俺の息を止めるのは、できれば最後にしてください
――シュー、シュー、シュー。
規則正しい音が心地いいような耳障りなような。
あれっ、俺、どうしたんだ?
目を開けようとしたのに力が入らず、まぶたが持ちあがらない。けれど、目を開けたいと意識した瞬間、なぜか周りの景色が飛び込んできた。
まず見えたのは、真っ白な天井とかすかに揺れる淡いクリーム色のカーテン。それと、自分の体に装着されているらしいなにかの装置。
視覚だけでなく嗅覚も突然利くようになり、ツンと鼻をつくアルコールのにおいが強すぎて気分が悪くなる。
「病院?」
つぶやいてみたが、口が動く感覚がないのはどうしてだろう。
「佑樹。調子はどう?」
そのとき、ドアが開く音と母さんの声がした。そちらの方向に視線を送ると、心電図モニターが飛び込んできた。やっぱりここは病院だ。
「今日は土砂降りよ。佐和の結婚式は晴れるといいんだけど」
佐和? あぁ、姉ちゃんか。そういえば、八月のお盆前に会社の上司と結婚するんだった。
「そうだな」と答えたものの、まるで聞こえなかったかのように母さんの反応はなく、なにやら持ってきた荷物をごそごそしている。
「新しいパンツ買ってきたわ。あとね、スーツも持ってきた。佐和の結婚式はこれでいいかなーと思って」
母さんはバックに無理やり押し込んできたせいでシワが寄ったスーツを俺の前に差し出した。
「結婚式にそのネクタイは地味じゃない?」
濃紺のネクタイが見えたので苦情を口にしたがまるきり無視で、小さなクローゼットのようなところにかけている。
「無視かよ」
悪態をついても反応ひとつない。
聞こえてない?
「昨日ね、佐和のドレスの試着に行ってきたのよ。ほら、あんたの事故で先延ばしになってたから……。無事に決まったよかったわ。式まであと一カ月だもん」
事故?
母さんが気になることを言うので必死に記憶を手繰り寄せる。
そういえば、五月上旬の黒い雲が空に広がってきた天気の悪い朝、車で会社に向かっていたら、目の前にトラックが飛び込んできたような。
ブレーキを踏み必死にハンドルを切ったが、本当に緊迫した状態のときは声も出ないものだ。あっという間にトラックが迫り、そこからはぷっつり記憶が途絶えている。
あの事故でケガをして入院してる?
この状況からするとそうだろう。
「なぁ、俺のケガってひどいの?」
力を入れてもどこもかしこも動かせない。のどのあたりから管が出ているように見えるが、その影響?
「佐和がね、お母さんたちの結婚三十年も式で一緒に祝おうだって。八月二日だったなんてすっかり忘れてたわよ。真珠婚式って言うんだってさ。でも、ピチピチの新婚さんと並ぶ度胸はないわよねぇ」
母さんは質問には答えず、相変わらず一通的に話を続ける。
「ね、式までに元気になりなさいよね」
パイプイスを取り出してようやく座った母さんは、点滴がつながれている俺の手をギュッと握る。
母さんと手を握ったなんて、小学生以来じゃないか?
数年前なら即刻拒否していたと思うけど、手を振り払わなくなったのは年の功ってやつなのか……。
「ずいぶん丸くなったな、俺」
……なんて言っている場合じゃない。どうして声が届かないんだ?
「あんたの意識が戻らないなんて……。佐和が嫁に行って寂しくなるというのに、どうしたらいいのよ」
突然母さんが涙声で訴えてくる。その切羽詰まった言い方に――いや内容に、息を呑んだ。
意識が戻らない? 冗談きついって。だってこの会話、わかってるぞ? でも、俺の話をスルーされるのはどうしてだ?
すさまじい不安に呑み込まれた俺は、すぐに口を開いた。
「母さん、なに言ってるんだ? 俺、しゃべってるじゃん。無視してるのは母さんだろ」
必死に訴えるも、母さんは目頭の涙をそっと拭っただけで視線を合わせてもくれない。
「耳悪くない? 大丈夫?」
「もう泣かないって決めたのに。歳を取るとダメねぇ」
「だから、俺の質問に答えろよ!」
大声でどなったつもりなのに、母さんは眉ひとつ動かすことはない。
俺の声は、聞こえてないんだ。疑惑から確信に変わり途方に暮れる。
もしかして……母さんから見みると肉体に意識がないのは本当で、それなのに俺の精神だけは目覚めた、とか? そんなの空想の世界の話だろ?
「母さん、母さん、母さん!」
焦りに焦って何度も呼んでみたものの結果は同じ。問いかけに応えるどころか、「売店行ってくるね」と出ていってしまった。
「嘘だろ……」
自分の置かれた状態が信じられなくて、唖然とする。
意識がないって、このまま死ぬってことじゃ……。
そういえば、周囲の景色は飛び込んでくるのに、まぶたが開いている感覚がない。話しているのに口が動いているとも思えない。
なんなんだ?
あぁ、今までは意識がなかったが目覚める前兆なんだ。それで、肉体より精神が先に目覚めただけだ。
不安があふれてきて気が狂いそうな俺は、必死に自分にそう言い聞かせた。
そして見える範囲でなにが起こっているのかを理解しようとし始める。
のどから見える管は、多分人工呼吸器だ。ということは、自分で呼吸が維持できないほどひどいってこと?
シューシューと聞こえてくるのはそれの音だろう。テレビドラマで見たことがある。
他に……反対側にあるのは心電図モニターだ。規則正しい波形が表示されていて一応心臓は動いていると確認できた。
体がまったく動かないのは、ケガがひどいからか?
とはいえ、どこかが痛くて我慢できないというようなことはない。それだけはありがたい。
そういえば、姉ちゃんの結婚式まで一カ月とか言ってたな。ということは、今は七月の上旬か。たしかトラックが突っ込んできたのは五月の連休の前だったはず。連休に入ったら、幼なじみの亜里沙や浩平とお盆に開催予定の町内夏祭りの準備を始めようと言っていたから、その前だ。
ということは、二カ月も眠っていたということ?
釈然としないうちにドアをノックする音がして、今度は看護師が入ってきた。
「岡さん、体位変えますね」
看護師は手慣れた様子で彼の体を動かして、背中にクッションのようなものを挟んだ。そしてモニターをチェックしている。
「看護師さん、俺、どうなってるの?」
母さんには聞こえなくてももしかして……と一縷の望みを抱いて声をかけた。
「落ち着いてますね。発熱もなさそう」
「聞こえてます? 聞こえてるなら返事して……」
最後はほとんど懇願だった。しかし看護師は俺の問いかけに答えることなく出ていってしまう。
「マジか……」
俺の声は、誰にも聞こえないんだ。
すさまじいショックと混乱で打ちのめされたせいか、意識が遠のきそうになる。
頑張れよ、俺。目を閉じたら今度こそ眠りから覚めないかもしれないんだぞ?
必死にカツを入れたものの、もう耐えられそうにない。
「死ぬ、のか?」
神さまが、最後に母さんに会わせてくれたってやつ?
そんな絶望感に包まれたまま、強烈な眠気にはあらがえず、とうとう意識を手放した。
◇ ◇ ◇
「佑樹、見て見て! これ、私。めちゃくちゃかわいいでしょ? 彼がね、惚れ直しただってさ。そんなん言われたらニタつくってねぇ」
次に目覚めたのは、キンキン声が聞こえてきたときだった。
「姉ちゃんか……。はー、戻ってきた」
安堵の胸をなでおろす。
もしかしたらもう二度と目覚めないかもしれないという予感は外れたようだ。
姉ちゃんが自慢げに俺の前に掲げているのは、スマホの写真。そこには真っ白なウエディングドレス姿で作ったような笑みを浮かべている姉ちゃんの姿が写っていた。
このドレスを着て嫁に行くのか。いつもだらしない恰好でうろちょろしている姉ちゃんにしてはきれいじゃないか。
旦那になる人に何度か会ったことがあるが、落ち着きのない姉ちゃんとは対照的にどっしりと構えたような人だった。たしか、五つ年上だったような。「本当に佐和でいいんですか?」と尋ねたら、姉ちゃんに頭を叩かれたっけ。あれ、結構クリーンヒットだったんだぞ。でも、「もちろん」と笑顔で言われて、安心したような。弟なのに親の心境だ。
「姉ちゃん、俺の声聞こえる?」
俺は早速話しかけてみた。けれど、看護師のときとは違い今度は期待せずに。あまり期待するとダメだったときのショックに耐えられず、また眠りに落ちそうで怖かったからだ。
「無理か……」
姉ちゃんは、スマホをいじったままで返事すらしない。
俺、ピクリとも動いてないんだろうな。ずっと眠ったままだったとしたら、ほんの少しでも動こうものなら大興奮だろう? 普通。
「あんたさぁ、早く目を覚ましなさいよ」
スマホから視線を外した姉ちゃんが、俺の顔をじっと見て声をかけてきた。
「覚ましてるよ。気づけよ!」
「お祝いごとが続くはずだったのにね。あんたのせいで、はしゃげないじゃない」
悪態をついた姉ちゃんだったが、驚くことに目がうっすらと潤んでいる。
「早く起きて、ドレス姿見に来なさいよ。結婚式は何回もやらないんだから。目覚めるまで待とうとも思ったんだけど、ずっと泣いてるお母さんが不憫で。せめて結婚式でテンション上げてもらわないとね」
そっか。姉ちゃんはそこまで考えているんだ。それで真珠婚式なんて言いだしたのかも。
「悪かったな。父さんと母さんをうんと喜ばせてあげて」
まだ自分が寝たきりで意識がないということを、うまく呑み込めていない。しかし、周りの人たちを悲しませていることだけはわかり、なんとかしたいと思った。といっても、声すら届かない今、なにができるかわからないけど。
「そうだ。夏祭りの準備、順調だって。浩平くんと亜里沙ちゃん来たでしょ? あんたたち三人で中心になってやるって張り切ってたのに、急にふたりになって……」
姉ちゃんが涙声になるのを聞き、胸が痛くなる。
浩平と亜里沙のふたりは幼い頃からの腐れ縁で、いつも一緒だった。町内会の夏祭りを盛り上げるのに知恵を貸してくれと町内会長に依頼された浩平が、ずっと地元で暮らしている俺と亜里沙を誘って実行委員会を作ったんだよな。って、三人で委員会とか笑えるけど。
年配者ばかりの祭りを、若者も興味を持つようにしてほしいと頼まれて、いろいろ策を練っていた。盆踊りの一部を、子供向けの音楽に変えたり、タピオカドリンクの露店をやったりと、アイデアだけは一人前。あとはどう実行に移すかという話し合いをするところだった。
それを前に俺は事故に遭ったんだ。
「亜里沙ちゃん、泣くのこらえてたけど、痛々しかったんだから。まったく、佑樹のくせして女の子を泣かせるとか。ほんと、あんた最低」
そんなふうに責められても困る。でも、いつも底抜けに明るかった亜里沙が泣いていたなんて、申し訳ないとしか言いようがない。
「ま、スマホ見てたトラックの運転手が悪いんだけど。なんであの人は骨折だけで、佑樹がこんな目に……」
そうか。センターラインを飛び出して突っ込んできたあのトラックは、“ながら運転”だったのか。トラックと自家用車では、車両の大きさからして俺のほうが負けたんだろうな。特に大きな交通違反をした覚えもないのに寝たきりになるなんて、運が悪かったでは片付けられない。ふつふつと怒りが湧いてくる。
「姉ちゃん、亜里沙と浩平に謝っておいてくれよ」
姉ちゃんの話ではふたりともお見舞いに来てくれたようだけど、まったく記憶にない。おそらく眠っていた間だろう。今度いつ意識が落ちていつ復活するかわからないので、姉ちゃんに頼んだが、やはり返事はない。
「なあ、姉ちゃん」
期待しないと自分に言い聞かせたのに、なんとかして姉ちゃんに声が届かないかと思っている自分に気がつく。このままでは埒が明かないからだ。
「そろそろ帰るわ。いい、結婚式までに目を覚ますのよ?」
姉ちゃんは勝手な発言を残して帰っていった。
「俺だって、目覚めたいよ」
どうしたらこの鉛のように重いまぶたが開くのだろう。見えているのにまぶたが下りているって、おかしいだろ?
意識を失っていると認識されている人は、実は俺みたいに体が動かず声にならないだけで、必死に叫んでいるんじゃないか? それをたしかめるすべがないから、皆知らないだけだったりして。いや、でも昏睡から目覚める人もいるな。目覚めた瞬間、意識混濁中の記憶だけが飛ぶとか? さすがにちょっと都合がよすぎるか……。
そんなくだらないことばかり考えるのは、誰にも気づいてもらえないという現実から目をそらしたいからだ。
あぁ、余計なことを考えていたせいか頭が痛くなってきた。
まだだぞ。まだ眠らないぞ。眠ってたまるか!
手でも動かせればどこかをつねるところだが、それすらできない俺は、強烈な倦怠感には勝てず再び意識を失った。
◇ ◇ ◇
「真珠婚式って、初めて聞いたよなぁ。なんでも名前がついてるんだな」
ん?
少し低めの声が聞こえてきて意識が戻った。
「母さんになんかプレゼントしたほうがいいかな。真珠婚式だから、真珠? うーん。ネックレスか? あれ、結構高いだろ?」
「父さん……」
俺に話しかけていたのは、心なしか頬がこけている父さんだ。きっと心配をかけているのだろう。
「一粒だけのやつなら高くないんじゃない?」
「イヤリングなんてしないし、ブローチ? 使うかなぁ」
ごくありきたりな会話がしたかった。ただ、それだけ。それなのに、やはり声は届かない。
「母さん、お前の事故のあと沈みっぱなしで。励ましたいんだけど、父さん、そういうのうまくなくて」
たしかに父さんは口下手で、どちらかというと寡黙な人だ。気の利いたセリフもあまり聞いたことがない。
「佐和が盛り上げてくれるんだけど、もういなくなるし……。しばらくは実家にいてもいいなんて言いだすから、嫁に行くのに最初から別居なんてするなって言っておいたよ」
父さん、それは正解かも。
「俺のせいでごめん」
って、トラックの運転手のせいだけど。
俺がこうして寝たきりにならなければ、今頃皆で笑い転げていたような幸せな時間だったんだろうな。
「あのさ、俺の部屋のクローゼットに黒いリュックがあるんだけど、その内ポケットに貯金通帳とカードがあるんだ。大して入ってないけど、それ使っていいいから、母さんにネックレス買ってあげてよ。暗証番号は、2608」
恥ずかしいけど、亜里沙の誕生日を逆転したものだ。
もうすぐ亜里沙の誕生日もあったのに。アイツ、別に彼女でもなんでもないのに、毎年プレゼントはあれがいいだのこれがいいだのうるさいんだ。「しょうがねえなぁ」って甘やかしてはいたけどね。なんて、本当は亜里沙にねだられるのがうれしかったのかも、俺。
今年はそれを聞く前にこんなふうになってしまった。
「佑樹。親より先に逝くのは最大の親不孝なんだぞ。母さんを泣かせないでくれ……」
父さんの声が震えていて、俺の視界も曇ってくる。まぶたは開いていないはずなのに、不思議だけど。
「わかってる。気づいてくれ。俺、生きてるんだよ!」
いや、生きていることはわかっているか。心電図に異常はないのだし。ただ、このまま意思の疎通もできないでは、生きていると言える?
「お前が生まれる前、母さんと険悪だったんだよ」
父さんが唐突に俺の知らない話を始める。
「佐和の育児をまかせっきりだったからなぁ。おむつを替えたこともなければ、風呂ひとつ入れてやろうともしなかったし、泣いていても母さん任せだった。父さんは仕事で疲れてるからそれでいいんだと思ってた。でも、母さんはもっともっと疲れてた」
たしかに父さんはちょっと亭主関白なところがあるが、そんな状態だったとは。イクメンとはほど遠い。
「ある日、母さんが壊れてしまって。キッチンで包丁持って座り込んでた。慌てて包丁を取り上げたけど居間にいる佐和は泣き通し。父さんがあやしても慣れないからか泣き声がひどくなる一方で、どうしたらいいかわからなくて父さんが泣きそうだった。そのとき初めて気づいた。母さんは毎日こんな状態で奮闘していたんだなって。情けないな」
「父さん……」
眉間にくっきりとした三本のシワを浮かべて反省を吐露する父さんが、小さく見える。
「母さんを幸せにするために一緒になったのに、なにしてるんだろうって急に冷静になって、それからはひたすら懺悔の日々だよ。時間があればおむつも替えたし、土日は佐和を連れて公園に行って、母さんをひとりにするようにした。そうしたら、お前が生まれた」
はいはい。仲直りしたってわけだな。でも、そういう話を実の親から聞いてもなんと言ったらいいかわからない。まあ、言えないんだけど。
「佐和も佑樹も父さんと母さんをつなぐ大切な存在なんだ。だからお前がいないと、また家族が壊れるかもしれないんだぞ」
「なに他力本願なことを言ってるんだ!」と反発したが、それが“死ぬな”のメッセージなことくらい、さすがにわかる。
「なあ、父さん。どうしたら目覚めていることに気づいてもらえる? どうしたら声が出る?」
懸命に問いかけても、反応ひとつない。
ずっとこのまま?
とてつもない恐怖に押しつぶされて、目の前が真っ暗になっていく。そして再び意識を失った。
◇ ◇ ◇
「岡さん、頑張って!」
次に目覚めたのは、語気を強めた励ましの声が聞こえてきたときだった。
頑張って?
なにに対してそう言われているのかまるで理解できないものの、体が燃えるように熱く、呼吸が苦しい。ここで目覚めるようになってから初めての経験でひどく戸惑った。
「抗生剤はまだか!」
医師が看護師に叫んでいる。
「佑樹、逝かないで……」
視覚に入るところには見えないが、母さんの悲痛な声が耳に届いた。
もしかして、危篤っていうやつ? とんでもないことになっているぞ。
それから看護師が注射器ののったトレーを持ってきて、医師に渡した。すると医師は点滴の管からそれを入れ始める。
苦しい。早く、早く助けてくれ……。
首をじわじわ絞められているような息苦しさに耐えかねて、のどをかきむしりたいような衝動があるが手が動かせない。
なんだよ、これ。肺炎でも起こしている? その抗生剤が効かなかったらどうなる? もしかして、このまま死ぬ?
母さんの涙声を聞いていると、その可能性を強く感じて肌が粟立つ。いや多分、粟立つように感じているだけでなんの変化もないのだろう。医師も看護師もこれといって反応がない。
もし俺が死んだら……。姉ちゃんの結婚式はどうなる? 父さんと母さんの真珠婚式は? 浩平や亜里沙が必死に準備している夏祭りには影響はないだろうけど、アイツらも笑顔で参加はできないよな……。亜里沙の誕生日も、とても祝える雰囲気にはならないだろう。
声が届かないとわかってから、いつかこんな日が来るかもしれないと思っていた。とはいえ、覚悟が決まったわけでもない。
神さま、頼む。もし俺の息を止めるなら、できれば亜里沙の誕生日まで、全部がすんでからにしてください。すべてが滞りなく終わったあと、最後に……。
無意識に心の中で願う。
声も届かず体も動かせない今、俺にできるのは皆をこれ以上泣かせないことだけ。無事に生還できるのが一番なのはわかっているが、それが難しいのなら、せめて皆の晴れの舞台を壊したくない。
いや、本当は死ぬのが怖い。
はー、ダメだ。酸素が欲しい。息を深く吸い込みたいのに、機械任せの体ではなにひとつ自由にならない。
頼む。まだ息を止めないでくれ……。
まだ死ぬわけにはいかないんだ!
◇ ◇ ◇
「佑樹。聞こえてる?」
低めの声にふと目を覚ますと、浩平が話しかけている。
まだ生きてる?
「お前が肺炎で危ないっておじさんから連絡もらってさ、亜里沙なんか取り乱しまくりだったんだぞ」
やっぱり肺炎だったのか。でも、もう息苦しさは消えているし浩平の様子を見ていると乗り越えたようだ。
「神さま、ありがとう。俺の息を止めないでくれて、ありがとう」
「やっと祭りの準備に顔を出すようになって安心したのに、ふとした瞬間に目に涙を浮かべてる。お前の姉ちゃんの結婚式が無事に終わったと聞いただけで泣きそうになるし。お前が出席できなかったことがつらいんだろうな。アイツ、お前がこんな状態になってから泣きっぱなしだ。俺たちの中で一番強いと思ってたのに」
ふっと鼻で笑う浩平だが、目はうつろだった。
結婚式は無事に終わったんだ。父さんと母さんの真珠婚式も一緒にやったのだろうか。俺の葬式でダメにならなくてよかった……。
「浩平。今日、何日?」
結婚式は終わったけど夏祭りはまだそうだから、十日くらいかな。
届かないと思いつつも、尋ねる。
「お前、亜里沙泣かせんなよ」
やっぱり聞こえていない。もう何度目かわからない落胆で目を閉じたくなった。
「俺だって泣かせたくないよ。あいつが強そうに見えて弱いことくらい知ってるんだよ。何年の付き合いだと思ってるんだ」
ふたりとの付き合いは幼稚園に入園して以来だから……もう二十二年にもなるのか。何度も派手に喧嘩をして、でもそのたびに仲直りしていつしか親友と呼べる存在になった。
「お前、亜里沙のこと好きなんだろ?」
ぼそりとつぶやく浩平の顔まじまじと見つめる。
そうだ。俺は亜里沙が好きで、多分浩平も……。
「亜里沙はいつもお前のことばっかりなんだよな。でも逆転ホームラン打つ気満々だったのにさ。お前が死んじまったら、一生勝てないじゃん。死んだやつに敵うと思う?」
勝手に殺すなよ。
でも、死んでいるも同然か。また肺炎を起こしたら、今度も助かる保証はどこにもないし。
亜里沙ももしかして俺のことを……と感じることは何度もあった。いつもそばにいた浩平も気づいていたのだろう。
三人の心地いい関係が崩れるのが嫌で片思いを続けていたが、亜里沙に気持ちを伝えておけばよかった。今さら後悔しても遅いんだろうな。こんな状態では「好きだ」と伝えることもできないし、伝わったところで未来もない。
「あぁっ、くそっ」
こんなに未練たらたらであっちの世界に行かないといけないんだろうか。
「なぁ、浩平。もし俺がこのままだったら、亜里沙を――」
そこまで言って、口を閉ざした。聞こえていないのだから、どこまで言っても同じなのだけど。
『亜里沙を頼む』と伝えようとしたができなかったのは、いくら浩平にでも彼女を渡したくないからだ。
かといって、寝たきりで意識のない俺にできることなんてなにひとつない。亜里沙を幸せにするすべがない。
なんでこんなことに……。
激しい憤りと絶望に支配され、再び意識を手放してしまった。
◇ ◇ ◇
「佑樹。いつ目を覚ますの?」
聞き覚えのある声が耳に響いてきてゆっくりまぶたを持ち上げる。もちろん、意識の中のまぶたのほうだ。
声のほうに視線を向けると、そこには紺地に赤い牡丹柄の浴衣を纏った亜里沙がいた。童顔の彼女だけれど、いつもよりずっと大人びて見えるのは、アップにした髪形のせいなのか浴衣の襟元が少し乱れていて白い肌が露出しているからなのか……。
今日は夏祭りだったのか。
「この浴衣、今年のために買ったんだよ。佑樹に見せたくて買ったのに、ちゃんと見なさいよね」
「見てるよ。よく似合ってる」
こんなこと、普段なら照れくさすぎて言えない。でも、もう俺の想いが彼女には届かないと知ったからか、素直に飛び出してきた。
「ほら、帯も練習してかわいく結べるようになったんだから」
彼女はくるっとうしろを向いて、えんじの帯を見せる。
「きれいに……結べてる、じゃん」
彼女になら俺の声がもしかして伝わるのでは? という希望がかすかに残っていたのに、やはり表情が変わることはなく、声が震える。
亜里沙がダメなら、もうきっと誰にも届かない。俺はいてもいなくても同じ存在になってしまった。いや、看病しなくていいからいないほうがいい? 心臓が止まってしまったほうが……。俺なんか、もう呼吸をする意味すらないんだ。
彼女と会話を交わすこともできない絶望で、いっそ命を絶ってしまいたいと考えてしまった。
ダメだ。彼女の誕生日までは生かせてくれ。せっかくの誕生日が俺の葬式だったら、毎年つらい日になる。
再びこちらを向いた彼女の頬に涙が伝っているのでハッとした。
「タピオカ、大人気だったよ。盆踊りの音楽も子供向けを入れたら、小さい子が大喜びしてて。お祭りは大成功だったの」
あふれる涙を拭うことなく彼女は続ける。
「佑樹だけが足りないの。佑樹がいなくちゃ、私……」
「亜里沙……」
彼女が布団に突っ伏して肩を震わせているのを見て、胸が引き裂かれそうに痛くなった。
抱きしめてやりたい。俺はここにいるよと、ささやきたい。
それなのに、指先ですら動かすことができない状況にいらだちを隠せない。
「佑樹。幼稚園の頃の約束、覚えてる?」
しばらくしてようやく顔を上げた亜里沙だったが、目が真っ赤に染まり眉間にくっきりとしたシワが浮かんでいる。
「約束なんてしたっけ?」
考えたものの、思い出せない。
「大きくなったら亜里沙をお嫁さんにしてあげるねって、言ったよね」
しかし、彼女がそう言ったとき、まさにその光景が頭に浮かんだ。
そうだ。園庭の滑り台の陰で、「浩平には内緒ね」と亜里沙と指切りした。あのとき彼女は、うれしそうに微笑んで指を絡めてくれたはず。
でもまさか、まだそれを覚えていたなんて。
あんなの子供の気まぐれだし、時効だろ? と思ったけれど、俺は彼女のことが相変わらず好きだし、できるなら結婚したい。その気持ちは、あの約束以来一度も揺らいだことはない。
「私、待ってたんだよ。約束破ったら針千本だって言ったでしょ? 私……来世までなんて待たないんだから!」
亜里沙の瞳から再び大粒の涙があふれ出たとき、一瞬でも死んでしまいたいと思ったことを後悔した。
◇ ◇ ◇
「先生、血圧下がってます」
「これはまずい……」
飛び交う緊迫した声と、バタバタと響く足音が耳障りだ。まだ眠り足りなくてまどろんでいると、「佑樹」という亜里沙の声が飛び込んできた。
「亜里沙、どこ?」
目を開いたものの、白衣を着た医師と看護師の姿しか見えない。険しい表情の医師が、聴診器を俺の胸にあてている。
まずいって……。死にそうだということ? まさかまた危篤で、亜里沙たちまで呼ばれた、とか?
「佑樹のバカ。今日は私の誕生日なんだよ。死んだら呪ってやる!」
亜里沙の涙声がさらに続いた。
呪うのは普通、死んだほうだろう? と頭の片隅で考えつつ、この状況をなんとかしなければと焦る。
俺は以前神さまに、息を止めるなら亜里沙の誕生日のあとにしてほしいと願った。もしあの願いが有効ならば、今日が終われば息が止まってしまうかもしれない。
自分の心臓や脳がどんな状態なのかなんてよくわからない。ただ人工呼吸器はついたままで、自発呼吸ができないことはたしかだ。でも、こうやって皆の声が聞こえたり、不安を感じたりすることができるのだから、脳が死んでいるわけではない気がする。
でも、このままでは……きっと、死ぬ。
こんなに意識が鮮明なのに、どうやって最期を迎えるんだ? 肺炎のときのような苦しさもないのに。
亜里沙の声だけでなく、母さんの声にならないような叫びや父さんが「大丈夫だ」と母さんを励ましているだろう声も響いている。「バカ弟、先に死ぬな!」という姉ちゃんの罵声も、「あきらめんな」というちょっとかっこいい浩平の懇願も。
あぁ、最期ってこんな感じなんだ。お花畑なんてどこにもないじゃないか。俺が生きることを望んでくれる人たちがいて、未練をたっぷり残したままあっちの世界に行くんだ。
体は苦しくないのに、心が痛くてたまらない。
死んだらどうなるんだろう。もう皆の声が聞こえなくなって孤独になる? いや、孤独も感じられないような“無”になる?
父さん、母さん、出来の悪い息子でごめん。姉ちゃん、新婚早々葬式ですまん。浩平、いろいろ迷惑かけたな。そして亜里沙……。亜里沙……。
心の中で別れの言葉をつぶやいていったが、亜里沙のところで止まってしまった。
どうしてもあきらめられない。せっかく亜里沙があの約束を覚えているのに、果たさずに逝ける? それに、針千本飲まされて、呪われるぞ?
半分折れていた気持ちが、亜里沙のおかげで復活してきた。
復活しろ、この体。生きるんだ! 開け、俺の目。目覚めろ、体!
あぁ、まずい。心臓が破れる……。
死にたくない。俺はまだ、死なない! 亜里沙を泣かせたまま死ぬなんて、ダサすぎる。
そう思った瞬間、今までとは違う強烈な強い光が目に飛び込んできてガクッと意識が落ちてしまった。
◇ ◇ ◇
「佑樹。ごめん、プリン食べていい? 仕事が忙しくて、お昼食べ損ねちゃったの」
亜里沙?
亜里沙の優しい声が聞こえてきたが、まぶたがくっついたかのように開かない。
俺、どうしたんだっけ? 死んだんじゃないのか?
お腹が空いたならプリンじゃなくて弁当でも食えばいいのに。
でも、どうして亜里沙の声が聞こえるんだろう。やっぱりまだ生きている?
俺は全神経をまぶたに注ぎ、必死に持ち上げた。
なんだかいつもと感覚が違うのは気のせい?
目が開くと、長い髪をひとつに束ねた仕事モードの亜里沙がプリンをひと口パクッといったところだった。
プリンって、そんなでかいやつ?
彼女が手にしていたのはただのプリンじゃない。上にフルーツやらクリームやらがたっぷりのった特大サイズだった。
女子は不思議だ。太るからと常々体重を気にしてご飯の量を減らすくせして、こういうものはしっかり食べるんだから。
俺、生きてる?
亜里沙の声も聞こえるし、くだらないことも考えられる。どう考えても絶体絶命のピンチだったのに、乗り越えた?
それなら、どうしても伝えたい。いや、伝わらないけど、次にいつまた危険な状態に陥るかわからないのだから吐き出しておきたい。
「亜里沙」
「ヤバい。この新商品はまりそう」
「亜里沙」
無邪気にはしゃいでいる彼女にもう一度語りかける。
「佑樹?」
プリンから俺に視線を移した亜里沙は、もともと大きな目をいっそう見開き、手に持ったプリンを落として立ち上がる。
どうした?
「佑樹、わかる? 亜里沙だよ」
わかってるさ、もちろん。
いや待てよ。どうして彼女はこんなに驚いているんだ? 大事なプリンを落として見向きもしないほど、どうして……。
もしかして、俺の目、開いてる? だからいつもと感覚が違った?
「せ、先生呼ばなくちゃ」
彼女が慌てふためき枕もとにあるナースコールのボタンに手を伸ばしたので、とっさにその腕を握った。
……やっぱり体が動く。
「亜里沙」
それなのに、声が出ない。
どういうことだ? 今までは話せていたのに。まさか、意識が覚醒したら声を失う仕様になってる? そんなのあんまりだ。
「佑樹……。やっと、やっと……」
彼女の瞳から一粒の涙が俺の手にこぼれ落ちる。
「亜里沙」
「なに? なにか言いたいの?」
亜里沙は俺の唇をじっと見つめている。
せっかく口が動くようになったのに、やっぱり声が出ない。
いや待てよ。人工呼吸器がついているから声が出ないんだ。今まで発声していると思っていたのは、俺だけだし。
それに気づいた俺は、唇をゆっくり動かし始めた。唇の形で想いが伝わるように。
『あ、り、さ』
「うん、なに?」
よかった。伝わっている。
『け、つ、こ、ん、し、よ、う』
どうしても伝えたかった言葉を吐きだすと、彼女は目を開いたまま微動だにしなくなった。
その反応はなに? ようやく亜里沙のところに戻ってこられたとはいえ、この体が元通りになるかどうかわからない。長い間器械に頼って息をしていた俺は、この先ももしかしたらベッドの上でこのままなのかも。そんな男と結婚したいやつがいるわけがないか。
俺……亜里沙の『私、待ってたんだよ』という言葉をそのまま受け取って舞い上がっていたけれど、彼女が待っていたのは元気な俺で、こんな哀れな姿の俺じゃない。
バカだな。そんなことに今気づくなんて。
俺は目を閉じて唇を噛みしめた。自分で言っておいてなんだけど、断られるなら覚醒早々プロポーズなんてするんじゃなかった。
きっと彼女は断りの文言を考えているんだ。ようやく目覚めた俺に、どうしたらショックを与えることなく断れるかを。亜里沙はハキハキものを言う女の子だけど、誰かを傷つけるようなことは口にしないないからだ。
俺の一方的な想いが彼女を苦しめるなら、プロポーズは撤回しよう。亜里沙に不自由な体を世話をしてもらいたいわけじゃない。ただ、隣を歩きたかっただけ。気持ちを伝えるために戻ってこられただけで十分じゃないか。彼女への未練があったおかげで、きっと意識を回復できたのだし。命の恩人を困らせたらダメだろ?
必死に自分にそう言い聞かせて、再び口を動かし始めた。
『あ、り――』
「バカ!」
俺の言葉を遮る亜里沙が、険しい表情を浮かべる。そんなに不愉快だった?
ショックを受けつつもこれでよかったんだと口を閉ざすと、彼女は俺の手を強く握ってきた。
「付き合ってください、が先でしょ?」
なんて……?
「私を待たせた代償は高いからね。一生かけて償ってもらうんだから!」
まったく隠すことなくポロポロと大粒の涙を流す彼女は、悪態をつきながらも満面の笑みを見せてくれた。
◇ ◇ ◇
――医師から「奇跡です」と言われた復活から三年。
過酷なリハビリに音を上げるたび亜里沙に叱られながらも、日常生活を送れる状態までには回復した。ただ、残念ながら右足に麻痺が残り、杖は常に必要だ。しかし俺は落胆していない。足は動かせないが、針千本も呪いも回避できたからだ。いや、そうじゃないか。
「佑樹。お昼ご飯できたよ」
今、俺の隣には退院後すぐに岡亜里沙になった彼女がいる。
俺は以前の営業の仕事には戻れなかったが、別の会社の事務の仕事に就くことができて、生活も安定してきた。
「ありがとう。今日はなに?」
土曜の昼下がり。エプロン姿の亜里沙が鼻歌を歌っている。
「カルボナーラ。佑樹、好きでしょ?」
「おぉ、好き」
ソファからゆっくり立ち上がり、ダイニングに向かう。
「うまそう」
父さんの母さんへの懺悔を聞いた身としては家事を手伝いたいところだ。しかし料理だけはからっきしダメで、うろちょろしていると邪魔らしく「座ってて」と言われてしまう。だから、皿洗いを率先してやるようにしている。
「お腹空いたー。食べよ」
さりげなく俺をサポートしてイスに座らせてくれた亜里沙は、自分も真向かいに座り笑顔を見せる。
「うん、いただきます」
大きな窓から差し込む太陽の光が、俺たちの手元にチラチラと降ってくる。
何気ない日常の積み重ねがこれほど幸せだと感じるのは、あの壮絶な経験があるからだ。
彼女が作ってくれたパスタをひと口食べてから、晴れ渡る空を見上げる。
「俺さ……」
「ん? なに?」
「なんでもない」
「なに、その思わせぶりな感じ。教えなさいよー」
亜里沙は口をとがらせる。
もう一度、神さまにお願いしたんだ。俺の息を止めるなら、やっぱり最後にしてくださいって。
二度と俺のことで亜里沙を苦しませたくない。何十年後かにいよいよ別れのときが迫ったら、今度は俺が亜里沙を失うつらさを背負うから。亜里沙がもう泣かなくてすむように、一分でも一秒でもいい。俺の息を止めるのをあとにしてほしい。
って、先に逝けばいいのにと思われないようにしなければ! まずはそこからだな。
「聞きたい?」
「もちろん」
「幸せだなぁと思って」
そう伝えると、彼女は途端に落ち着きをなくし、目をキョロキョロと動かし始める。強気な発言をするくせして、結構照れ屋なんだ。
「当然でしょ。私と一緒にいるんだから」
「そうだった」
俺はようやく視線を絡ませてくれた亜里沙と笑い合った。
いつか息が止まるまで続く、至福の時間に思いを馳せて――。