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作者: 江南

設定としては同年の従兄妹です。

露骨なエロシーンはありませんが、後朝なのでR15。

 匂いがした。

 酒と煙草と汗と花。すべてを含んだ男の匂い、女の匂い。

 肩と腰に回された腕の重み。触れた肌から伝わる熱。頬に響く鼓動。額をくすぐる呼吸。全身に感じるなにもかもが強い。見えないからこそわかること。醒めずにたゆたう夢現、それすらも夢の中。

 なつかしい、とどこかで思う。心地よい場所だと本能が嗅ぎつける。唯一人の男によってのみもたらされる、それは幻想の快楽。

 だからもう少し、目は開けない。いつかは醒めるからこその夢。果てなく続けと望むことすら夢の中でだけ許される。名も顔もない男と女、それだけであるときこそ至上の。

 だけど夢だと知っている。永遠の夜を求める背理が証明する。

 やがて来る白い朝。白日の下に晒されて、夢はあえなく灰と化す。崩れた後には何もない。

 何も、ない。


 ――本当に望むのは、それだけだ。


 埃の積もったガラステーブルの上で3個のコルク栓はもうからからに乾いていた。2本の透明な瓶は倒され床に転がっている。足りないと言いながらそれをしたのは自分だったと思う。後は缶ビール半ダースと、山崎の12年が1本。どれも見事に空だ。安物で値段なりの味だからと、他に何もなくなるまで出されなかった赤が少し瓶の底に残っていた。

 よくもまあ飲んだものだと我がことながら呆れて眺める。そのくせ宿酔いの兆候はなく、2時間も寝ていない筈なのにいつもの朝より覚めている。それも量を越して飲んだからか。

 同じだけ飲んだ男は健やかな寝息を立てている。つい先程隣から抜け出た際に直した毛布がもうはぐられて、裸の胸が規則正しい呼吸に上下するのがわかる。薄っぺらなカーテン越しのぼんやりとした光の中で、伸びかけた髭が目についた。

 静かだった。長いこと掃除機などかけていなさそうな床にぺたりと座り、男の寝顔を見る。見飽きる、ということはまだなかった。それほどの時間を共に過ごす訳ではなく、数を重ねた覚えもない。だが確実になじんでいる。

 だから、なのだろうか。そうしているときには、寝息や身じろぎは音である筈なのに、聞こえるのではなく、見えるものや肌に感じる空気の流れとしてそこにあった。そしてその空気というものは、朝を迎えて、白く淡く、薄くなっている。新しい光が、元の密度に戻すべく、漂う微細な粒子からなにかを吸い上げる。浄化され、収縮した場で感じるのはまだ埋め切れぬ空虚さだ。ただ飽和し液化した夜の名残が、しっとりと肌を濡らす。拭えぬその匂いだけが、見えない。

 静かだった。


 波。

 寄せる。受け止める。退く。追いかける。その繰り返し。月がもたらすいとなみは、だから月の下でひっそりと続いた。赤くあかく、まるい月が距離感もないまま浮かんでいる。

 砂は波に洗われいつまでも濡れている。さらわれ、運ばれ、すこしずつなにかが動きながらも、目に映るそこはいつまでも濡れてなにも変わらぬように見える。そしてまた次の波がやってくる。

 月の下、くろぐろと広がる砂は闇に似て。

 流した泪は砂に吸われ波に溶ける。そこには少なくとも目に見えるかたちではなにも残らない。のたうつように泳げば跳ね上がる飛沫、それこそがどちらにも受け入れられぬ泪のかたちか。

 ひとつは砂でしかなく、またひとつは波でしかない。ほかにはなにもない。それぞれの先に存在する筈のもの、たとえば海、たとえば浜は、確かに在るのかも知れぬが、月あかりでは見えない。ただ砂があり、波がある。そしてふたつが重なり混ざりあう刻がある。ごく限られた月の視野、月の時間。

 赤いあかい、月が見ている。天頂から水面から。堅く閉ざした瞼の裏から。永遠の満月が見ている。


 満ちた月。

 限られた永遠をそのなかで

 ――およぐ。


 匂いが残るのだという。男は静かな笑みを浮かべたまま言った。つながりは覚えていない。だからどうだというようなこともなく、ただ言った。言葉も想いも、いつもそこで終わる。

 なにもかもがそうだった。ぽつりぽつりと、断片が少しずつ積み上げられ、一夜が出来上がり、それがまたひとつの断片となる。次に積まれるもののことは考えもせず、それがいつの間にか積もってゆくだけのことなのだ。

 最後に残ってしまったワインをグラスに注ぎ、一息に干した。そしてすべてを残骸としてまとめ、グラスも洗ってしまった。残るのは、消し得ぬ匂いだけになる。自分に残るものと比べてどれほどの意味があるのか。朝が始まるときだけは、そう思う。


 ようやく差し込まれた朝刊はそのままにして部屋を出た。気に入りのイヤリングがないのに気付いたのは始発に乗った後で、降りる頃には諦めていた。朝が、来ていた。


 けれど一週間の後、忘れることに慣れた頃、それはふたつになって返ってきた。金色と、いつだったかどんな問いだったかも覚えていないが、欲しいなと答えた覚えだけは呼び覚まされた銀色の同じもの。いつのことか、数えることをやめてしまったのも遠い夜、そのあかし。

 てのひらでかすかな重みと輝きを確かめて、けれど飾ってみることはせず、引出しの奥に仕舞った。

 次があるなら。そう思わずにいられない未練も共に、深くふかく仕舞い込む。掘り起こせるのは、満ちた月に導かれる波だけだ。


 そしてまた繰り返す。いつまで続くかは知らぬまま、ただ寄せては返す波の如くに。

 月だけが、それを見ている。知っている。それでいい。


 次の満月は、遠い。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章が洗練されていて素晴らしいと思いました。 「月」の描写が綿密にされており印象的でした。 客観的なような文章ですが、実は彼への想いなどの主観も込められており、中々興味深いと思いました。
2015/12/18 14:40 退会済み
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