迷宮の守護者(後編)
105話
俺は折からの強風にマントを翻しつつ、二千の敵軍に嘲笑を浴びせかける。
『元老院の犬どもめ、恥ずかしげもなくのこのこと来たものだな』
魔法で強化された俺の聴覚に、微かに「黙れ怪物め!」とか「四千人殺しがなんだ!」とか聞こえてくる。叫び声ならかろうじて拾えるな。
どうやら北部では「四千人殺し」で定着しているらしい。
じゃあそれでいこう。
『たかだか二千の兵で、このヴァイトの相手をするつもりか? 馬鹿にされたものだ』
がんばって挑発しているが、矢が飛んでこないか内心ではドキドキしている。
一応矢避けの魔法はかけてあるが、何本も飛んできたら自力で防がないといけない。
だが幸い、矢は全く飛んでこない。
今のうちにもうちょっと動揺させておこう。
『貴様らには力もなければ、大義もない! 哀れな虫ケラどもめ!』
すると遠くから「大義は我らにあるぞ!」とか「耳を貸すな、ザリアを救出するのだ!」とか聞こえてくる。声の感じからすると、指揮官たちだろう。
もっとゆさゆさ揺さぶってやる。
『元老院は卑劣にも、ザリア太守メルギオ殿を暗殺した! そればかりか、まだ年若い一人娘のシャティナ殿まで手にかけようとした! 許せぬ!』
これについては駆け引き抜きで本当に許せないので、俺は雄叫びをあげる。
この俺の言葉は、ミラルディア同盟軍に相当な衝撃を与えたようだ。
微かに「まさか!?」「元老院が太守様を暗殺だと!?」「隊長、本当ですか!?」などという声が聞こえてくる。
末端の兵士に、こんな薄汚い陰謀を教えるはずがないからな。自分たちに正義がないとわかれば、士気が下がるだけだ。
だからもっと教えてやろう。
『信じられぬか?……ならば、直接聞くがいい!』
ここでシャティナがザリアの建物から叫ぶ。彼女にも拡声の魔法はかけておいた。
『我こそはシャティナ・シュタール! ヴァイト殿の言葉は真実だ! 我が父にして忠良なるザリア太守、メルギオ・ユーム・シュタールは、元老院の刺客によって殺された!』
この声がザリア太守の娘の声だということは、あちらにもわかるはずだ。
シャティナも太守の後継者だから、人脈を築くために積極的に露出している。
シャティナは怒りに声を震わせる。
『ミラルディアの平和と発展のために尽くしてきた父を非道な方法で殺めたことは、未来永劫忘れないぞ! お前たち北部の人間を一人残らず根絶やしにして、父上への供養にしてやる!』
気持ちはわかるが、報復対象を拡大させすぎだ。
シャティナは太守を継ぐつもりなら、もう少し慎重な言動を身につけないといけないな。
今後の課題にしておこう。
シャティナはまだ叫んでいる。
『私は父の後継者となり、ミラルディア同盟を破棄する! そして魔王軍と同盟を結ぶ! 魔王軍最強と名高い副官のヴァイト殿が、貴様たちを皆殺しにしてくれる!』
たとえ太守の実子といえども、元老院の許可なく後継者を名乗ることは反逆とみなされる。そして同盟破棄宣言。
シャティナの怒りの大きさがわかるというものだ。
でもこれ以上放っておくと何を言い出すかわからないので、そろそろ黙らせてくれ。
俺の祈りが通じたのか、シャティナの声が収まった。やれやれ。
さあ今度は俺の番だ。
『卑劣な元老院の犬どもめ、覚悟はいいな? 俺は貴様らの命乞いなど、聞く気はないぞ?』
実際、命乞いされても聞いてる余裕なんかない。
今だって、逃げる準備がいつでもできているぐらいだ。
しかしシャティナの演説は効果絶大だったようで、ミラルディア同盟軍は露骨にうろたえている。やはり士気は高くないな。
士気が高くないだろうと思ったのには、ちゃんと理由がある。
大型の組み立て式投石機は、扱うのに専門の工兵が必要だ。
しかし投石機隊には実戦経験がない。ミラルディア統一戦争後、攻城兵器の出番はなくなってしまったからだ。
もちろん訓練はしているだろうし、式典などでデモンストレーションもするのだが、戦場慣れしていないただの技術者集団に過ぎない。
当然、「父を殺された娘の怒り」なんてものを向けられれば、真偽がわからなくても動揺する。
動きが止まってしまった投石機に代わり、弓兵たちが前進してきた。
やっぱり、口喧嘩だけで追い返すのは無理か。
俺は耳を澄まし、弓兵隊の号令を待つ。弓兵たちは必ずタイミングをそろえて曲射してくるから、その瞬間だけ本気を出せばいい。
「放て!」
その声が聞こえた瞬間、俺は強化魔法を複数起動して攻撃に備えた。知覚と反応速度を引き上げ、全身の毛を硬質化させる。
雨のように矢が降ってくる。距離があるので矢を上空に放ち、放物線を描いて上空から攻撃する戦法だ。
だがこの方法で精密射撃は難しい。俺に命中するのは、そのうちのほんの一部だ。
『効かぬわ!』
俺は吠えると、手刀でなぎ払う。
なんとか防ぎきったが、これ以上近づかれるとまずいな。
さらにもう一度、斉射がくる。
俺は必死になって矢を叩き落とした。人狼にとっては、弓矢が一番怖い。
『ハハハ! 何度射ようが同じことよ!』
そう強がってみたが、正直これを繰り返されるとしんどい。
だが幸い、あっちも俺が矢を払いのけたことにびっくりしたようだ。斉射が止む。
俺は今のうちに周囲を観察するが、矢は広範囲にばらまかれていた。
敵の軍勢に矢の雨を降らせるのが弓兵の仕事で、それ自体はちゃんとできている。
しかし有効射程ギリギリから人狼一人に曲射を当てるとなると、狙ってできるものではないようだ。
弓隊は俺が怖いのかそそくさと引っ込んでしまったが、槍隊が突撃してくる気配はない。
槍隊が怖がっているのは、俺ではなく背後のザリア市街だろう。
ザリアの建物は高い塔のようなもので、射手が攻撃するには絶好の場所になっている。
俺のいる場所は、ザリアの北側の建物から百メートルほどだ。ザリア側からは上から射下ろす形になるので、矢が十分に届く。
一方、同盟軍の弓兵がザリア兵を攻撃しようと思ったら、俺の背後まで前進しないといけない。現実的にそれは無理だ。
だからここに槍隊が突っ込んでくると、味方の援護なしでザリアから矢の雨を浴びることになる。
目の前には変な人狼が一人で頑張っているし、その奥の迷宮都市からは矢が飛んできそうだし、槍隊としては嫌な状況だろう。
実際にはザリア側に大した兵力はないのだが、内部の状況を知っている者は皆殺しにしたので情報は伝わっていないはずだ。
静かになったので耳を澄ましていると、何か言い争っている声が微かに聞こえてきた。
会話の内容はよくわからないが、槍隊と弓隊と投石機隊で指揮官たちが揉めているようだ。
投石攻撃で建物を壊してから突入する予定だろうから、約束が違うと槍隊がごねているのだろう。
優しい俺は、気長に待ってあげることにした。
そのうちに槍隊が前進して、ずらりと大盾を並べる。突撃ではなく、防御の陣形だ。その左右を弓隊が固めている。
その奥では、荷車から投石機の部品が運び出されているのが見える。
まだザリア市街にはかなり距離があるが、投石機の組み立てを開始したらしい。
あの位置ならザリアからの矢はほとんど届かないだろうが、投石機側も射程ギリギリだ。
軽めの石弾を使って、やっと北側の建物を狙えるかどうか……というところだろう。
よしよし、それでいい。