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「梅ちゃん」
姐ちゃんが呼んでいると、黒松梅園はぼんやりと、目を開けた。ベッドの脇で、化粧を済ませた黒松雪之丞の美しい顔がにっこりと笑う。
「おはよう。誕生日、おめでとう」
「……ありがとお……」
ぴょこんと跳ね起きると、雪之丞は今度は申し訳なさそうな顔で言った。
「ごめんなさいね、梅ちゃん。今日お姉ちゃん会議が入っちゃったの。今日は、お夕飯自分で食べてくれる?」
「わかった」
「明日は歌留多ちゃんも妾も早く帰ってこられるから、アナタの好きな中華料理食べに行きましょうね!」
「うん、そうだね!」
そんな風な。誕生日の朝。そして、一日が始まる。
朝から降り続く霧雨。それは午後になっても止まず。あいにくの雨で、部活は筋トレで終わってしまった。普段ならありえないほど早い帰宅。
時計の針は、午後四時半を示している。窓の外は、しとしとと降り続く雨。四日前に梅雨に入り、今日も教室の湿度計は八〇を越えていたのを思い出す。家の中も、空気がしっとりと肌にまとわりつく感じだ。玄関に入ると、まずすることが鍵をかけること。長年の鍵っ子としての習性だ。
誰もいない家の中。玄関先で、靴下を脱いで梅園はぺたぺたと廊下を歩く。洗濯籠の中に、靴下と、制服のポロシャツを入れる。ついでに、ズボンも脱いでしまう。それから、下着で自分の部屋へ。
ベッドの上に無造作に投げられている寝間着代わりのTシャツと薄手のジャージの下をのんびりと身につけると。窓辺から外を眺めた。梅園の部屋には、窓が二つある。それでもこんな天気の日は、電気をつけない部屋はどことなく薄暗い。しとしと降る雨の世界。まるで、海底のように重い。
「明日も、雨なのかなあ。体育、今、ソフトボールだからやりたいんだけど……」
そんなことを呟いてから、窓辺を離れた。テレビとゲームのスイッチを入れる。しばらくゲームに熱中していたが、そろそろ集中力がきれてきたところで。部屋の窓が、コンコンと音を立てる。隣家に密接した方の窓を開けると。隣の家の窓から、茶髪の少年が身を乗り出して居た。
「ひばり」
「梅園、今からそっち行くよ」
「いいけど。また?」
「そう。騒がしいのなんのって……っせと」
春朝ひばりは猫のように隣の家の窓から、梅園の部屋の窓へと乗り移る。歳が離れた兄と姉を一人ずつもつ梅園と反対に。従兄妹のひばりは年が近い三人姉弟の真ん中。
今一番の悩みは、家の中がしょっちゅう騒がしいこと。姉と弟がこぞって友達を引き連れて帰ってくるという。剣道部で高校二年の姉と。幼稚園で年長の弟。普段は、部活にいそしんでいるひばりにとっては。あまり気にならないような出来事も、今日のように雨で部活が早い日や休日などはもうウンザリしているらしい。
「なにやってたんだい? またXi!? ……梅園は良く飽きないよなぁ」
ズボンのポケットからスマートフォンを梅園のベッドの上に放り投げると。ゲーム機の前に座り込む。飽きないと言いながらも、ひばりも梅園の家に居る日は必ず一度はやっているのだ。今日もそうそうとコントローラーを握りしめている。
サイコロを転がし、画面上の他のサイコロをどんどん消していくこのゲーム。一見単純だが、一度始めると、なかなかどうして、熱中してしまう。現に、先ほど梅園に呆れたような口調で言ったひばりも、もう、画面に集中しているわけで。
「……ひばり、目」
「うん?」
「……まばたき。したほうがいいよ。目、ばりばりになるよ」
「うん」
その時、ベッドの上のひばりの携帯電話が鳴る。
「梅園、誰から?」
画面から目を離さずに、ひばりが尋ねる。ディスプレイには『炎天堂夏生』の文字。
「夏生」
「じゃ、出てくれないかな」
「オッケー。もしもーし」
電話の向こうの相手は、梅園が出るのを予想はしていなかったらしい。しばしの沈黙。
「夏生?」
「……梅園……?」
「ピンポーン!」
「……っつーことは、またひばりお前ん家なのかよ」
「うん。今、ゲームなう」
「あー、じゃ、梅園でいいや。お前、チョコと生クリームだったらどっち選ぶ?」
「ええ? チョコレートと、生クリーム?」
「おう」
「えーっとな……」
梅園が真剣に考え始めたのか。あまりの沈黙の長さに携帯の向こうから、堪忍袋が脆弱な作りになっている大きな声が梅園の耳にも入った。
「はやくしろって!」
「あははは、ごめんね。えっと、チョコレート!」
「わかった。じゃ、それだけ」
「うん」
電話をきり、フリップを閉じると。ベッドの上ではなく。ひばりの側に置いた。それから、もう一度窓辺に寄り、外を眺める。雨足が先ほどから強くなってきている。十分ほどぼんやり眺めていると、家の前の道を歩いてきた桜色と黒の傘がちょうど玄関先で止まる。上を見上げた視線と、梅園の黄緑色の眼が合う。
「あれれー? スピカ、と、夏生?」
思わず、雨が降っているのも忘れ、がらりと窓を開けた。
「ねぇ、梅園くん、おじゃ、お邪魔しても良いかしら?」
相変わらず落ち着いた穏やかな声のスピカ。
「いいけど……どうしたの?」
「いーから、早く開けてくれよっ、玄関」
夏生のせっかちな声に押されるかのように、梅園は慌てて窓を閉めると。ひばりに声をかけ、小走りで部屋を出ていく。
「おっまたせっ」
「おせーよ」
夏生の声。玄関の向こうには、その言葉とは裏腹な、友の笑顔。傘を閉じながら、梅桜スピカが口を開いた。
「はい。梅園くんに」
そう言って、差し出したのは白い箱。
「ありがと、てか、なにこれ?」
「あけ、開けてからのお楽しみよ。れいぞ、冷蔵庫、はい、入るかしら?」
「うん。たぶん」
靴を脱ぎながら、スピカは梅園の後についてきた。冷蔵庫の中に場所を作り、箱を入れる。夏生はどうやら、既に部屋に上がったらしく玄関には姿がない。階段を上る梅園の背中に、続く声。
「あのね、もうすぐ。桃華ちゃんたちも来るから」
「桃華たちも?」
首を傾げる梅園に、スピカは軽く微笑む。梅園が部屋のドアを開けると、さっそく夏生はひばりに交換して貰ったらしく。画面を見つめていた。にこにこと、夏生の隣に座り込む。梅園は隣に腰を下ろすスピカに声をかけた。
「スピカ。ありがと」
首を振りながら、スピカが笑う。波打つ髪が少し揺れた。
「あっち、大丈夫かしら。青葉ちゃんと桃華ちゃんだし」
スピカは少し、不安そうに言う。今度はひばりが笑って答えた。
「聡俊と吟がついてるから、大丈夫でしょ」
「……そう、そうね」
時計の針はいつの間にか六時半。窓の外はすっかり、闇に包まれ雨音と時折通る車の音が耳に入る。ゲームにもさすがに飽きた少年少女四人は。キッチンに移動することにした。家族が四人なのに、梅園の家のキッチンは広い。椅子に至っては八脚もある。
「そろそろ、来ても良いはずなんだけど……」
壁の時計を見上げて。スピカが口を開いたその時。折良くインターホンの音。四人そろって、玄関にぞろぞろと出ていくと。少少、いやかなり不機嫌そうな春嵐吟之助と、どことなく疲れた顔の蒼崎聡俊。ぼんやりした仏面頂の石菖青葉。それに、いかにも脳天気な如月桃華が立っていた。
「あやー……吟……怒ってるなあ……」
梅園の少しだけからかいを含んだ言葉に、吟之助はきっと、後ろの二人を振り返り。それから、今度は夏生に指を突きつけた。
「おいっ! 俺はもう、金輪際この二人の面倒はみねぇ!」
額に青筋を立てて怒鳴り散らす吟之助を、聡俊とスピカが宥め、梅園がうながす。四人がようやく家の中に入ったところで。
「で。例のブツは買えたのかい? 吟?」
ひばりが頃合いを見計らったかのように声をかけ、やっと吟之助の表情も微かに和らぐ。
「ああ」
うなずき合う友達に。梅園だけがきょとんとしていた。そんな梅園を引っ張って、七人は台所へと流れ込む。椅子に座らされたところで。
「じゃーん!」
桃華の手からテーブルの上に載せられたのが。
「あーケンタ!!」
梅園の麻婆豆腐の次ぐ好物。
「今日のお前の晩飯な。こんなで悪いけどさ。みんなで食おうぜ。今日、親が遅いって、朝言ってたろ?」
にかっと笑う夏生の顔。よくよく見てみると。みんな何だかとても嬉しそうだ。何が何だか分からないような表情の梅園に、チームメイトは次次に。
「じゃ、こっちもね。梅園くん、冷蔵庫を開けさせてもら、貰うわ」
スピカが先ほど冷蔵庫に入れた箱を取り出す。こちらもテーブルに載せられ、そのふたがそろそろと取り外される。そこには。チョコレートのホールケーキ。ホワイトチョコで出来たプレートの上には文字が書かれている。
「おたんじょうびおめでとう うめぞのくん」
ようやく合点のいった梅園が顔を上げると。友達はみんなとても柔らかい顔で、笑ってた。一部はあんまり変わらないが、雰囲気は穏やかだった。
「……みんな……」
夏生が梅園以外に目配せすると、それまで桃華が隠して置いたであろう包みが。
「はい。メインだよ。梅園、気に入ってくれると嬉しいけど」
手渡されるパステルカラーの丸い包み紙。開けろ開けろと急かされ。梅園も嬉しそうに、手を伸ばした。開かれる包みからは、白くて丸くてくりんとしたしっぽ。頭の横には。長い長い耳。そのふわふわの物体を。梅園は自分の方に顔を向けて手に取った。
「あー! これ!」
「梅園兄さん、春猫先輩が鞄につけていたの、すっごく……羨ましそうに見ていましたよねえ……?」
いつもの如く、ぼんやりとした口調で青葉が言った。
「…………」
黙りこくる、今日の主人公。ややうつむき加減な顔からは、その表情が見えない。周りの六人も、固唾をのんで反応を見守る。
兄は成人しており姉が寮に入っているため、一人っ子に近かった梅園。鍵っ子で、帰る時はいつもどこか寂しそうな目をしていた。音楽総合部の仲間達が出来て。それはそれは、毎日が楽しそうな顔をするようになったと。幼い頃から、梅園を知っているひばりから聞いて。
明るくて元気で、でもどこか抜けていて。それでも、誰よりも優しいこの少年に。精一杯のお祝いをしてやりたかった。その気持ちに、皆、賛同したわけで。
「……う、梅園? ……まずった?」
ずっと口を開かない梅園に。おそるおそる夏生が声をかける。その問いに。ぶんぶんと頭を降り、梅園はやっと顔を上げる。
「みんな……ありがと……すっごい、嬉しい……」
半泣きの笑顔。それを見て、すぐにひばりが梅園の頭をわしゃっと小脇に抱える。
「おめでとう! 梅園」
それに続くかのように。「おめでとう!」の嵐。梅園にとって、涙が出るほど、嬉しいことで。みんなが自分のことを考えてくれたと言うことを感じると。叫び出したくなるくらい、満たされた気分になった。
「……みんな、だいすきだー!」
いつもの調子に戻って、そう大きな声で言う棗に。それぞれが、安心したような顔を見合わせる。雨の日の、海の底のような日だった誕生日。しっとりと、心の中に染みた。