「太守アイリアの執務録」
12話(アイリアの執務録)
私、アイリア・リュッテ・アインドルフは、驚きをもってこの記録を残さざるをえない。
ほんの数日前、我がリューンハイト市は魔王軍の攻撃を受けた。
病没した父の後任として元老院に任命され、リューンハイトの太守となってまだ一年あまり。
魔王軍への警戒はしていたが、いきなり交易拠点を狙ってくるとは予想もしていなかった。交易路の重要性を理解する者が、魔族にいるはずがない。そう油断していたのだ。
だから未熟な私は、突然起きた襲撃に為すすべもなかった。
魔王軍の指揮官は、漆黒の毛を持つ人狼だった。
私が人狼について知っていることは少ない。
満月の夜に狼人間となり、人間を襲う怪物であること。
銀の武器でないと、効果的な傷を与えられないこと。
そして何十年も昔に、人間によって滅ぼされた種族であること。
それだけだ。
だが人狼は滅んでいなかったのだから、私の知識は全くあてにならない。彼らは白昼に現れ、恐ろしい力で市街を制圧した。
人間を貪り食うといわれる人狼を前にして、私は死を覚悟した。
だがその黒い人狼は、私の手からサーベルを取り上げると、こう言ったのだ。
「混乱を防ぐために、妥協しないか?」と。
彼は無益な殺戮はしないと約束し、私に降伏を勧めた。
私に選択の余地はなかった。
彼の率いる人狼隊はリューンハイトの精鋭衛兵隊を苦もなく蹴散らしたが、意外なことに戦死者は七人で済んだ。
そして負傷兵を治療し、彼らを武装解除した後は、約束通り本当に何もしなかった。
見せしめのために衛兵隊を皆殺しにされることも覚悟していたので、私も衛兵たちも安堵と同じぐらい困惑した。
魔王軍第三師団の副官・ヴァイトの占領方針は、とにかく変わっていた。
いきなり宗教指導者たちを集めると、信仰の自由を認めたのだ。みんな改宗を強制されるのだと恐怖していたので、これも安堵と同時に困惑した。
こんなに自由を認めて、彼らに何の利益があるのだろう。
だが市民が喜んだのは事実だ。当初の恐怖が大きかっただけに、安堵も大きい。
それは着実に、魔王軍……いや、ヴァイト個人への支持につながっているようだ。
他にも変わった点がある。彼らは略奪を一切しない。必要なものは遠慮なく持っていくが、必ず正規の代価を支払う。
兵の宿舎が足りないというので、私は空き家を提供することを考えていたのだが、ヴァイトは売り手を募集した上で高額で買い取った。
こんなに行儀のいい占領軍は見たことがない。非常識なぐらいだ。
祖父から聞いたミラルディア統一戦争の惨状は、こんなものではなかった。
ヴァイトはここが交易都市であることも理解していた。治安維持にも熱心に取り組み、交易の再開のために魔族の隊商を呼び込んでくれた。
最初は交易商たちも不安がっていたが、すぐに喜んで取引するようになった。
犬人族たちは誠実で約束を守るし、珍しくて質の良い品ばかり運んでくるらしい。トラブルは一切ない。
不思議な気分だ。
だが私は油断していない。彼は魔族で、魔王に仕える武将だ。彼らが武力でこの街を支配していることを、忘れてはいけない。
彼は理性的で聡明で、穏和な人物だ。もしかすると、今以上にリューンハイトを発展させてくれるかも知れない。
しかし同時に、私などでは到底かなわないような底知れないものを感じる。
警戒しなくては。
そう思うのだが、平和なリューンハイトを見ていると、だんだん心が揺らいでくるのを感じてしまう。魔王軍に占領されてからの方が、執務も楽になっている気がする……。
ヴァイトに協力してこの街を治めることに、私は不思議な居心地の良さを感じてしまう。
だから私は、リューンハイトがミラルディア同盟軍に解放されることを祈ってやまない。
これ以上、私があの黒い狼に魅了されてしまわないうちに。
早く。
早く。




