「エレオラの散歩」
153話(エレオラの散歩)
私は長い夢から醒めたようでもあり、まだ夢の中にいるようでもあった。
私は生まれて初めて敗者となった。
だがまだ生きている。
囚われの身となった私だが、看護のためにナタリアが付き添ってくれている。あの黒狼卿の配慮らしい。
「姫様、旧市街なら監視つきで外出しても良いそうですよ。気晴らしに少し歩かれてはいかがですか?」
そうだな。視察しておくのも悪くはない。
何か有益な情報が得られるかもしれない。
そう思ったとき、ナタリアがこんなことを言い出した。
「あ、そうだ。リューンハイトにも黒狼卿の劇をやってるところがあるんです。一緒に観にいきませんか?」
「黒狼卿の劇?」
そういえばナタリアと観劇に行く約束をしていたな。
だが、黒狼卿の劇とはなんだ?
私の質問に、ナタリアが答えてくれる。
「黒狼卿の半生を題材にした劇ですよ。何種類もありますが、どれも完成度は非常に高く、とても面白いと思いました」
「……もう少し、詳しく聞こう」
私は彼女から説明を聞き、そして自分が敗北した理由のひとつを知った。
実在の人物と架空の物語を融合させ、その人物への印象を変えてしまう。労せずして、その人物の評価を上げることができる。
聡明で理性的だが、内心に情熱的な恋の炎を燃やす男装の美女・魔人公アイリア卿。
滅びゆく吸血鬼一族の未来を切り開くため、望まぬ戦いに身を投じる吸血鬼の女王・メレーネ卿。
人馬族の尊厳と生活を守るため、常に最前線で戦い続ける人馬族の乙女・フィルニール卿。
そして魔王の副官として暗躍するも、穏和で誇り高い人狼族の英雄・ヴァイト黒狼卿。
そんな劇を何度も観ているうちに、庶民は次第に魔族に親近感を覚えるようになる。魔族側の事情にも、理解を示すようになるに違いない。
おそらくこれもほんの一部分で、連邦側は他にも様々な謀略を仕掛けていたのだろう。
愚かなことに、私はそれに気づかなかった。
魔撃大隊は諜報員ではないし、集団運用が鉄則だから各都市に分散配置はできない。
いや、そうではない。
私は手元から部下が減ってしまうのを恐れたのだ。
いずれにせよ、私のいない街では連邦側がやりたいように活動できてしまう。
連邦側には八人の太守がいる。魔王軍の将もいるだろう。一方ロルムンド側には、政治的な工作を担当する者は私だけだ。
この不利をもっと真剣に受け止めるべきだった。
私は悔しさと情けなさに襲われたが、ある瞬間に、ふとおかしくなってしまった。
こんなもの、私一人でどうにかなる相手ではなかったのだ。
ミラルディア人に信頼できる味方を作るべきだったが、私はそれをしなかった。私の落ち度だ。
だから私は自分を笑う。
「姫様、どうかなさいましたか?」
「いや。だが、これでは道化だな」
「あの、どういう意味ですか?」
ナタリアは聖職者の娘だ。他人を疑うことに慣れていない。
彼女が自分を責めないよう、私は首を振ってごまかした。
「なんでもない。それよりも、散歩はできるのだな?」
「あ、はい。監視はつくそうですが、好きなようにして良いと」
余裕の態度だな。
もはや私は脅威ではなく、ただの手駒ということか。
私はナタリアを残し、外に出ることにした。今は一人で考え事をしたい。
看守はトカゲ頭の魔族たちだったが、規律正しく私に敬礼してくる。私もそれに応じたが、かなり優秀そうな兵士だ。
なるほど。あの黒狼卿が率いるだけのことはあって、野蛮な魔物の群れなどではない。
外に出た私の前には、魔都の風景が広がっていた。
さすがに魔都というだけあって、異様な光景だ。
輝陽教の司祭らしい老人が、トカゲ頭の魔族と会釈している。
かと思えば、人間の子供が犬の魔族と一緒になって走り回っていた。親は止めないのだろうか。
奇怪としか言いようのない光景だ。
だが、とても平和そうな光景だった。
私はしばし佇み、それから気を取り直す。
監視がつくという話だが、誰もついてくる様子がない。
おそらく魔法、あるいは人狼あたりの知覚力で、私を遠方から監視しているのだろう。
試しに城門に向かって歩き出すと、見覚えのある女が近づいてきた。
黒狼卿の側近だ。
彼女は私に気づいていないような顔をしながら、雑踏の中ですれ違う。
「あは、試してるの? ダメだよ、おとなしくしててね」
女はそれだけ告げて、そのまま私の横を通り過ぎた。
悔しいので振り返りはしないが、おそらくもう背後にはいないだろう。
やはり監視されていた。
私は籠の鳥という訳だ。
私はリューンハイトの街中を歩きながら、この処遇の意味について考える。
だがこれは簡単にわかる。
この街の風景を見せて、私を屈服させようというのだ。
そして私は屈服せざるを得ない。
街を行き交う人も魔族も、皆いい顔をしている。物乞いもいないし、路地裏に死体も転がっていない。
私は疲労を感じつつ、噴水のある広場に出る。屋台が幾つも並び、長椅子も設置されていた。
そのひとつに腰掛け、深々と溜息をつく。
もっと早く、この遠征に勝算がないことを認めるべきだった。
計画の変更を恐れた私の失敗だ。
そのとき、広場の向こうから見慣れない魔族がやってきた。ウサギのような獣人だ。
ひどく急いでいる。
「お、おい! そこのねーちゃん! 悪いが少し匿ってくれ!」
私が返事するより早く、ウサギの獣人は私のマントの中に隠れる。
拒絶しようとしたが、今の私は捕虜だ。もめ事を起こせば、部下の身が危うくなる。
ぐっと我慢することにして様子を見ていると、犬の獣人が三匹走ってきた。顔立ちを見る限り、あれは猟犬だ。
「リュッコさーん、リュッコさーん!」
「一緒に肉食べようよー!」
「おなかすいてるでしょー?」
犬の獣人たちは鼻をくんくんと鳴らしていたが、ハッと何かに気づく。
「照り焼きだ!」
「照り焼きだね!」
彼らはリュッコという人物を探すのを中断して、屋台に駆けていく。
鶏のもも肉を焼いたものを四本買うと、彼らは意気揚々と引き揚げていった。
「……ふう、やっと振り切ったか」
ウサギの獣人がマントから這いだしてくる。察するに、このウサギがリュッコらしい。
ウサギの獣人は周囲を見回し、ほっと溜息をつく。
「あのバカ犬ども、犬歯をぎらつかせて笑うなってんだ。俺のしっぽ見て興奮しやがるしよ」
それからウサギは私に向き直り、芝居がかった仕草で一礼した。
「恩に着るぜ、お嬢さん。……一応聞いておくけど、あんた人狼とかじゃないよな?」
「いいや」
異邦人ではあるが、一応人間だ。
私の返事に安心したのか、ウサギの獣人は長椅子に腰掛ける。
「ちょいと一服させてもらうぜ」
ウサギの獣人は巻煙草入れを取り出した。慣れた手つきで箱をトントンと叩き、一本取り出す。
予想に反して、出てきたのは野菜を細長く切って乾燥させたものだった。
「一本どうだい?」
首を横に振り、私はそれを謝絶する。
幼少時からの教訓で、私は見知らぬ相手から飲食物を受け取ることはない。
「あーうめえ、故郷の味だ。おととい来たばかりなのに、もう帰りたくなってきやがった」
ウサギの獣人は乾燥野菜を食べ、耳を寝かせて目を閉じる。安心しきっている様子だ。
この様子だと魔王軍の兵士ではないな。おととい来たのなら、リューンハイトでの戦闘にも巻き込まれていないはずだ。
非軍属の魔族と会話する良い機会だ。
「リュッコ殿でいいかな?」
「ああ、俺はリュッコだ。あんたは?」
私は少し迷い、答える。
「エレオラだ」
幸い、彼はリューンハイトで起きた戦闘のことを知らなかった。
私についても知らないようだった。
「この街には、何か用があって来たのか?」
「ああ。俺は職人なんだが、兄弟子に呼ばれてな。おっそろしく強面だが、根は優しい男なんだ。あいつの頼みじゃ断れねえ」
嘘をついているようには思えない。どうやら魔王軍とは無関係のようだ。
安心した私は、リューンハイトについて質問する。
「この街に来て、どう思った?」
すると彼は少し考え、こう答える。
「いい街じゃねえかな。俺みたいに後ろ盾のない魔族が来ても、誰も俺を襲ったり蔑んだりしねえ。正直、ちょっと驚いてるんだ」
「そうか」
やはりミラルディア南部では、人間と魔族の融和が進んでいるということだ。信じられない話だが事実だ。
一人の学徒として、この奇跡を壊したくないという想いを捨てきれない。
軍事的に考えても、人間と魔族が一致団結して抵抗してくるのなら征服は困難を極めるだろう。
ロルムンドは長い間、ミラルディアの情勢が不安定になる瞬間を待っていた。だが我々が攻め込むよりも早く、魔族たちが地盤を固めてしまった。
あの黒狼卿が全ての黒幕であることは疑いようもない。
私が沈黙すると、ウサギの獣人が問いかけてくる。
「あんた、軍人だろ?」
「わかるか?」
「緊張感っていうのかな、なんかわかる。口調も堅いし、日常的に命を懸けてるヤツの顔してるな」
そんな顔をしているのか、私は。
ウサギの獣人は乾燥野菜の棒をくわえたまま、ウィンクしてみせた。
「俺たち兎人族は臆病でな、軍人にゃ向いてねえし好きじゃねえ。ああ、あんたは嫌いじゃないぜ。俺と同じ匂いもする。技官か?」
その通りなので、私はうなずいた。
「ああ、そうだ」
「ははっ、やっぱりな」
私は彼に、もうひとつ質問してみる。
「魔王軍のことをどう思う?」
「言ったろ。俺は軍人は嫌いだ。あいつらおっかねえからな。……ただ」
「ただ?」
「魔王軍は強いヤツほど謙虚だ。魔族の常識とは違うが、だからこそ俺も信用はしてるのさ。俺たちみたいに弱い魔族を、ちゃんと保護してくれるからな」
あくまでもひとつの意見に過ぎないが、魔王軍は魔族にも支持されているようだ。
ウサギの獣人は広場の片隅を指さす。
「あれ見てみな。魔王軍が建てたんだ」
真新しい石碑があり、花束と果物が置かれている。花束と果物は供物のようだが、ロルムンドでは見かけない風習だ。
興味を覚えた私は、その石碑に近づいた。
碑文は、こう刻まれていた。
『魔都リューンハイト防衛戦で散った全ての将兵に哀悼を捧げ、その冥福を祈る』
裏側にはベルーザ陸戦隊十九名、蒼鱗騎士団四名、そして第二〇九魔撃大隊三十四名の名前と所属が刻まれていた。
味方だけでなく、敵の慰霊碑でもあるということだ。
私はそのことに動揺を隠せなかった。
敵を慰霊? 何の利益がある? 我々を懐柔するためか?
だが黒狼卿は、慰霊碑のことは何も言っていなかった。
意味がわからない。
戸惑う私に、ウサギの獣人が後ろから声をかける。
「魔族の常識じゃ、死んだヤツは弱いヤツだ。それなのに味方どころか敵にまで慰霊碑建ててんだぜ。びっくりだろ?」
「……ああ、驚いた」
本当に驚いた。
ミラルディアでは一般的なのだろうか。いや、そんなはずはない。少なくとも私は敵の戦死者への慰霊碑など一度も見たことがない。
兎人は乾燥野菜を一本取り出し、石碑に供える。そしてなぜか手を合わせて目を閉じた。
「なんかこうやるんだってよ。死んだヤツは飯なんか食わねえのに妙な話だ。でも嫌いじゃねえな、この感覚」
私も真似してみた。他に供えるものがないので、ロルムンド銀貨を一枚置く。
そして心の中で部下たちに詫びる。
だがどうしても、敵の冥福を祈る気持ちにはなれなかった。
この石碑を建てた人物の度量の大きさに圧倒される。
兎人の職人は私を見上げた。
「こういう石碑を建ててる間は、魔王軍は信用できるぜ。人間のあんたはどう思う?」
「そうだな。正しい分析だと思うよ」
「だろ?」
ウサギの獣人は満足げにうなずき、それから足元で伸びをしてみせる。
「さて、戻って仕事をやっつけちまわねえとな。じゃあな、エレオラ」
「ああ。ありがとう、リュッコ」
私はウサギの獣人がぴょんぴょんと去っていくのを、じっと見つめていた。
ふと空を見上げれば、もう太陽が西の空に傾いている。
捕虜としては、そろそろ帰るべきだな。
今後のことを考えるとしよう。考ねばならないことが幾つかできたようだ。
敗れはしたが、私の人生はまだ終わった訳ではない。
死なない限り、戦いは続くのだ。