秘宝喰らいの人狼と、人狼喰らいの魔王
309話
俺はハッと我に返る。
ここは薄暗い下水道の中だ。俺は人狼のまま、アイリアを背後から抱きしめている。アイリアは意識を失っているようだ。
魔力のほとんどをアイリアに渡して、俺は元に戻っている。
元に戻っただけなのだが、あのあふれんばかりのパワーがなくなって少し体が重い。
そのとき俺は、妙なことに気付いた。
照明のない下水道のはずなのに、周囲が明るい。
空気も淀んでいない。
ふと真上を見上げると、下水道の天井に大穴が空いていた。
なんだあれは。
そのとき俺はようやく、アイリアの周囲に魔力の柱が生じていることに気付いた。
アイリアを抱いていたので気付くのが遅れたが、どうやらこいつが真上に大穴を開けた原因らしい。魔力の間欠泉だ。
よく無事だったな俺は。
それにしても、どうして魔力がこんなに噴き上げているのだろうか。
アイリアに渡したときにロスが生じて「こぼれた魔力」としても、ちょっと多すぎる。
すでに周囲にはとんでもない量の魔力が充満している。
暴発でもしたら危険な量だ。
俺はアイリアを抱いたまま、とにかく地上に避難することにした。何かあって崩落したら、アイリアごと生き埋めになってしまう。
ドラウライトの秘宝は少し離れた場所に転がっている。
こいつの始末だけつけておくか。
「お前、会話はできるのか?」
するとしばらくして、微かな声が聞こえてきた。
『現状においては可能だ』
空気ではなく魔力を震わせて、杯は俺に声を伝えている。
大気中の魔力濃度が異常だからこそできる方法だ。
俺は身動きできなくなっている杯を見下ろし、ニヤリと笑った。
「何かできるか?」
『不可能だ。周囲の魔力が、彼の死霊術を無効化している』
「彼?」
『彼だ』
誰だよ。
どちらにしても、この空間はアイリアの完全な支配下にある。
アイリア自身にその気がなくても、アイリア印の魔力であふれかえっているんだからな。
俺はこいつをどうしようかと考える。
こいつは道具だから、壊れるかスイッチをオフにされるかしないと止まらない。
「お前の停止方法を教えろ」
『存在しない。一度起動すれば決して止まらぬよう、彼は設定した』
だから誰なんだよ、彼ってのは。
「彼とは誰だ?」
『彼の名は秘匿されているため、彼にもわからない。彼を作った魔術師のことだ』
彼だらけでよくわからないが、俺はふと思い出した。
これは作られた知性にありがちな、彼我の混同だろう。意図的な欠陥だ。
ずっと前に師匠が言っていた。
ドラウライトの秘宝は逆に俺に質問を投げかけてきた。
『なぜ完成体が破壊行動を開始しないのか……。力を得たにも関わらず、次の段階への移行が行われなかった。検証が必要だ……』
「馬鹿だろお前」
俺は秘宝ではなく、秘宝を作った魔術師に対してそう言った。
「力を得た者全てが力に溺れる訳じゃない。お前たちがそういう連中ばかり選んで、そういう連中ばかり作り出してきたからだ」
何かに恨みを持つ者、現状に不満を持つ者。
そういう者が神にも等しい力を得たとしたら、確かにその恨みや不満を解決するために力を使うだろう。
俺も前世であんな力を得ていたら、ちょっと危なかったかもしれないな。
だがアイリアはそんな薄っぺらい人間じゃない。
忍耐と自制、そして受容と慈悲の人だ。
だから俺も安心して全てを委ねることができた。
秘宝には複雑な魔術紋が浮かび上がり、明滅を繰り返している。これがこいつの全て、プログラムと回路だ。
『手順を再検証……例外事項、四の二を適用……』
また何か企んでいるな。
心情的に許せないのもあるが、何よりこいつは危険すぎる。
ここで破壊しよう。
『人狼よ……人ならざるお前を支配できれば、次は違った結果になるかもしれぬ。彼の支配を受け入れるのだ……無限の力を得て、超越者となるのだ……』
魔力で作られた精神支配の「根」が、触手のように伸びてきた。
しかし周辺に満ちるアイリアの魔力によって、「根」はポロポロと崩れ落ちていく。
「愚か者が。魔王アイリア様の御前だぞ、『根』が高い」
リューンハイトは今、アイリアの放つ強大な魔力によって守護されている。
魔力を使って何かしようとしても、アイリアの意に沿わないものは全て打ち消されてしまうのだ。
古びた杯ひとつに何かができる訳もない。
『再定義……再検証……』
まだあきらめていない秘宝を見て、俺は思わず苦笑してしまった。
「検証するまでもなく、俺はさっき魔王化していただろう? だが俺は力など求めていないし、もう力を振るう相手もいない。無意味だ」
俺の言葉に、魔術紋が激しく明滅する。
人間でいえば、まばたきを繰り返しているような感じだろう。
『お前は、お前はいったい何者だ……? お前の行動様式は、彼に定義されている「人狼」とも「魔物」とも一致しない……』
そうだろうな。
でも俺の秘密は、お前なんかには教えてやらない。
「ただの副官だ」
俺はそう答えると、秘宝に浮かび上がっている魔術紋を手で拭った。
古代の叡智を詰め込んだ秘宝をただの骨董品に変えて、俺は溜息をつく。
「魔術師が魔術遺産を破壊してどうするんだよ……」
己の未熟さが恨めしい。
だが今は後悔するよりも、アイリアの救出が優先だ。
俺は意識を失ったままのアイリアを抱き抱えると、天井の大穴から地上に飛び出した。
外はいつの間にか夜になっている。
精神世界でかなり長時間過ごしていたようだ。
アイリアは今も魔力を放ち続けていて、それがリューンハイト全域に降り注いでいた。輝く粒子がゆっくりと雪のように舞い落ちてくる。
魔力の輝きに触れると疲労が消え、不思議と穏やかな気持ちになる。
こんな魔法も現象も、俺は見たことがない。
「ん?」
そのとき、俺はアイリアが一瞬だけ目を開けたことに気付いた。
いつの間にか、意識を取り戻していたようだ。
彼女は即座に目を閉じてしまったが、俺は構わずに事情を尋ねる。
「アイリア殿、起きているのならお話をうかがいたいのだが……」
「は、はい」
ぱちりと目が開いた。
アイリアと目が合うと、彼女は真っ赤になって目をそらした。
匂いや仕草からみて、精神支配の影響はなさそうだ。
アイリアは立ち上がると、周囲を見回した。
「これは私がやっているのですか?」
「たぶんな。貴殿から魔力が流れ出しているし、これほど大量の魔力を持っている者は貴殿しかいない」
歴史を変えられるほどの力を手にしたとき、それをどう使うか。
その答えは人それぞれだ。
魔王フリーデンリヒターは竜人族をはじめとする魔族たちを守ろうと、人間たちと戦って生存圏を確立させようとした。
勇者アーシェスは大切な人を失った怒りから、魔王を倒すことを決意した。
俺は大切なアイリアを取り戻すために。
そしてアイリアは……たぶん、リューンハイトを守ろうとしているんだろう。
俺はそこまで考えて、アイリアに笑いかける。
「これが魔王となった貴殿の答えという訳か、アイリア殿」
アイリアはしばらく考えた後、こう答えた。
「ええ、これは私には過ぎた力だと思いました。必要ない、とも」
「なるほどな」
俺はそれ以上尋ねるのをやめて、夜空を見上げた。
満天の星空から、キラキラと輝く光が降ってくる。星が降り注いでいるようだ。
そして街全体が柔らかな光に包まれている。
不思議で、そしてとても美しい光景だった。
「美しいな」
「ええ、こんな幻想的な光景を生み出しているのが私だというのは、ちょっと不思議な気分ですが……」
アイリアが気の抜けた顔で空を見上げているので、俺はちょっとからかってみたくなる。
「景色も美しいが、俺が言いたいのは貴殿の心の美しさだよ」
「ひゃっ!?」
びっくりしたように俺を振り返るアイリアに、俺は胸に手を当てて笑う。
「貴殿は自制と忍耐、そして受容と慈悲の人だ。心から尊敬する」
「そんな大したものではありませんから……」
もじもじしているアイリアを見て、俺は今が最大の好機だと判断した。
俺はアイリアの手を取り、顔を近づける。
「貴殿と共に生き、そして共に死ねる人生なら、俺は何の悔いもない。ええと、つまりだな……」
この人が俺の元から奪われたとき、俺は本当に心乱れて苦しかった。
つまり俺は、この人を愛している。
そして今こそがこの戦いの勝機だ。
突撃しなくては。
だが突撃方法がよくわからない。
「俺は、その……なんと言えばいいのかわからないのだが……」
さっそくグダグダだ。
変に格好つけようとするから、よけいにみっともなくなるんだ。
恥じらいを捨てろ俺。
するとアイリアはクスッと笑い、俺を見上げてきた。
「ヴァイト殿。私は今、魔王と呼べるでしょうか?」
「貴殿は紛れもなく魔王だよ、アイリア殿」
これだけの奇跡を起こせるのは超越者だけだ。
でも今はそんなことはいいので、俺の拙い告白を聞いてください。
アイリアは俺の手をきゅっと握り返し、笑顔のままこう言う。
「ではもれなく、『魔王の副官』がついてくるのですよね?」
「あ、ああ……そうだな」
「誠実で責任感が強く、慢心とも挫折とも無縁で、賢明で穏和、しかも眉目秀麗の……」
一部事実と異なる表現があるが、もしかして俺のことなのか?
「でも誠実であろうとしてできない約束をしてしまったり、恋愛から敢えて遠ざかろうとしたりする、そういう副官ですね?」
やっぱりそれ、俺のことだよな?
「そうだな……そういう副官だと思う、たぶんな」
俺がうなずくと、アイリアは悪戯を成功させた悪ガキのような笑顔を浮かべた。
すごくいい笑顔だった。
「私は大変悪い魔王ですので、そんな素敵な副官は絶対に逃がしません。覚悟してくださいね、ヴァイト殿?」
これはもしかして、俺の意を汲んで先回りしてくれたのか。
素晴らしいフォローです、魔王アイリア様。
俺は完全に敗北を悟ってうなずく。
「覚悟はできているとも。これからの人生を貴殿に捧げることを誓う。俺はあなたのものだ、アイリア」
「ありがとうございます、ヴァイト殿。……それではですね、早速お願いがあるのですが」
「何かな?」
「目を閉じていただけませんか?」
「こうか?」
思わず目を閉じた俺の唇に、柔らかいものが押しつけられた。
反射的に心拍数が跳ね上がったが、これがキスだと正確に理解するのには数秒かかった。
アイリアの表情が見たいのだが、こういうときには目を開けてもいいのだろうか。
肩を抱いてもいいのか。
こういうのは魔術書にも参考書にも書いてなかったぞ。
だが棒立ちという訳にもいかないので、俺はアイリアの肩を抱く。アイリアも腕を回してきて、ぎゅっと抱きつかれた。
それからどれぐらいキスしていたのかわからないが、アイリアの唇がスッと離れた。
俺が目を開けると、瞳を潤ませたアイリアが至近距離から俺を見つめていた。
「嬉しいです、ヴァイト殿」
「……俺もだ」
アイリアは俺にしがみついたまま、ちょっと不満そうな顔をする。
「ですがヴァイト殿、できれば人の姿でも接吻させて頂けませんか?」
「え?……あっ!?」
よく考えたら、俺はずっと人狼の姿のままだった。
「すまない、ちょっと待ってくれ」
俺は慌てて変身を解く。
安物を着ていたせいで服はボロボロだが、緊急時なので仕方ない。
俺は人間に戻った瞬間、また熱烈なキスをされる。
人狼の力を失った俺はアイリアの勢いを支えきれず、瓦礫の上に尻餅をついた。
だが大変悪い魔王様であるアイリアは、それでも俺を離してくれなかった。
※次回更新「輝く夜に」は8月5日(金)の予定です(5巻書籍化作業開始のため、予定が変更になる可能性があります)。
※サブタイトルを変更しました。