「黒狼卿の不在、魔人公の憂鬱」
296話「黒狼卿の不在、魔人公の憂鬱」
「アイリア様、アイリア様?」
「あっ、はい。大丈夫です」
私は慌てて視線を戻し、カイト殿の報告に耳を傾ける。
「ボルツ鉱山の件、古参の鉱夫たちが先の戦で全滅していて、坑道の詳細がわからなくなっているのですよね? 報告を続けてください」
また考え事をしていた。
調査隊に同行していたカイト殿が説明する間、私はまた考え込む。
あの方が夏にリューンハイトを去って月日が流れ、この街にもそろそろ秋が訪れようとしていた。
魔都は今日も活気にあふれ、平和だ。
国内外の大きな問題は全て解決しているので、人々も不安になる要素がない。
かつては交易路を脅かしていた魔族たちが、今では交易路を巡回して警備してくれる。獣も魔物も近づけない。
もちろん種族間の揉め事は避けようもなかったが、それも魔族の指導者たちがうまく折り合いをつけてくれて、大事には至っていない。
それもこれも、あの方がうまく調整してくれたおかげだ。
そこまで考えたところで、私はまたカイト殿を見た。彼が困ったような顔をして、報告を中断してしまったからだ。
「どうかしましたか?」
「あの、アイリア様? ヴァイトさんがいなくなってから、上の空の御様子ですが……」
鋭い指摘に、私はギクリとする。
慌てた私は書類に大急ぎで命令書をしたため、サインをした。
「ボルツ鉱山の坑道、採掘用以外の不自然なものがいくつか見つかっているのですよね? 第二次調査の準備をしてください。これが命令書です」
「は、はい。きちんと聞いておられたのですね……上の空などと申し上げてしまい、大変失礼いたしました! すみません!」
「いえ、あなたの仰る通り上の空でした。以後気をつけます」
今や私は大きな責任のある立場だ。こんなことではいけない。
今の私は、集まってくる報告を処理するだけの静かな存在だ。
大きな決断を迫られることも、苦しい状況を堪え忍ぶこともない。
全てが順調で、理想的な流れで物事が進んでいく。
穏やかな川の流れを見ているようだ。
その後、私は雑念を振り払って書類を全て片づけていく。
全て終わったところで、ふと窓の外を見た。太陽の傾き具合をみると、まだ正午にもなっていない。
午後からは散歩がてら、新市街の視察に出かけてみようか。
「でも、あの方がおられないのですよね……」
つまらない。
そして、寂しい。
こんなことなら、あのときにリューンハイトに留まるよう、お願いすれば良かったかもしれない。
以前、あの方と約束を交わした。
何でもひとつ、私の望みを叶えると。
あの方は誠実だから、私が望めば決して旅立たなかっただろう。
でも私は、あの方を束縛してしまうことを恐れた。
あの方は優しいから、私の望みを際限なく聞いてくれるだろう。
だがそれは、あの方を困らせることになる。
できるだけ自由に、そして気ままに過ごしてほしい。
それなのに私は今、あのときの決断を後悔している。
本当は束縛したいし、独占もしたい。
あの方は誰にでも優しいから好き。
あの方は誰にでも優しいから嫌い。
私はなんという愚かで浅ましい人間なのだろう。
あの方のおかげで、ロルムンドやワの国との関係もすっかり安定している。
ロルムンドからはエレオラ新皇帝の親書が届いた。政情が安定してきたので、冬になる前にアシュレイ先帝を特使としてこちらに赴任させるという。
先帝殿はひとまずウォーロイ殿が建設中の街に赴き、農業指導をしてくれるらしい。
アシュレイ派やウォーロイ派の貴族たちがミラルディアへの移住を求めているので、それも引き連れてくるという。
ワの国は相変わらず、あの方に対して妙に親切だ。評議会ではなく、ヴァイト殿個人に対する遠慮があるようだった。
あの方はどうやら、多聞院に対して何か大きな貸しを作ってきたように思える。それが何かはわからない。
おかげで外交交渉や貿易は非常に円滑で、私個人のワに対する印象は決して悪くない。
そして国内も平穏そのものだ。
平穏すぎて、確かにこれではあの方には退屈だろう。
あの方は平穏を愛しているが、自分の作り出した平穏には安住できない性格をしている。次にやるべきことを考え、すぐに実行に移してしまうからだ。
私もそういうところがあるので、なんとなく親近感が湧く。
……だから、ずっと一緒に働けたら、とてもいいと思う。
「今頃はまた、何かと戦っておられるのでしょうね……」
最近、独り言ばかりだ。
誰かに聞かれたら困ると思いつつも、唇から勝手に言葉が漏れてしまう。
溜息をついて、私は立ち上がった。
ちゃんと仕事をしよう。あの方が戻ってきたときに、褒めてもらうためにも。
街に出た私の目に入るのは、改装された劇場の看板だ。「黒狼卿東方見聞録」という文字の下に、夜明けを見つめる黒狼卿の右横顔が描かれている。
黒狼卿の背中側はまだ夜で、そちらには狼の左横顔が描かれていた。
年頃の少女たちが足を止め、看板を見上げている。
「ヴァイト様、かっこいいよね!」
「これ、本物のヴァイト様の顔だよね。いいよね……優しそうだけど、キリッとしてて」
「でも怒るとすごく怖いんだって。私、ヴァイト様の怒った顔見てみたいなあ」
「きっとすごくかっこいいよね」
私も数年前は、あんな感じだったと思う。父が亡くなるまでは、英雄叙事詩や恋物語に憧れる、普通の女の子だった。
だから彼女たちの気持ちはわかる。
ただ一言だけ訂正するなら、あの方が本当に怒ったところを私や周囲の者は一度も見たことがない。
だからその噂は、真偽不明の不確かなものだ。
少女たちは嬉しそうにはしゃぎながら、まだ話している。
「ねえねえ、またお給金入ったら見にいこうよ!」
「そうだね、黒狼卿劇はなんでか知らないけど、妙に安いしね……いい席は高いけどね」
フォルネ殿の戦略で、あの劇には工芸都市ヴィエラから潤沢な資金が投入されている。
フォルネ殿は「こういうお金はね、無理矢理むしり取るもんじゃないの。払いたくなる気にさせるのよ」と常々言っている。
「私、黒狼卿の杯を買うんだ! あれ、劇で使ってるのと全く同じなんだって!」
「ほんと!? じゃあ白虎公と杯を交わしたときのアレなの!? アレ買えるの!?」
「そうだよ? そんなに高くないし、私もあれでヴァイト様と杯を交わすの……」
「そ、そうかあ、白虎公と交わしたときの杯かあ……。よし、買おう」
少女たちはとても楽しそうだ。
なるほど、確かに進んでお金を払おうという心境になっている。その後の会話を聞いている限りでは、もはやお金を投じること自体が歓びになっているようだった。
どうやらフォルネ殿の策略は、うまくいっているようだ。
全てが順調で、むしろ不安になるほどに穏やかだった。
いつも身辺の護衛をしてくれているファーン殿が、今日も隣で苦笑している。
「ヴァイトくん、すっかり人間たちの心をつかんじゃったね。どんな魔法を使ったのかな?」
私は苦笑して、長身の彼女を見上げる。
「魔法ではありませんよ、ファーン殿。人間と関わるときに最も大事で、最も基本的なことを、あの方は忠実に守り続けられた。その結果です」
「それがちょっと難しいのよね……。人間の考え方って複雑というか、理屈としてはなんとなくわかるんだけど、実践は難しいというか……」
ファーン殿は困ったように笑ってから、ふと私に笑顔を近づけてくる。
「心をつかんじゃってるといえば、アイリアさんもそうなんでしょ?」
「えっ?」
見透かされてしまっている。
「私はもちろん、ヴァイト殿を良き仲間、共に歩む戦友として心から信頼しています」
とっさに出た言葉だが、この手の模範解答なら慣れたものだ。
太守襲名からリューンハイトが魔王軍に占領されるまで、私は模範解答以外許されない生活をずっと続けていたのだから。
しかしファーン殿は苦笑して、手をひらひら振ってみせた。
「ごめんごめん、そっちじゃなくて『アイリアさんが、ヴァイトくんの心をつかんじゃってる』って話よ」
不意打ちすぎて、私はドキリとしてしまう。そっちですか?
「まさか……」
そう返すのが精一杯だ。
ファーン殿はニヤリと笑い、こう返す。
「だってヴァイトくん、アイリアさんに嫌われるのが何よりも怖いみたいだもの。遠征中はもうずーっと『アイリア殿に怒られる』『アイリア殿にこれ以上迷惑はかけられない』って、そればっかりなんだから」
「本当ですか?」
「うん、本当。ちょっと妬ける」
拗ねたファーン殿の顔は、ちっちゃな女の子のようだった。
私たちは並んで歩きながら、しばらくあの方の話で盛り上がった。
それからどちらともなく立ち止まり、互いに顔を見合わせる。
「どこで何してるんでしょうね、ヴァイトくん」
「どこで何をしておられるのでしょうね……」
リューンハイトの大通りは活気に満ちていたが、私たちは顔を見合わせたまま、溜息をついた。
「ファーン殿、何か甘いものでも食べていきましょうか」
「えっ、いいの? アイリアさん、視察は?」
「こんな憂鬱そうな顔で、街の方と話はできませんから。視察の前に景気付けです」
「じゃあ私、人狼隊女子に人気のお店教えてあげる! 小さなお店だから、本当は秘密にしておきたかったんだけどね。ほら、こっちこっち」
「早いですよ、ファーン殿!?」
ファーン殿に手を引かれて歩きながら、私は少しだけ元気になった気がしていた。
だから私が元気なうちに帰ってきてくださいね、ヴァイト殿。
※次回「カイトの調査任務(仮)」の更新は7月6日(水)です。