夜の太陽
243話
日没後にエレオラ邸に戻った俺たちは、すぐにザナワー大司祭に連絡を取った。
ザナワー大司祭は、用件が極めて機密性の高いものだと気づいたらしい。
彼は帝都担当の最高幹部、式典庁のクシュマー枢機卿を伴ってエレオラ邸にやってきた。
戴冠式でアシュレイ帝に渋い汁を飲ませていた女性だ。
「本来ならば、トゥラーヤ殿が適任なのでしょうが……」
クシュマー枢機卿は微笑みながら、優雅な仕草で俺とエレオラを見つめる。
「トゥラーヤ殿はウィロン大書庫から離れられませんので、私が代わりに用向きをお伺いしましょう」
エレオラがうなずく。
「クシュマー殿は帝室の担当者でもあります。今回の件は、ぜひ貴殿に御相談させていただきたい」
俺はザナワー大司祭と一緒に、二人が会話する様子をぼんやりと眺めている。後は偉い人たちに任せておこう。
エレオラはクシュマー枢機卿に、巡礼者の中にボリシェヴィキ公の兵が紛れている可能性を指摘した。
するとクシュマー枢機卿は慌てた様子もなく、淡々とうなずく。
「仕方のない人ですね。せっかく波風を立てないようにしておりますのに、先方様から波乱を起こそうというのですから」
エレオラはうなずき、そして少し気の毒そうに溜息をつく。
「彼は現状に満足していないようだからな。クシュマー殿、貴殿は彼にとって怨敵も同然です。身辺に警戒なさってください」
「はい、そのようにいたします」
にこにこ笑うクシュマー枢機卿。
もしかして枢機卿たちって、みんなこんなに肝が据わってるのか。
さすが渋汁原液一気飲み軍団は違うな。
クシュマー枢機卿は白湯を飲みながら、しみじみとした口調で言う。
「そうそう、お伝えしておかねばなりません。ボリシェヴィキ公とディリエ様の結婚式は、当面延期になりました」
エレオラが口添えしていたヤツだな。
「この時期の領主様たちは、農地の視察などに忙しいですからね。少し落ち着くまで待つということで、ボリシェヴィキ公もすんなりと承諾なさいましたよ」
他人事のつもりだった俺は思わず身を乗り出し、クシュマー枢機卿に訊ねた。
「すんなり、ですか?」
「ええ。他にも色々と申し入れをしましたが、すべて快諾されて……少し意外でしたね」
クシュマー枢機卿も、ボリシェヴィキ公が早く結婚したがっていると思っていたようだ。
俺も「ボリシェヴィキ公が結婚式当日に何かやらかすのではないか」と警戒していたから、ちょっと意外だ。
「妙だな……。兵の潜伏が長期化すると、ボリシェヴィキ公の危険は高まる。いつ露見するかわからんし、兵の士気や補給にも問題が生じるだろう。行動が噛み合っていないように見える」
エレオラが考え込んだので、俺もうなずいた。
「俺も同感だ。これはどうやら、結婚式当日に挙兵するのではなさそうだな」
無数にあった可能性が、少しずつ減っていく。
エレオラは俺を見て言う。
「戦争も謀略も、基本は騙し合いだ。虚実を使いこなし、敵に誤った判断をさせた方が勝つ」
前世の偉い人が言った「兵は詭道なり」というヤツか。
俺が納得していると、エレオラはこう続けた。
「特に敵将が経験豊富で情報も多くつかんでいるとき、それが逆に狙い目となる。……貴殿のことだよ、紅雪将軍殿」
「俺か!?」
「当然だろう。貴殿はロルムンドにおいて、戦場でも陰謀でも常に勝利してきた」
「他人事のように言ってくれるな。貴殿もそうだろう?」
「私は貴殿の助けを借りているだけだ。だがいずれにせよ、ボリシェヴィキ公は自分の計画がある程度こちらに洩れていることを想定した上で、それを織り込んだ計画を立てているはずだ」
俺は彼女の言葉の意味を考える。
つまり「結婚式の日」にアシュレイ派やエレオラ派の視線を釘付けにしておいて、違うタイミングで行動を起こすということか。
「なるほど。結婚式までは何もないと思わせておいて、それより早く行動を開始する気だな」
「ああ。兵站と士気の問題は騙しようがないからな。既に兵を潜伏させているのなら、もはや残り時間は限られている。純粋に軍事的な問題だよ」
俺とエレオラのやりとりを、クシュマー枢機卿はくすくす笑いながら見ている。
「同盟者という間柄にしては、ずいぶんと親密な御様子ですね」
まずい、俺としたことが油断してた。エレオラに対して敬語を使っていない。
表向き、エレオラは俺より立場が上だ。クシュマー枢機卿の和やかな雰囲気に、すっかり気が緩んでいたらしい。
俺は慌てて咳払いをして、適当に取り繕う。
「いえ、議論に夢中になるとつい、身分を忘れてしまいまして」
「夢中になっているのは、果たして議論かしら?」
クシュマー枢機卿は意味ありげな笑みを浮かべる。
いや、そういう誤解のされ方も困るんですが。
しかしクシュマー枢機卿はすぐに、エレオラを向いてこう言った。
「こちらの方の素性については、トゥラーヤ殿からお聞きしております。どうやらエレオラ様は、ミラルディアで得難い経験をなさったようですね」
エレオラもこれには一瞬驚いた表情をみせたが、すぐに笑みを浮かべた。
「ええ。とても良い経験をしました」
ちょっと苦笑混じりのエレオラの笑顔を、クシュマー枢機卿はじっと見つめる。
それから彼女は小さくうなずいた。
「『猛暑の年のブドウは甘い』と申します。どうやらエレオラ様も、苦難を乗り越えて豊かな果実を手に入れられた御様子。このクシュマー、エレオラ様のために精一杯お力添えいたしましょう」
そう言ってから、クシュマー枢機卿は薄く笑う。
「我々式典庁は、帝室との折衝を行う部署。アシュレイ陛下の動静についても事細かに耳に入ってきますので、何かあればお知らせいたします。帝室の安寧を守ることは、私の務めですので」
「かたじけない。アシュレイ殿に何かあれば、すぐに駆けつけます」
なんせアシュレイ帝は、神聖ロルムンド帝国最後の男系皇族だからな。
「はい。なるべく事態を静かに終わらせられるよう、私も尽力いたします。それでは本日はこれにて……」
クシュマー枢機卿は立ち上がり、それから俺とエレオラを見てクスッと笑った。
「輝陽教は豊穣を約束する信仰です。結婚についても、細かいことは申しませんよ?」
いやあの、なんか勘違いしてませんか。
この手の会話にはどう切り返していいのかわからず、俺は表情を崩さないようにするので精一杯だった。
エレオラはつまらなさそうな顔をして、淡々と返す。
「彼はミラルディアに婚約者がいるそうです」
「あら、それは残念でしたね。ミラルディアとの友好の架け橋になるかと思いましたが……」
それからクシュマー枢機卿はエレオラをちらりと見る。
「簒奪者となる覚悟はおありですか?」
唐突に話題が切り替わったけど、それは帝位の話だよな?
するとエレオラは穏やかに笑った。
「指輪はともかく、これ以上混乱が続くようなら冠のほうは奪うつもりでおります」
帝位の話だった。
「承知いたしました。まだその時ではないと思いますが、今後の展開次第では我々も全面的にお力添えいたします」
輝陽教としては今後の混乱を避けるために、「男系男子の血筋を残したい」というのが本音だろう。
しかしそれにこだわって、帝国内部で異教の勢力拡大や内戦を招いてしまっては困る。
だからいざとなったら、エレオラを担ぎ出す準備はしておく。
そういう会話だ。
クシュマー枢機卿とザナワー大司祭が帰った後、俺は窓の外をちらりと見る。
北天に鎮座する極星が、いつもにまして強く輝いているように思えた。
おそらく近日中に、事態は動き出すだろう。
まだ他にも準備することが山のようにあった。