第38話:明日の予定
「帰ったぞ」
局員寮に帰ってきた俺は、出て行く時と同じように塀から窓へと飛び移り、自分の部屋の中に入る。
そして見たのは……俺の存在に気付く事もなく、全身に黒い魔糸を纏い、遠目にもはっきり分かるほどに耳を赤く染めたクロの姿だった。
「そ、そんな事を……、あわ、あわわ……」
俺は聴覚を強化して、周りの部屋の様子を探ってみる。
すると、大半の部屋からは寝息やちょっとした動きに伴う音しか出ていない中、ちょうど真下の部屋から、そう言う事をしている声が聞こえてくる。
どうやらクロは全身強化を行った結果としてそう言う音を聞き取ってしまい、一度耳に入ってしまったがために、俺の存在に気が付かない程に意識が向いてしまったようだ。
まあ、この手の音は気にしてはいけないと思うほどに気になってしまう物だからな……。
「とりあえず、俺の存在を認識させるか。おーい、クロ」
「ひゃうあっ!?」
俺はクロに声をかけつつ、肩を叩く。
ただし、手ではなく魔糸で空気を操ってだ。
そして、その判断は正しかった。
「ご、ご主人さ……えっ、わっ!? きゃあっ!?」
肩を叩かれた瞬間にクロが俺の方を向こうとする。
文字通りの目にも留まらぬ速さで、空気が圧縮されて弾けるような音を少し混ぜながら。
うん、クロの手の軌道上に居たら、上半身と下半身が泣き別れになることまで有り得たかもしれないな。
「クロ……」
「その、すみません。ご主人様のお帰りに気付かなくて……」
「そうだな。流石に意識を持って行かれ過ぎだ。周囲の状況くらいはきちんと認識しておいた方がいい」
「はい……」
クロは俯き、気落ちした姿を見せる。
「だが悪い事ばかりじゃないな」
「えっ?」
しかし、続く言葉にクロが俺の方を向き、目を大きく開く。
「何かに集中しても、全身強化そのものはきちんと維持できていた。そして、聞きたい音だけを聞けるように音の選別が出来るようになっていた。今の強化はそう捉える事も出来るからな」
「あ……そう言えば……」
「それに声の大きさの調整なんかも出来ていたし、これは大きな進歩と言える」
「ご主人様……」
そう、クロが行っていた全身強化は、守りを維持したまま、必要な機能の上乗せと不必要な機能の停止と言う選別が出来ていた。
これは全身強化の先、個別の強化を行う上で絶対に必要な要素だ。
だから俺はクロの頭を撫でて、褒める。
「湯を貰ってくるから、お茶を淹れて貰えるか? 口の中に残ってる酒を濯ぎたい」
「分かりました、ご主人様」
既に夜遅いが、それでも局員寮には幾らかの人が起きていて、寝ずの番が火を見てもいる。
これは『調査局』の局員が貴族ばかりで、夜会から帰ってきた局員が寝る前の一杯を求めたりする事もあるからだ。
「ふぅ……」
そして、茶を一杯飲んだ俺は一息吐く。
「ご主人様はお酒は……」
「実のところを言うと、あまり好きじゃない。仕事だから飲むが」
「そうなんですか?」
「そうなんだ」
実を言えば、俺は酒が好きではない。
酔うのが嫌だと言うのも当然あるが、それ以上にアルコールの風味と言うか、飲んだ後に感じる妙な気持の悪さが苦手なのだ。
それでも、『調査局』の仕事上、酒を飲んだ方がスムーズに話が進む場面が多いので、必要に応じて必要な分だけは飲むが。
「それでご主人様。捜査の方は……」
「今日の成果は色々とあるが……直接捜査が進むような情報は無かったな」
「そうですか……」
クロが不安そうな顔を見せる。
「不安そうだな」
「いえ、そんな事は……あります」
俺の視線にクロが本音で応える。
「本当に実行犯であるバグラカッツを捕まえる事が出来るのか、その裏に居る黒幕を捕まえる事が出来るのか、皆の仇を討つ事が出来るのかと、私は不安で不安で仕方が無いです」
「まあ、そうだろうな……」
俺とクロの身の安全を図るために、俺は無能を装うように動いている。
その成果はディックが貴族たちの間で流れている噂の中に、俺がクロを溺愛していると言った旨のものしか無かった事から上手くいっていると言えるだろう。
だが、そうして無能を装う為に、結果は変わらずとも、手が出せない部分も生じているのもまた事実。
クロが、俺が本当に無能ではないかと思い始めていても、別におかしくはないだろう。
「ただ、黒幕については大丈夫そうだ。ディックから心強い言葉を聞けたからな」
「本当ですか?」
「ああ、本当だ。だから、あっちはもうディックたちに任せておく。俺たちはバグラカッツの逮捕に専念すればいい」
「はい」
しかし、決して場が動いていないわけではない。
「でだ。どうやってバグラカッツを捕まえるかだが……相手の下見を見つけたいと思う」
「下見ですか。あー……そうですよね。これだけ証拠を残していないなら」
「ああ、必ず事前に次に襲う場所を見に来ている。そいつらを逆に見つける事で、辿り着く」
既に推定バグラカッツたちは三回の強盗を行っている。
その何れにおいても、目撃者も生存者も出さず、証拠らしい証拠も残さずに事を終えている。
逆に言えば、そのような犯行を可能にするほどに事前の情報収集を行っているとみることも出来る。
「明日は街中を駆け回る。そのつもりでいてくれ」
「分かりました。ご主人様」
ならば、相手の情報収集から先回りする事も可能である可能性はある。
そして、無能である俺相手ならば、警戒も薄くなるかもしれない。
スレブミト羊爵からの繋がりで警戒するのは人手の居る第一局と第六局に任せて、俺はその可能性に賭けることにした。
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