本当に大したことないものだから、気持ちはわからなくないけどね」

『そうでしたか』

「まあそんなことはいいわ。早く時間を戻して。今回は入社式の日がいいわ。やっと世界的に有名な超大手企業に入社できたんですもの。22歳の4月1日ね」

『ご結婚の2年と2か月と23日まえに遡りをご所望ですね。一度遡ると、元には戻せませんよ』

「毎回言うのね、それ。何度目だと思ってるの。ああ、あと、もう子どもに会えなくなっても結構。だから早くして」

 悪魔はさらににやりと笑い、礼をする。

『仰せのままに』


 ーーーーー


「ママ、パパ今日も帰ってこないの?」

 金髪で青い目の女の子が、とてもかわいいネグリジェに身を包みぬいぐるみを抱いてベットに入っている。お人形みたいだ。


「パパはお仕事なの。しばらくはパパの国で働くから、帰ってこないの」

「いつ帰る?」

「あと三週間ね」

「寂しいね」

「そうね。でもママがいるからいいでしょ?」

「うん……」

 女の子のおでこにキスをする。


「もうおやすみなさい。明日も学校でしょ」

「はーい。おやすみなさい」

「おやすみ」


 女の子の部屋から出て、階段を降りてリビングに移動する。暖炉の前のソファーに座り、一息ついた。


 今回は結構上手く行っている。旦那は世界中で有名な企業の重役だ。国際結婚で、娘も本当にかわいい子が産まれた。

 それなのに……ついため息がもれ、目を閉じた。

 旦那は本当に忙しく、ほとんど家に帰ってこない。たまに帰ってきても、娘と一緒に遊んでばかり。それに重役の妻としての役割は、結構面倒くさいことが多い。重役とはいえ、もっと偉い人にペコペコしないといけないし……。


 今までの人生の中では、一番いい。でも本当にこれでいいのか。もしかしたら、もっといい人生があるのではないのか。もっと、もっと、私にふさわしい、もっと素晴らしい……。


「あら?」

 気づけばまた、あの空間に来ていた。時を司る場所。

 うっかり、やりなおしたいと思っちゃったのかしら。炎から見慣れた悪魔が現れる。


『いいご結婚生活をされているようですね』

 悪魔がにやりと笑う。

「ええ。今までの中では最高だわ」

『それは結構なことですね』

「でもねー……もっと上に行けそうなのよね……まあ正直迷ってたけど、せっかくきたし、いいわ。そうね、今度は……」

『申し訳ございませんが、今回はあなたの時を遡らせることはできません』

 悪魔は言葉を遮って、そう言った。

「は?」

『申し訳ございません』

「ちゃんと子供はいるわよ」

『存じてございます』

「じゃあ、しなさいよ」

『申し訳ございませんが、できません』

「なんでよっ!?」

『今回あなたをここにお連れしたのは、贄を回収するためです。なので、あなたの願いは聞けないのです』

「は? ニエ?」


 悪魔はにやりと笑ったまま説明する。

『既にわたくしは、ある方の願いを叶える約束をしているのです。その願いの代償は……』

 悪魔は両耳に付くんじゃないかと思うくらい、口を横に広げて笑った。


『あなたの魂です』


「……」

 ニエ? 魂? どういうこと?

「よくわからないんだけど。冗談ならよして」

 とにかく気味が悪い。


「できないならいいわ。このままさっきの人生に戻して」

『申し訳ございませんが、それもできません』

「はあ? どうしてよ!」

『わたくしが、あなたの魂を頂くからです』


 悪魔は無数の歯を見せつけるように、笑顔のままぱかりと口を開けた。

『欲望に妄信的で貪欲、自己中で我儘、浅はかで傲慢なあなたの魂は、さぞかし美味でしょう。……おっと、失礼いたしました』

 悪魔は口を閉じ、涎をローブでぬぐった。


 うそ、もしかして、魂を頂くって……。

「……冗談よね?」

『いいえ』

「うそ……うそ! いやっ……いやよ! そんな、そんなこと、していいはずないじゃない! 許されないわ!」

『あなたも散々、してこられたじゃないですか』

「は?」

『たくさん、わたくしが願いを叶えて差し上げたでしょう』

「もしかして……」

『ええ。あなたの願いの代償として、あなたの子供の魂を贄として頂いておりました』

 悪魔はにやりと笑う。

「うそ……じゃああの子たち、みんな……」

『とても美味しかったですよ』


 背筋がぞくぞくする。身体中が震えていた。

「そんな……あなたそんなこと一言も……」

『聞かれませんでしたので』

「ひ、卑怯よ! 卑怯者!」

『おや、それは心外ですねぇ。ご忠告は申し上げたはずですよ。元には戻れないと』

「それは……」

『確認も致しましたよね? もう子どもさんにお会いできなくなってもいいのか、と。毎回お伺いしていたはずですよ』

「あ……」

『まあ今更責められても、わたくしにはどうしようもできません。既にあなたの願いは叶えられ、子どもは贄として魂を食べられておりますので。もう元には戻せませんよ』


 身体の震えが止まらない。

「……魂が食べられたら……どうなるの?」

『申し訳ございませんが、存じ上げません。食べた後のことなど、気にしたことがないもので』

 悪魔は笑顔のままだ。

『消えてしまうんじゃないですかねぇ。』


 涙が溢れてきた。

「いや……いや……お願い、食べないで。お願い」

『そうは言われましても、既に願いを叶えると約束しておりますので。わたくしは約束は必ず守ります』

「その願いをした人って……」

『あなたのお母様ですよ』

 悪魔は淡々と答える。


『お母様にお話ししたら、是非にとおっしゃっておりました。さすがに最初は警戒されましたが、最後にはとても喜ばれていましたよ』

「お母さんに、願いの代償の話はしたの?」

『いえ、聞かれませんでしたので』

「っ! ならお願い! お母さんに、願いの代償として私の魂が食べられるって伝えて! そうしたらきっと……」

『もう、約束してしまいましたので』

「そんな……お願い……本当にお願い……」

『そう言われましても……あ、でもあなたにもう会えなくなってもいいか、とはお伺いしましたよ。全然構わないそうです』

「うそ……いや……ひっく……いや……」

『その絶望した泣き顔……やはり親子は皆似るんですねぇ』


 逃げようとしても、身体が動かない。涙でよく見えないが、悪魔が口を大きく開けている。

 無数の歯が近づいてくる。


 いや……お願い……許して……食べないで……おねが

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― 新着の感想 ―
[一言] あまり高尚なことは言えませんが、すごく面白かったです。 このあと主人公の母も親に見捨てられたりするのかな。
[良い点] すごく好みで面白かったです。 時を司る場所とは、面白い設定だと思いました。 [一言] 悪魔は悪魔ですね。 会話から上手く次のターゲットを見つけ……。 最初はこの数字は一体? 不思議でし…
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