「ある剣士の覚悟」
169話(ある剣士の覚悟)
シュメニフスキー卿は今日も、皇帝陛下への直訴を求めている。
「お前たち、あの男は人狼だ! あいつは帝国を滅ぼしに来た、ミラルディアの悪魔だ!」
私は溜息をつき、聞こえないふりをした。
我が主はこの男の護衛兼監視として、私を指名した。
主とは長い付き合いだ。ドニエスク家には返しきれないほどの恩がある。
だから鮮血伯のたわごとにも我慢している。
だが本当にたわごとだろうか?
私は決闘のとき、伯爵の介添え人を務めた。
ヴァイト卿の動きは恐ろしく洗練され、そして素早かった。達人の動きだ。
しかし何よりも私が恐怖したのは、決闘が終わった後の検分だった。
私は固い地面に穿たれた痕を見つけている。
剣術であれ拳闘であれ、地面を蹴る力なくしては重い一撃を放つことはできない。
だがあれほどの痕を残すためには、どれだけの力が必要なのだろうか。
私の拳がすっぽり入るほど深い痕だ。途方もない剛力である。
あの力全てを叩き込まれていたら、伯爵の命はなかっただろう。
つまりあのミラルディアから来た客爵は、手加減をする余裕すらあったということになる。
今後、あの異国から来た紳士は注意しておく必要がありそうだ。我が主にもすでに報告はしている。
そろそろドニエスク公からの使者が来る頃だ。
そう思っていた矢先に、ドアが控えめにノックされる。
私は叫んでいる伯爵を無視して、廊下に出た。
ドニエスク家のお抱え薬師と、助手兼護衛が二名。
「ドニエスク公はシュメニフスキー様の容態を大変心配され、よく効く薬をお持ちするよう命じられました」
つまり、いつも通りということだ。
気が進まなかったが、私は同席することにした。伯爵への義理も多少ある。
薬師が伯爵に恭しく一礼する。
「シュメニフスキー様、我が主から『痛み止め』を預かって参りました」
すると伯爵は顔色を変えた。
「どう……いう……ことだ?」
薬師は鞄から小さな瓶を取り出し、いつもの薬湯に透明な液体を数滴垂らした。
「さ、これをお飲みくださいませ。少し眠くなりますが、目覚めたときには痛みは消えておりましょう」
だが伯爵は首を横に振る。
「ま、待て……なぜ私が……そんなはずはない……」
助手たちが伯爵を取り押さえる。私が鍛え上げた屈強な衛士たちだ。
薬師はその間に伯爵の顔を固定し、慣れた手つきで口をこじ開ける。
「ふがっ、あがあぁっ!」
悲鳴をあげる間に、薬湯は鮮血伯の喉に流し込まれていた。
伯爵は死にものぐるいで暴れたが、もう遅い。
私は腰の剣をいつでも抜けるようにしたまま、じっとそのときが来るのを待った。
やがて助手たちが伯爵から離れる。
薬師が伯爵の目を調べ、それから喉に手を当てた。
「おやすみになられました」
我々は胸に手を当て、伯爵の冥福を祈る。
助手たちは伯爵の遺体を担ぐと、馬車に積み込むために出ていった。
「今回も『静養』ですか」
「はい。ドニエスク家の例の山荘に御案内します。そちらで静養していただきましょう」
この国では、貴人は死んだ後も生き続ける。
混乱を起こさぬよう全ての準備が整った後で、ようやく肉体の死と書類上の死が重なるのだ。
私は薬師と今後の打ち合わせをした。
「例の客爵は帝室直々に人間であると証明されております。帝室の一員であるドニエスク家に与する者が、帝室の判断に異を唱えるなど、あってはならぬこと」
古株の薬師の言葉に、私は溜息をついた。
「それゆえ、『静養』していただくという訳ですか」
「はい。伯爵の度重なる失態には、ドニエスク公も手を焼いておりました。もはや看過できぬと」
「……仕方ありませんな」
彼がもう少し謙虚で思慮深ければ、今でも北ロルムンドの領主でいられたことだろう。
全ては彼自身が蒔いた種だ。
薬師が懐から手紙を取り出す。
「こちらが新たな命令書でございます。この場で御開封を」
「かたじけない」
おそらく今度も汚れ仕事だろう。
我が主は用心深い。本当に危険な仕事は、本当に信頼できる者にしか託さない。
それゆえ、私は主の期待に必ず応える。
「ふむ」
「どうされましたか?」
長年の付き合いからか、薬師は私の口調で何かを察したようだった。
私は苦笑してみせる。
「宮廷内の取りまとめに若君がいらっしゃるそうです。私にはその護衛をせよ、とのことでした」
安全のためにどちらの若君かは記されていなかったが、長年の付き合いで私にはわかる。
ドニエスク公が「我が愛息」と記すのは、いつも次男のウォーロイ様だ。長男のイヴァン様のことは「我が息子」と記される。
ウォーロイ様なら確かに適任だと思うが、少し不安もある。
しっかりお守りせねば。
薬師は鞄を片づけながら笑う。
「ご心配なさいますな。剣聖バルナーク様の武名を聞いて、怯まぬ者はおりませんよ」
「剣聖はやめてください。私はただの騎士崩れの中年ですから」
領地を失った私が昔と変わらぬ生活をできているのは、ドニエスク公のおかげだ。
その恩に報いるため、今回も努めを果たすとしよう。
たとえ相手が伝説の人狼だったとしても。