ただの副官(前編)
294話
ミラルディアにも、本格的な夏が訪れようとしていた。
退屈だ。
俺はぼんやりと窓の外を眺める。
「あれ、ヴァイトさん? 書類終わりました?」
カイトが首を傾げたので、俺は書類の山を示した。
「全部終わった。ほとんど手を加えることがない」
「みんな優秀ですからね」
「まったくだ」
評議会の連中は行政手腕に長けた抜け目のない曲者ぞろい、魔王軍の軍人たちは謹厳実直な叩き上げ、技官たちは研究熱心で誠実とくれば、俺みたいな凡人に出る幕はない。
「アソンの秘宝も、旧市街に保管庫を作ったしなあ」
骸骨兵と人狼隊が常に張り付いて警備しているので、盗まれる心配はほとんどない。フミノたち多聞院観星衆も警備に就いている。
「師匠は?」
「ミラルディアに生息する危険な魔物の分布図を作っておられます。駆除や防護の計画に役立てたいとのことでした」
「そうか……さすがだな」
師匠は学者だから、学者として貢献できることをしようということなのだろう。
俺は追加の書類にざっと目を通して、どれも問題なかったので裁可のサインをする。最近は俺のとこに回ってくるまでに、だいたい完璧に仕上がってくるようになっている。
「暇だな」
「ヴァイトさん、書類仕事めちゃくちゃ早いですよね。どこで覚えたんです?」
前世だ。
俺はその言葉を飲み込み、苦笑してみせる。
「修行時代、膨大な量の書物を相手にしたからな。カイトもそうだろう?」
「いや、俺はアレですから」
「ああそうか、元老院の魔法学校か……」
俺とはかなり違う修行時代を送っていたようだ。
まあいい、そろそろ正午だ。
俺は立ち上がると、上着を取った。もう夏だが、立場上あんまりラフな格好もできない。魔王の副官だからな。中ボス格だ。
「カイト、昼飯にしよう。午後から輝陽教神殿で宗教指導者の合同会議があるから、それまでに済ませてしまいたい。近くの屋台で買ってきて、ここで食おう」
「あれ、いいんですか? 外で食べるの好きですよね?」
「最近はどこに行っても、市民が珍しそうに見るからな」
まるで芸能人扱いだ。
警備の問題もあるし、店側も困るだろうからあまり行かないことにしている。
そして俺とカイトは、大通りにある串焼き屋台に来ていた。
リューンハイトを占領してすぐに、醤油ダレの匂いに誘われて発見した店だ。鶏や川魚を甘い醤油ダレで香ばしく焼いてくれる。
最近は豚や羊も焼くようになり、人気の名店として知られていた。
「ヴァイトさん、あの黒い調味料好きですよね」
「いい香りだろ?」
「まあ確かに」
ちょうど昼飯時で行列ができていたので、俺は最後尾に並ぶ。
南部民はあまり行列に慣れていない。油断していると行列がふたつできたりするので注意が必要だ。
だが俺たちが並んだ瞬間、そこにいた全員が「えっ!?」という感じで振り返った。
なんか変なことしたかな。
だが俺が首を傾げるより早く、行列がザザーッと左右に分かれてしまう。海を割る予言者のようだ。
「あっ、ヴァイトさん!? 先にどうぞ」
「ヴァイト様、仕事忙しいんでしょ? 並ぶ時間がもったいないわよ」
市民たちが口々に言う。
忙しいどころか、最近暇で困ってるぐらいなんだが。
そして屋台の親父がニコニコ笑いながら、俺を手招きした。
「ヴァイト様、ヴァイト様! 今ちょうど焼き上がったところですよ! お代はいいから、持ってってください!」
「どういうことだ?」
俺が近づくと、店主は羊モモや豚バラの串を大量に積み上げながら、こう答える。
「ヴァイト様が御贔屓にしてくださるおかげで評判になって、ウチは大繁盛なんですよ! これは御礼です、ささどうぞ!」
「いや、代金は払う……」
「次からでいいですよ! 今日は私のおごりです!」
困ったな。
それに俺は、こういう特別扱いは全然嬉しくないぞ。
普通に並んで、普通に買いたいだけなのに。
その後、押し問答の末になんとか代金を払うことができたが、俺は宴会ができるぐらいの大量の串焼きを持って帰ることになった。
「どうみても純粋な厚意でしたし、もらっとけばいいじゃないですか」
カイトが言うが、俺は首を横に振る。
「そういう訳にはいかないんだよ。魔王陛下の副官が、市民に個人的な借りを作るのは良くない。腐敗の温床になる」
「ヴァイトさんを賄賂で買収できるなんて思ってるバカは、たぶん一人もいないと思いますけど……」
それでもダメなんだよ。
最近、こういうことが多かった。
どうも今のリューンハイトでは、俺を個人崇拝するような空気が感じられる。
そのことを会議の後でユヒト大司祭に相談すると、彼は微笑みながらうなずく。
「それは仕方のないことでしょう。ヴァイト殿はリューンハイトの発展と安全に尽くし、多大な利益をもたらしました。人々が感謝し、尊敬するのは当然のことです」
「ユヒト殿に言われると、妙な気分なのだが……」
一度は本気で敵対したよね、俺たち。
「ですが、ヴァイト殿が居心地の悪い思いをしておられるであろうことも、薄々感じてはおりました」
「ええ、正直ここまで持ち上げられるとやりづらい。ここしばらくは留守にしていたのに、なぜこのようなことに?」
「黒狼卿の劇の影響も、少なからずありましょうな。あの劇は私も孫と一緒に何度も観ましたが、ヴァイト殿への好意を高めるのには十分です」
あれか。
ていうか、孫と一緒に観劇とかするんですね、ユヒト大司祭。
ユヒト大司祭から聞いた話をまとめると、俺が留守にしている間に「魔王の副官ヴァイト」の虚像ばかりが膨らんでしまったらしい。
全部フォルネのせいだ。あのクソオカマ太守。
ユヒト大司祭は神殿の窓の外に目をやり、楽しげに笑う。
「もっとも私などに言わせれば、あの程度の劇ではヴァイト殿の真価を半分も表現できておりません。まだまだこれからです」
「ユヒト殿、悪い冗談はやめていただきたい」
「冗談ではありません。あなたの真の価値は、牙でも魔法でもありません」
ユヒト大司祭は髭をなでながら、穏やかに続ける。
「あなたは征服者であったのに一度も暴虐を行わず、私利私欲とも無縁です。権力も武力も、何ひとつ自分のために使おうとしない」
「当然だろう?」
するとユヒト大司祭は目を細めて、ますます穏やかな口調になった。
「さよう、当然のことに過ぎません。ですが、その当然のことをできる者がどれだけいるか。お考えになればわかりましょう」
「そうだな……」
ミラルディアでは賄賂は別に悪事ではない。程度の問題として、多少の便宜を図ることは許されている。謝礼や寄付と、賄賂との区別が難しいからだ。
俺は魔族だから人間の慣習など知らぬといわんばかりに、そういうものは全部断っている。
無用の借りを作りたくない。作れば必ず、俺は判断を誤る。
自分がその程度の人間だというのは、俺が一番よく知っているつもりだ。
さらにユヒト大司祭は、こうも言った。
「金銀、名誉、地位、権力。あなたは何にも興味を示さない。ただ無心に働くだけです。それも他者への義務感や使命感で働いておられる。違いますかな?」
「あまり考えたことはないが、仰る通りかもしれない」
魔族に生まれた身としては、魔族の安泰を確保しないと生きていけなかったから、とにかく必死だった。
飢えや病気、敵の襲撃に怯えることのない日常が欲しかった。
あとできれば、もう少し前世に近い生活水準が欲しかった。それだけだ。
「ヴァイト殿。あなたのそういう姿は、ちゃんと皆が見ております。人はそれほど愚かではありません」
「そうか……そうだな」
変に崇拝されたり優遇されたりするのは嫌だが、そう言ってもらえるのはとても嬉しい。努力を認めてもらえるから俺も頑張れる。
でもやっぱり、ここまで持ち上げられるのは俺自身が納得できない。
俺が偉い訳じゃないんだよ。
先王様の築いた魔王軍の統率力と、師匠の優れた指導力、そして俺が生まれ持っている人狼の力。
それに上司から同僚、部下、あるいは敵に至るまで、人間関係全てが理想的な環境にあった。
どれも全部、他から与えられたものだ。
俺はただ、その幸運に乗っかったに過ぎない。
俺以外の誰かが「人狼のヴァイト」として転生しても、どうせこうなっていたに決まっている。
逆にもし俺がリューンハイト市民に転生していたら、何もできずに終わっていただろう。
だからどうしても、俺は自分を誇る気にはなれなかった。
だがこればっかりは、さすがのユヒト大司祭にも理解してもらえないだろうな……。
「ありがとう、ユヒト殿。貴殿とこんな話ができるというだけでも、私は幸せ者だ」
ユヒト大司祭は俺の顔をじっと見ていたが、やがて小さく溜息をついた。
「あまりお力になれなかったようですな……。あなたの苦悩は、どこか遠くにあるようです」
ギクリとする俺。ユヒト大司祭、何かに気づきかけている。
さすがにミラルディア南部の輝陽教徒全てを束ねる大司祭、恐ろしい洞察力だ。
「……いつかまた、そのことも相談させていただく」
いつかね。
俺は太守の館への帰り道、黒狼卿劇の開演を待つ人々の姿を見る。結構な人だかりだ。
あそこに近づくと絶対に面倒なことになるぞ。俺はそそくさと道を変え、裏通りに向かう。
なんで俺、ホームグラウンドでこんなに窮屈な思いをしてるんだろう。
「あっ、こくろーきょーだ!」
「ほんもの!? わぁ、ほんものだ!」
「へんしんして! ヴァイトさま、へんしんして! がおーって!」
路地裏で遊んでいた子供たちが遊びを中断し、わらわら寄ってくる。
「ここで変身するとみんながびっくりしちゃうから、また今度な」
子供たちの声に笑顔で手を振りながら、俺はどこを通れば静かに帰れるのだろうかと考えていた。
※次回「ただの副官(後編)」の更新は、7月1日(金)です。
※長くなったので前後編に分けました。