「ディリエ皇女の渇望」
244話(ディリエ皇女の渇望)
私は新皇帝である弟と二人で、さっきからあまり発展性のない会話を続けていた。
「シャリエ様も言っておられるので、結婚式はしばらく待ちます。それまでにゆっくり考えてくださいな」
「ゆっくり考えたところで、結論は変わりませんよ」
アシュレイは険しい顔をして、額に手を当てる。
あの仕草、父上にそっくりだわ。
私の出した要求を、アシュレイが承知するはずがない。
ボリシェヴィキ公シャリエ様を後見人とするなど、常識外れもいいところだ。弟は立派に一人前で、戴冠式も一人で終えている。後見人など必要ない。
そんなことは百も承知で、私は弟に重ねて要求を突きつける。
「あなたは今、廷臣たちの信頼を失いかけているのでしょう? シャリエ様は北ロルムンドの実力者です。きっとお役に立ちますよ」
だがもちろん、アシュレイは首を横に振る。
「事はそう簡単ではないのです、姉上」
ええ、わかっていますとも。
私は政治などまるきりの素人だけど、シャリエ様が宮中でどのように言われているかは知っているわ。
『卑劣な裏切り者』
『北ロルムンドの狐』
『腹立たしい道化』
『恥知らずの佞臣』
シャリエ様は「どれも正当な評価ですね」と笑っていらしたけれど、目はとても醒めておいでだった。
あのまなざしには覚えがある。
叔父上が政敵を排除するときの目。
相手に何の価値も見いだしていない、冷たいまなざし。
でも、本当に恥知らずの佞臣は誰なのかしら。
ドニエスクの反乱を鎮圧したのは、帝位争いとはまるで無関係なエレオラ殿。そして異国から来た謎めいた将軍、ヴァイト殿。
アシュレイを支えるべき貴族たちは、その多くが戦おうともしなかった。
その立派な剣は飾りなの?
ドニエスク家の殿方は皆、聡明で責任感の強い立派な方々。
亡くなった父にしても波風を立てるのは大嫌いだったし、アシュレイもそう。
本来なら争いなど起きるはずもないのに、気がつけば戦と陰謀ばかり。
結局、何も変わらない。
この退屈で陰鬱な帝国は、これからもずっと……いえ、ますます退屈で陰鬱になっていくに違いない。
「ねえ、アシュレイ」
「なんですか、姉上?」
「父上は幸せだったのかしら?」
アシュレイはいつものように、軽く溜息をつく。
「また唐突になんですか、いきなり。今はボリシェヴィキ公の話をしていたのでは?」
「そうだったかしら?」
父上は生前、私とアシュレイのためにシュヴェーリン朝を守ろうと苦心なさっていたわ。
やりたいことも色々おありだったでしょうに、叔父上と謀って無能者のふりを続けておられた。
実際どれほどの手腕をお持ちだったのかはわかりませんけど、少なくともその生涯は幸福ではなかったように思えるわ。
私は私で、政略結婚のためにずっと独身のまま。
良い縁談がいくつもあったのに、全部勝手に断られてしまった。
できれば子供は三人、いえ四人ぐらい欲しい。二人だとやっぱり寂しいわ。
早く自分の家庭を持ちたいの。
でもそう考えたとき、私はいつも「冷たいミーチャ」の話を思い出す。
あの忌まわしい昔話を。
「父上はいつも苦労なさっていたわ。次はあなたが苦労する番よ、アシュレイ」
「覚悟はしています」
「そしてその次は、まだ見ぬあなたの子供たちが」
「……ええ、そうなるでしょう」
納得がいかない。
「この帝国は、忍耐と犠牲で作られた鎖のようね」
私は宝石箱から銀の細い鎖を取り出した。
「この環のひとつひとつが、歴代の皇帝。みんな自分の子供のためを思って、我が身を犠牲にしてきたの。そしてその子供に、自分の負った重荷を負わせてきたわ」
「そうでもしないと、この帝国を維持できませんでしたから……」
やっぱり納得できないわ。
私は銀の鎖を宝石箱に戻し、弟を見つめる。
「我が子が自分の親のように苦しむのを、あなたは受け入れるつもりなの?」
「それが帝室に生まれた者の定めですよ、姉上」
「そうね。あなたは正しいわ、アシュレイ」
やはりこの子には、私の価値観は理解してもらえないようね。
残念だけど、それは仕方ない。お互いに大人なのですから。
私は姉弟の会話を切り上げ、ボリシェヴィキ公の手先として陛下に話しかける。
「でも陛下、シャリエ様ならきっと、この苦しみの連鎖をほぐしてくださいますわ」
「私には、とてもそうは思えませんが……」
「今はそう思われるのも無理はありません。今すぐにという話でもありませんし、結婚式の後でゆっくり御相談させてくださいな」
私の役目は、帝国の全ての視線を結婚式に釘付けにしておくこと。
シャリエ様は、私にそれだけをお望みだから。
だから私は道化になって、舞台の上で精一杯転げ回るの。私は政治も戦もできないのですから、これぐらいはやってみせないとね。
後の世の人は、私をなんと評するのかしら。
佞臣に踊らされた哀れな皇女? それとも、不心得で身勝手な愚か者? あるいは、弟を罠に陥れた非道な女かしら?
なんとでもおっしゃいなさいな。
私は今、とても楽しいのだから。
「シャリエ様は、陛下が思っておられるような御方ではありませんよ。お許しがあれば、お連れしてきますのに」
「今は微妙な時期ですから、あまりお会いする訳にはいかないのですよ。当面は少し距離を置かせてください」
あらあら、用心深いこと。
でもこれで予定通り。
後はシャリエ様が野望のままに何もかも壊してくださるわ。
きっと私もろともね。
「わかりました。陛下がそうおっしゃるのなら、無理強いはいたしません。……ごきげんよう、陛下」
私はにっこり微笑み、陛下との会話を終わらせることにした。
もうすぐ新月。北天の極星が最も明るく輝く神聖な夜。
夜のお祈りも念入りにしないと、ね?
※明日3月24日(木)は更新定休日です。
※次回予告:第245話は「欺瞞の反乱」です。