父親になる時間
370話
リューニエから渡された二通目の封書には、師匠の文字でこう記されていた。
『占星術師ミーティが重ねて占ったところによれば、胎児が産道を通ることは叶わぬ、と出ておるそうじゃ。解釈は幾通りか考えられるが、普通の出産は無理かもしれぬ。至急戻ってくるがよい。これは大魔王としての命令じゃよ』
胎児が産道を……か。
「マクベスかカエサルかってとこだな……」
ふと視線を前に向けると、ミュレとリューニエが不安そうな顔をしている。
ミュレがおずおずと口を開く。
「先生、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。アイリアのお産が難しいことになりそうだという、それだけの連絡だよ」
用件を敢えて二通の手紙に分けて、俺が頭を冷やす時間を作ったのは師匠らしい。
二通目の手紙には、さらに占星術の理論などが記されていた。
ミーティの占星術は天文学と歴史学、それに数学と魔術が長年かけて複雑に融合したもので、かなりの精度が期待できるという。予言を得られないことは多いが、嘘の予言を引き当てる可能性は非常に低いそうだ。
理論的な記述を読んでいるうちに、俺は少し落ち着いてきた。覚悟も固まってくる。
師匠は本当に俺の性格をよくわかっているな……。
師の心配りに感謝しつつ、俺は深呼吸した。感情を極力排し、頭の中を整理する。
さて、どうしようか。
俺はまだ、クウォールの今後を決める諸侯会議が残っている。
ミラルディア人がそんな重要な会議に出席できて、しかもかなりの発言力を持っているというのは、非常に貴重な機会だ。
外交上の利益を考えれば、俺はここに残るべきだろう。
しかしさすがに妻のお産が危険なものになりそうだというときに、他のことを考える余裕はない。
会議を誰かに代わってもらえないだろうか。
でも誰に?
人狼隊に政治的な交渉事は任せられない。ベルーザ陸戦隊のグリズ隊長も政治家や外交官ではない。
文官は……。
するとパーカーがノックもせずに勝手に入ってきた。
「やあ、ミュレにリューニエ! 砂糖だらけの甘い国にようこそ! 鶏の砂肝食べる?」
「そこでなんで砂肝なんだよ。あと勝手に入ってくるな。それと俺の可愛い生徒たちに近寄るな、パーカーは教育に悪い」
忙しいので俺は兄弟子にまとめて文句を言う。
パーカーは俺を無視して、ポケットから氷砂糖の詰まった小袋を取り出した。
「二人とも使者の任、おつかれさま! これでも食べて休むといいよ。後の相談は僕とヴァイトでしておくからね! 君たちは大事な任務を果たしたよ」
ミュレたちも、パーカーが大魔王の高弟だというのは知っている。
そんな人物に褒められたのが嬉しいのか、子供らしさを隠しきれない様子で笑顔を浮かべた。
二人はパーカーに礼を言い、俺にも一礼して退出する。二人を案内したファーンも何か言いたげだったが、パーカーを見てそのまま退出した。
俺はパーカーと二人きりになり、師匠からの手紙を見せた。
パーカーは手紙を二通とも読み、小さくうなずく。
「魔王陛下の一大事だね。先生のおっしゃる通り、君は帰国したほうがいいよ」
「帰国しても、俺にできることなんかないぞ?」
俺は医者でも占星術師でもない。
戦うしか能のない男だ。
するとパーカーは俺に詰め寄る。
「僕は君の不在中、ファスリーン王妃の侍医団に加わっていた。お産にも立ち会ったよ。彼女は体が弱いから、何かあれば治療するつもりでね」
急に何だ?
不思議に思う俺に、パーカーはこう言う。
「お産は半日かかったけど、無事に男の子が産まれた。命の誕生の瞬間を初めて見たよ。それはとても荘厳で、ありふれていて、力強く、儚かった」
パーカーは溜息をつく仕草をする。あくまでも仕草だ。
彼はもう息を吐けない。
「僕は生前、死の恐怖から逃れることばかり考えていた。生に目を向ける余裕がなかったんだ。だからこうなってしまった」
彼が手袋を脱ぐと、そこにあるのは白い骨だけだ。
悲しいほどに白い。
「あの頃の僕が命の誕生について少しでも考えていれば、僕は死霊術を正しく極められたかもしれない」
「言いたいことは何となくわかるが、それが今の話題とどうつながるんだ?」
するとパーカーは人差し指の骨を左右に振った。
「命とは気高く厳かで、神聖で美しく、そしてとてもあっけなく消えてしまうものなんだよ。それは赤子だけじゃない」
彼がアイリアのことを言っているのはわかった。
パーカーは俺にもう一歩近づき、そして自身の顔にかけている幻術を解く。微笑む美形の顔は消え、表情を失った髑髏が残った。
「これは魔王軍とかミラルディアとか、そういう類の問題じゃない。君は公務を離れてアイリアの処に戻るべきだ」
「しかしまだ会議が……」
「もしその選択をすればきっと後悔するよ、僕のようにね」
虚ろな眼窩には、底無しの暗闇が広がっていた。
兄弟子が珍しく真剣な口調なので、俺も彼の言葉を重く受け止めざるを得ない。
彼はこう続ける。
「僕はあまり親交がないけど、占星術師ミーティの実力は聞いている。勇者の出現を予言し、君をフリーデンリヒター様の元に向かわせたのは彼女だ」
「ああ……そうだな。あの予言は的中していたし、おかげで俺たちは救われた」
あれがなければ、俺の知らないところでフリーデンリヒター様は勇者アーシェスに倒され、勇者は傷を癒していずれ俺の前に現れていただろう。
そうなっていたら勝ち目はなかったし、俺が今生きているはずはない。あの予言に救われた。
だから今回のミーティの予言も信用できる。
パーカーは俺の肩に、そっと骨の掌を置いた。
「君は魔王の副官として、もう十分にミラルディアとクウォールのために戦ったよ。ここからは父親になる時間だ」
「そうかもしれないが……」
「君は以前に、リューンハイト輝陽教司祭ユヒト殿を治療したことがあっただろう? 彼は死にかけていたが、君の治療で一命を取り留めた」
懐かしいな。
「君はおそらく、治療術師としても十分な力を持っている。ワジャル公アマニ殿の聖河病も癒した。君は名医だよ」
「名医ではないな……」
俺の医学知識なんて、前世の医療番組で仕入れた程度だぞ。
いや、この世界ならそれでもそれなりのものか。
パーカーは手袋をはめ、それから顔にもう一度幻術をかける。忌々しいハンサム面が戻ってきた。
「後の会議は僕に任せてくれよ。クウォール語にも慣れた。それにね」
彼はくるりと振り返ってドヤ顔になる。
「実は僕、ミラルディア統一前の南部太守の一族だったんだよ! れっきとした貴族さ! 身分の高い骨なんだ!」
「知ってる」
「知ってたの!?」
お前みたいな教養のある骨がいるか。
「重病になってから死霊術の研究に打ち込めた時点で、富裕層なのは確実だろ。平民には無理だ」
「それもそうだね。参ったね、こりゃ一本取られたよ! いる?」
パーカーが腕骨を一本外して笑う。
本当に鬱陶しいな、こいつ。
的確に兄貴風吹かせやがって。
俺はパーカーの腕骨をペン回しの要領でクルクル回してから、彼の腕に戻す。
「一本取られたのは俺のほうだ。ありがとう、パーカー」
「どういたしまして」
パーカーがニヤけながら恭しくお辞儀をする。
まったく鬱陶しい。
よし、帰ろう。
予言が何だ。
運命なんてものは、俺が都合のいいようにねじ曲げてやる。
今までだってそうしてきたんだ。
負けてたまるか。
「パーカー、会議のほうは任せた。……あ、そうだ」
「なんだい?」
「リューニエとミュレも会議に参加させよう。いい勉強になるし、あいつらは経験は浅いが優秀だ。きっとパーカーのいい歯止めになる」
「任せておいて『歯止め』って酷くない!?」
だって何かやらかしそうで怖いんだよ。
俺が二人を呼ぶと、なぜか三人やってきた。
「ヴァイト様、御機嫌うるわしゅう」
悪徳商人マオが、クウォール風に右膝をついて一礼してみせる。
「お前、来てたのか」
「大魔王様が、子供二人を他国への使者にするはずがないでしょう? 護衛の魔戦騎士たちと私をお付けになりましたよ」
なるほど。
俺はミュレとリューニエを手元に引き寄せると、マオに聞こえるようなひそひそ声で言った。
「いいか、あのおじさんは悪い人だからな。絶対に信用するなよ」
「聞こえるように言わないでもらえませんか? あと、おじさんじゃないです」
本当に教育に悪い連中だらけだな。
「ちょうどいい。マオ、諸侯の会議に出席しろ。外交官の肩書をやる」
「いいんですか?」
「パーカーは政治的な交渉もできるが、狡猾さが足りない。育ちがいいからな」
「えげつない交渉を私にやらせる気ですか……」
嫌そうな表情をしつつも、口元がほころんでいるマオ。
念を押しておこう。
「外交は綺麗事じゃないからな。ただし子供たちの目の前で、大人として恥ずかしいことはするなよ?」
「それ、両立できないんじゃありません?」
「両立させろ。交渉のお手本を見せてやれ」
できるだろ?
「クウォールとミラルディア、両方が大きな利益を得られるように頼む。うまくいったら、クウォールとの砂糖貿易に一枚噛ませてやる」
「やります」
キリッと表情を引き締めたマオを見て、俺はミュレとリューニエに言う。
「あれはああいう男だから信用するな。ただし十分な利益を与えたときだけは信用していいから、今回の会議では頼りにしろ」
「だから、聞こえるように言わないでもらえませんか?」
「言われなくなかったら、息を吐くように賄賂をばらまくのをやめるんだな」
行いを改めなかったら、いつか収監してやるからな。
「よし、後はパーカーが仕切ってくれ。俺は帰国の準備をする」
俺はみんなにそう告げると、荷造りを始めた。
待っててくれ、アイリア。
※次話「運命を変えるために」更新は12月23日(金)の予定です。