婚約の意義
次にアレックスが目を覚ましたのは、空が赤く染まるころだった。
アレックスは今、自分が置かれている状況が全く分かっていなかった。そもそも、一番初めに彼女は確か競技場で倒れたはずだったが、結局、あの競技場で起きた出来事は何だったのだろう、と考えた。そして、夢なのかどうかわからないが、幼馴染とはいえ、学生の中で最も高貴な人物であるはずのホイットニー次期公爵が自分に求婚するなんて考えられなかった。しかも、彼は婚約者がいるはずだ。
彼女はそこまで考えて、今自分がいる場所を見回してみた。
そこから見える庭からここが学園内であることはわかったが、いつも彼女が使っている部屋ではなく、時々実習中にお世話になる医療室でもなく、かなり高級そうな部屋であることに気付いた。
(どういうこと―――――)
今まで自分に起こった出来事がさっぱり分からなくなっていた。
確かに、自分は『アレックス・ムーブメント』だ。『ムーブメント』の名を冠する家に生まれ、親の期待によって名付けられた紛い物だ。そして、そんな人間はほかにもいるこの世の中で、自分が特別な存在だとは思ってはいない。
アレックスがそんなことを考えていると、急に扉が開かれた。
「失礼するよ」
そう言って入ってきたのは、アレックスが倒れる前に求婚してきたルドルフだった。その後ろにはヒルダもいる。学園の首席二人がこの部屋に来たので、アレックスは起き上がろうとしたが、ルドルフに制止された。
「そのままで、構わない」
彼はそう言って、彼女が寝ているベッドの脇に座った。ちなみに、ヒルダは立ったままだった。
「レクス。もう大丈夫かい?」
彼はそう言って、アレックスの額に手をやった。
「とりあえずは、熱はないみたいだから大丈夫だろう」
そういう彼の顔はにこやかだった。
「先に謝っておく。さっきは驚かせてごめん」
彼の謝罪がなんのものに対してなのかはすぐに分かった。その言葉に、アレックスは首を横に振った。事実、そんな甘い言葉は本当に結婚する人にだけ言ってほしい、とは思ったが、彼女自身も彼にそれを言ってもらったおかげで、これ以上淡い期待なんて抱かなくて済んだと思っていたのだが、
「でも、あの言葉には偽りはない。子供の時に遊んだ君のことがずっと忘れられなくて、ね。ずいぶん探し回ったよ」
というルドルフの言葉に、えっと思ってしまい、後ろにいるヒルダのほうを思わず見てしまった。すると、ヒルダもルドルフも苦笑いして、
「それについてなんだけれど、ヒルダはもともと、ホイットニー公爵家の執事の娘で、今は僕専属の侍女なんだよね」
そう言うと、ヒルダははい、とにこやかに頷いているではないか。その笑みに強制されている、とかといった自分の意志ではない意思は含まれていなかった。
「ただ、やっぱり、学園とか社交界って面倒で、本人の意思関係なく、未婚の人に対して女性を押し付けてきたり、頼んでもいないのに押しかけてくる連中が多いから、その虫よけとしてヒルダにあえて『婚約者となるであろう女性』を演じてもらっていたんだ」
ルドルフの話のスケールに、アレックスは驚いていた。貴族の世界ではそういうことがあると聞いたことがあったが、いざ実際に聞いてみると、かなり生々しさが感じられた。
「ま、アレックスを巻き込むわけにはいかないから、アレックスが学園を卒業するまでは今の状況でいることになるけれど、よければ、僕の妻となってほしいんだ」
ルドルフの言葉にアレックスは迷った。確かにそういう事情なら、ヒルダを妻にしない理由もわかったし、昔から忘れられなかったという言葉も本当だろう。でも、何も自分でなくてもよいのではないのか、という思いもあった。
その感情を読み取ったのか、ルドルフはヒルダから一枚の紙を受け取り、アレックスに見せた。そして、彼が言った言葉にアレックスは本気で驚いた。
「レクス。君は信じたくないかもしれないけれど、君があの競技場で魔術を使った魔術を使えるものは一人しかいない」
ルドルフの言葉には何らかの事実が隠されていることに気付いた。
「君が使った魔術、というのは『《時》の魔術』」
それはあまり魔力がないアレックスでもその魔術のことは知っていた。それは―――――
「建国の魔術師である『アレックス・ムーブメント』の子孫のみが扱え、ほかの誰にも模倣することはできない魔術だ。だから、君は建国の魔術師である『アレックス・ムーブメント』の正当な子孫だということだ」
ルドルフの言葉にああ、だから自分を求めたのだとアレックスは思った。だが、ルドルフはさらに続けた。
「もちろん、それが分かる以前に僕は君を好きになった。だから、結婚したいとも言った。でも、君が建国の魔術師の子孫である、ということはいずれ分かってしまう。だから、利用される前に僕の、というかホイットニー公爵家が保護できる状態にしておきたくてね」
「ええ、そうですね。いくら文官が多い私の実家でも、もし、あなたの存在が公になれば、私を男装させてもあなたを家に迎え入れたいでしょうから」
ルドルフの言葉にヒルダも追随するように言った。アレックスは自分がとんでもない、立場なのだということを思い知らされた。だが、身寄りのない彼女には取るべき道は一つしか残されてなかった。
「わかりました」
ルドルフの言葉に頷いた。すると、ルドルフはにこやかにありがとう、とアレックスに抱き着いてきた。