「エレオラ戦記・その6」
143話(エレオラ戦記・その6)
北東のクラウヘンに戻っていたエレオラ皇女は、ボルシュ副官からの報告を聞いて、小さくうなずいた。
「済まないな、ボルシュ。こんな任務は嫌だろう?」
すると歴戦の副官は苦笑しつつ、敬礼してみせた。
「任務とニンジンの好き嫌いは許されないと、殿下に常々申し上げて参りましたからな。私も嫌とは申せません」
「子供の頃の話を織り交ぜて、私を困惑させるのはよせ」
苦笑したエレオラに、ボルシュが真顔で尋ねる。
「しかし殿下、この程度では不十分ではありませんか?」
「いや、あまりわざとらしくすれば真意を看破される」
エレオラ皇女は食糧の購入計画書を処理済みの書類箱に投げ込むと、不敵に微笑んだ。
「あの鼻の良い黒狼卿のことだ、この程度の動きでも見逃すまい。食糧の流れとロルムンド式の兵站を結びつけるぐらいは造作もないはずだ」
「殿下はずいぶんと彼を高く評価しておいでですな」
「あの男、ミラルディアの軍人としては最も洗練されている。些細な兆候から次の一手を読みとるだろう」
ボルシュはそれにうなずいた。
「確かに油断のならない相手です。判明している限り、魔王軍はロルムンド軍に匹敵する近代化をとげていますからな」
「そうだ。元老院の寝ぼけた騎士団とは訳が違うぞ」
そう言ってから、エレオラ皇女はフッと自嘲気味に笑う。
「しかし今は手勢が少ないので情勢がつかめん。危険な状態だというのは調べずともわかるがな」
魔撃大隊は体調不良者が続出していて、太守の監視任務などに支障が出ていた。
もともと諜報活動などは不慣れな部隊でもあり、エレオラ皇女は部下たちに無理をさせないことにしている。
「ところで予備大隊のほうは、露見しないよう進めているか?」
「そちらは極秘裏に行っております。物資の動きも二重に偽装していますので、さすがに気づかれないかと」
「そうあってほしいものだな」
エレオラ皇女は窓の外をちらりと眺める。
ミラルディアの夏が近づきつつあった。
「これから辛い季節だな、ボルシュ」
「そうですな。この暑さは堪えますが、半裸で行軍という訳にもいきません」
暑さが増すにつれて、ロルムンド兵たちの体調はますます悪くなっている。異国の気候と絶え間ない緊張が、彼らを疲弊させているのだ。
そして気候よりも重大な懸念事項があった。
「それに外交力の差も出てきている。表向きは平穏だが、もはや北部太守も味方とは言いがたい」
「評議会からの切り崩し工作ですか」
「そうだ。このままでは北部太守たちが公然と反旗を翻しかねん」
エレオラに残された猶予は、もうほとんどなかった。
一方その頃。
北部の宗教都市イオロ・ランゲは、ミラルディアにおける輝陽教の聖地だ。ここから発せられる輝陽教の布告は、極めて大きな影響力を持つ。
イオロ・ランゲ大聖堂の中にある議場で、リューンハイト司祭のユヒトは深々と一礼した。
「御清聴に感謝いたします」
北部の司祭たちがそれに応じて拍手する。
ここでは数時間に渡る白熱した議論とユヒト司祭の熱弁の末、ようやく話がまとまったところだ。
ミラルディア輝陽教を束ねる最高司祭オベニウスは、何度もうなずきながら口を開いた。
「ユヒト殿のお話に私も感動しました。最初に言ったことはお詫びいたします」
それから彼は議場の長テーブルの上に、二冊の教典を置いた。
分厚いほうがロルムンド輝陽教の教典で、薄いほうがミラルディア輝陽教の教典だ。
逃亡奴隷たちがミラルディアに持ち込んだ教典は、本国にあったものの一部でしかない。
「エレオラ皇女から頂いた教典を何度も拝読しましたが、私はこれに感銘を受けませんでした。自分が信じてもいない教えを、どうやって皆に説けましょうか」
北部民の先祖たちは、この不慣れな逃亡先で団結する必要があった。敵は魔物や自然そのものだ。身内で争っている余裕はない。
その結果、ミラルディア輝陽教は横のつながりを重視する宗派へと変貌を遂げた。
一方、為政者の統治の道具となっているロルムンド輝陽教は、反乱を最大の脅威とみなしている。そのため、縦のつながりを重視する宗派だ。
教典の解釈などには、両者の違いがはっきりと現れていた。
オベニウス最高司祭は穏やかに微笑む。
「ユヒト殿のお言葉は胸に染み渡りました。教典の解釈として矛盾はありませんし、何よりミラルディア輝陽教の精神を感じます」
「恐れ入ります」
誇る訳でもなく、ユヒト司祭は控えめな態度だ。
他の司祭たちも、一様に穏やかな表情を浮かべている。
同じ哲学を持つ者同士の心地よい沈黙を、その場にいる全員が感じているようだった。
オベニウスはミラルディア輝陽教の教典に片手を置き、もう片方の手を胸に当てて厳かに宣言する。
「このオベニウス・イオロ・ユピテウム三世は、ユヒト正司祭の教典解釈を正当なものと認めます。かの者の輝陽教発展への功績と深遠なる知見を称え、大司祭に推挙したく思います。異論のある方は起立をもって意志を示してください」
誰も立つ者はない。全会一致の可決だ。
輝陽教の大司祭といえば、イオロ・ランゲ以外には数名しかいない。特に南部では初めてのことだった。
ユヒト大司祭が深々と頭を下げる。
「畏れ多いことです。大司祭となるにはあまりにも罪深く矮小な信徒ですが、一人でも多くの方を救えるよう、微力を尽くして参ります」
するとオベニウスは微笑みながら、最高司祭の帽子と法衣を脱いだ。
「期待しておりますよ、ユヒト殿」
笑顔は変わらないが、オベニウスは先ほどよりも少しだけ実務的な口調で切り出した。
「さて、とても心地よい時間でしたが、教義の話はひとまずここまでにしておきましょう。すぐに評議会に使者を送ります。ユヒト殿、仲介をお願いできますか?」
「はい、喜んで」
ユヒト大司祭は、イオロ・ランゲ太守オベニウスに恭しく一礼した。
クラウヘンでは、エレオラ皇女が直属の魔撃大隊を前にして説明をしていた。
「以上のように、状況は深刻だ。我々には残された時間がもうない」
隊員たちは無表情だが、緊張感を漂わせている。
「軍事的な観点でいえば、ここでの軍事行動は愚挙の極みだ。本来ならば、援軍を待つのが当然だ。しかし援軍は秋まで来ない」
一同が無言でうなずく。
だがエレオラは、眉間にしわを浮かべながら続けた。
「一方、政治的な観点では、この作戦は極めて重要だ。現状のまま皇帝陛下が崩御なされた場合、我々の立場は極めて微妙なものになる」
エレオラはミラルディアの地図を示す。リューンハイトにあるものほど正確ではないが、ロルムンド軍が入手可能な中では最も精密な地図だ。
「作戦の概要は先ほど伝えた通りだ。作戦を中止する場合はいったんウォーンガングに帰還するが、その後即座にクラウヘンへの退却を開始する。本隊に合流できなかった場合は、直接クラウヘンに向かえ」
エレオラ皇女はボルシュ副官に向き直る。
「長期の作戦行動が可能な大隊員は九十八名か、ボルシュ」
「九十七名になりました。昨夜からスニーツェが高熱を出しています」
「病人は十名か。ここの責任者が必要だな」
エレオラ皇女は少し考え、すぐさま指示を下した。
「よし、クラウヘンに二名残す。エスカヤ三等士官、それとゼートル、太守との折衝を担当しろ。病人たちの安全を守れ」
「はっ!」
古参の士官と兵士が敬礼した。
それにうなずき返し、エレオラは残る全員に命じる。
「残る九十五名は予備魔撃大隊と共に出立し、城塞都市ウォーンガングにて友軍と合流する。ただちに準備にかかれ!」
「はっ!」
彼女の指示に、全員が敬礼で応えた。




