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Stand Alone Stories

散歩

「ねえ。鳥が鳴いているわ」

「そうだな」

 全く、色気のない会話である。しかし会話に色気も何も、あるものだろうか。

 鳥でも泣いていなければ、辺りには静寂があるばかりである。夏はまだ来ない。ただ、寒くもないし熱くもない、麗らかな春なのである。

 そして僕は、ただ散歩をしているだけだ。

 僕と女とで、夕方の暗い夜道を歩いている。歩き続けている。ただ時間だけが過ぎていく。

 鳥が鳴いているから、どうだと言うのだろう。静寂がどうしたものか。歩き始めてから今まで、僕と彼女との間に交わされた会話はそれただ一度だけだったが、しかし散歩をしているならば会話の一つ二つあるものだと言う法は無い。

 ただ鳥が鳴いている。そう思ったから、彼女はそれを口にしたのだろう。しかし何のためにであろうか。普段は全く口を開かない少女である。

 鳥が鳴いているわ、という抑揚もない語調には何も意図する所は感ぜられないし、彼女は僕の顔を見て言ったと言う訳でもない。僕は彼女の方など見ていないからだ。彼女は僕が彼女の方を向くように、さては仕向けたと言う訳だろうか。僕がただ前を向いて、そうだな、とそれだけの返事をしたことに対して、或いは、何か僕を怨みに思う気持でも、沸き起こっていやしないだろうか。

 それなら、それでいいじゃないか。ただ何の目的もなしに、いや、散歩をしたかったからという事はあるが、僕はそれなら一人でも外へ行くなら何所へでも行く気で有った。そんな折、彼女が言ったのである。

「私も付いていく」と、そう言ったのである。

 特に、それについて思う所もなかった僕は、彼女がどうして突然そのようなことを言ったのかもわからなかった。僕はただ散歩に行きたいだけだ、付いて来ても面白い事なんかはないだろう、そういうつもりで、それ以上に目的は何もない、始まりがあるならまた終わりもあるのだ。だのに、彼女は僕に付いてくると言った。それなら、そのようにすればよい。僕は何も一切返事を返さなかったが、彼女はそれを肯定と受け取ったのか、そのまま僕の後について来ている。

 時々よろめいている所を見ると、確かに外に出るのは久しぶりで、これだけの距離を歩くのにも彼女は苦心を余儀なくされている。どうして付いてこようなどと思ったのか。疑問には思うが、それ以上に気にする事でもないので、ただ僕は歩くのである。それに、ただ彼女は付いてくる。彼女は跣足だ。もちろん、僕は彼女に対して靴を買ってあげる義理は無い。付いてくると言ったのは彼女の意志であり、僕はただそれを、眺めているだけである。彼女がよろけると、鎖がちゃりんと音を立てる。

 運が良くと言うべきか、とにかく人通りなんてものは無かった。薄暗がりの中、鳥が鳴いている。春が麗らかであるのは、夕方もこうして快適であるからだ。鳥が鳴いている。いったい何と言う種類の鳥が、この夕刻に鳴くのだろうか、僕はそのような事は知らないし、興味もない。 

 ふと、彼女のために鳥でも買ってやろうかと思った。気まぐれだ。彼女は、もしかしたら鳥が欲しいのかもしれない。それがふと、遠まわしに口を突いて出たのかもしれない。――思えば、彼女が自分の意思を口にしたのは、初めてではなかろうか。僕が散歩に出ると言うのに、付いていくと、はっきりと意思を示したのが、確かにそれが初めてであった。数えるほどしか口を開いた事も無かったのに。だが、それも悪くは無い。そういう変化が見られないと、そのうち僕も飽きが来てしまう、そういう性質のものだろうと、彼女が無意識のうちに本能でもって察して、ただ付いていくと言っただけの事であるかもしれない。その空想は、間違いではないだろう。でなければ、僕はこうして、ただ一人で散歩をしていたのだろうから。

 鳥が鳴いている。しかしそれもじきに止むだろう。夜に有るのはただ静寂のみである。散歩とは一人でするものだと、僕は長らく、一人の思索のためにそれを利用しているに過ぎなかったので、ただそう思っていたのが、こうして女を連れて出てみると、考えることもあっちへ、こっちへ、と流れていくものだ。寂寥も惜しくは無い。僕が足を止めると、後ろについて来ていた彼女も足を止める。鎖が、ちゃりんと音を立てる。

「鳥が欲しいか」こうして、彼女にものを尋ねるのは、僕もこれが初めてである。僕は彼女の方を向いた。彼女も、僕の目を見た。すでに日は落ちている。完全な薄暗がり、ぽつぽつと足元を照らす路のガス燈が蛍のように続いているのが見える、そんな暗がりの中でも、僕は彼女の顔がはっきりと見えた。視線がしっかりと合わさっているのを感じる。何やら、熱く感じる。

「鳥が、欲しいか」しかし鳥など買ってやれる金は無いが、もう一度、訊ねた。

「いらないわ」彼女は僕の眼差しを受けながら、そう言った。もちろん、真実など語る口ではない。ただ何の気なしに、僕の散歩について来て、鳥が鳴いている、そう言っただけの少女である。なるほど、いつも檻の中に閉じこもっていたような彼女であるが、次第に慣れてきたのか、僕の歩くペースにしっかりと付いて来ていた。先ほどふらついていたのとは、幾分か違って見えるようだった。足取りが確かなものへと変わっていくのを、僕は手で感じていた。

「籠の鳥と言うのは、――」僕は再び、意味のない事を口走った。

「――どういう訳だか、あまり外に出たがるものではないらしい。餌をもらって、ぴーちくぱーちく。そうやって主人の慰みに時々鳴いてやり、そうすれば、時折籠からは出してもらえるが、しかしその場から逃げたりする事もない。

 逃げるのは、主人に対して恩が無いやつだ。自分の代わりなどいくらでもいる、鳥がそう思うかは知らないが、自分が逃げて主人が悲しむと言う事を、――もっとも鳥の頭だが、そうとはちっとも思わない。逃げる鳥は、ずるいと思うか」

「思わないわ」

「しかし、お前は、今こうして僕に連れられて、外に出ている。地べたに足をつけて、歩いている。それは確かだ、――」民家の玄関の、小じゃれた燭台の灯りにたかっている蛾に一瞥をくれる。あれも、どうあってもそういう性質のものなのだろう。そうして身を焼かれるのだ。偽りの恋のために。或いは、そこに求めるものがあると信じて死んでいくなら、本望なのかもしれない。

「――今日お前は、逃げようと思っていただろう」僕は、焼け落ちた蛾を眺める。

「思っていないわ」彼女の首輪が、電燈に照らされて鈍く光った。

「それどころか、僕を殺そうと考えていた。違うか」

「そんな事、考えていないわ」彼女の表情は、どことなく悲しそうだった。

「どちらにせよ、僕の気まぐれも、――それこそ気まぐれさ。お前を外に連れ出して、こうして首輪をつなげたまま、君は素裸だ。こんな痴態を、誰かに見られたらどうなるかもわからない。僕も何を考えていたのかよく解らないんだ。お前は、僕を路傍の石で持って殴り倒せば、逃げられる。この首輪につながった鎖でもって、僕を締めあげる事だって出来るだろう。そうすればお前は、自由になれるじゃないか」

「恩があるから、そんな事はしないわ」そう言って彼女は微笑む。よく解らない。

「ああ、さっきの話か。別にアレには意味はないさ。鳥が鳴いていたと、お前が言ったのをどういう意味かと考えていたら、あんな事が口を突いて出たんだ。僕は、お前が逃げても一向に構わない。いっそ、僕を殺してくれればいいとさえ思っているんだ。その事を咎める気持ちなどは、ついぞ殺されようとも僕には一切無い」

「私が逃げたら、――」女の眼は、悲しそうに、可哀そうなものを見るような眼で、しかしどこか哀歓を以て僕を見据えていた。

「――あなたは、死んでしまうでしょう」僕は急に、惨めな気持ちになって、彼女から目を背けた。

「それは、どうだかわからないがね。お前は僕が死ぬ事を恐れているのかい」

「そうよ」

「僕は君を、家畜のようなものとしか思っていないんだよ」

「家畜でも、生きているわ。私はあなたに生かされている。あなたの家は、私の家。私のいる所が、あなたの帰る場所。私の居場所が、あなたの居場所。だから、あなたの生きる理由は私。私が生きる理由も、あなた」

「良く言ったものだね。それは、愛とか言うやつなのかい」

「いいえ、あなたが言った、恩よ」

「解らない、お前の言う事は解らない。さっきの僕の話には、確かに籠の鳥に逃げられた主人が、何をどう思うかと言う話はしたが、お前が逃げようが僕には大した損害にはならないんだ。僕がただここに居る事には、変わりない。何のためにか。さあ、――どうだろうね。お前の変りになるような物も、或いは幾らでも居るだろう」

「私には、あなたの家以外に行くところなんて無い。だから、逃げる必要もない」言いながら、女はそこにしゃがみ込んだ。少し身震いをしたかと思うと、その場で放尿を始めた。

「私は、この程度のものよ。そして、あなたもこの程度のものだわ。私がいなかったら、きっと」尿を絞りながら、女は笑った。暗がりで、うつむいて、流れていく尿を見つめながら、僕には彼女の表情は見えないが、確かに彼女は笑っていたのだ。外壁の陰であったが、流れてきた尿が僕の足もとまで辿り着き、靴の周りに染みて行く。

「済んだか」

「済んだわ」

「どこにも行く当てが無いのは、僕も同じなのだ。僕の家には、この春の先に食べていくための財産も何も、蓄えなんて何もないのだ。あの冬の日に、打ち捨うっちゃられていたお前を拾って帰ったのだって、気まぐれの為せる業さ。ようするに、どうしようもない。お前が付けている首輪は、手錠もだが、僕の父が付けられていたものだ。ようするにそれ以外に残っているのはあの家だけだ。父が名誉を亡くした時点で、僕も打ち捨うっちゃられるだけのものさ」

「あなたの名前を教えて」

「名誉を亡くしたと言ったろう。名前などにそれ以上意味はないが、僕はそれも亡くしたのだ。本音を言うと、この散歩は、行くあてもないが同時に、帰り路も用意して無いのだ。ようするに、お前を家に残して何所へ成りとも逝こうとしていた」

「だから、私は付いてきた。貴方に死んでほしくないから」

「それだけの理由がお前にあるのか」

「ただ、何となく、もう少しあなたと生きてみたいと思ったから。鳥が鳴くのも聞けなくなるわ」慮外な事を言うものだ。

「僕がお前を拾って帰ったのは正解なんだろうか」

「たぶん失敗だと思うわ。あなたの望みどおり死ねなくなってしまったのだから」

「ああ、ション便くさい話だな」

「あなたもすればいいわ」

「それもそうだ」

 言われるがまま僕も、その場で放尿した。別段気分の晴れるものでもなかったが、しかし心地よいものだった。壁なんてものは小便を掛けるものだと相場が決まっている。それが済むと、僕はポケットから財布を取り出した。

「これが、その首輪の鍵だ。手錠の鍵がこれ」それぞれを取り出して、電燈の光にかざしてみる。好き通ったりはしないが、また鈍く輝いた。

「私は、このままでもいいわ。これが無くなったら、ほんとに素裸だもの」

「そうか」僕は再び、二つの鍵を財布に入れた。財布のふくらみは、その鍵によるもので、小銭は一銭も入っていない。その変わり、札は数枚ねじ込んである。正真正銘全財産だ。あんなあばら家も土地も、大したものではない。この紙切れだけが、僕の命の拠り所なのである。

 先年の冬の日、晦日だったが、働いていた酒場の裏手のゴミ捨て場に、彼女はゴミのように棄てられていた。薄汚れた雑巾のような布一枚を纏って、くるまれていたと言うのが正しいのだろうが、ただ物も言わず震えていた。

 力なく投げだされた四肢には、青あざが無数に作られ、擦り傷と乾いた血の黒いのとで、無様に彩られていた。息があるのが不思議だったが、近付いて見てみると、その少女は美しかった。幸い、顔に傷は付いていなかったが、唇は真っ青で、口の中を切ったのか血の滴が垂れていた。

 僕は、そこの酒場を首になった直後で、最後の給金袋を握り締めながら、裏口を歩いていたのだ。彼女は、しかし生きていた。生きているのが不思議なほど、全身には激しい行為の痕跡が残されていたし、性器も惨たらしく腫れあがっていたが、彼女自身は痛みなどとうに感じていないのであろうか。

 そんな彼女を、僕はおぶさって家に連れて帰ったのだった。こんな所で死なすのも何だか悪いような気がしたからだ。他に理由は無い。死んだら死んだで、家の外にでも埋めておくつもりだった。しかし、彼女は生きたのだ。

 その後は、首輪をはめて、家畜のようにして、戯れに養った。

 傷の手当てなどは一切していない。ただ、タオルで拭いてやっただけである。だから死んでもおかしくは無かったのだ。しかし、彼女は生きている。それ以外、僕は殆ど彼女の身体にも、触れていないのだ。だが、彼女をこんなにした奴らと、別段変わらない仕打ちを僕は恐らく彼女にしているのだろう。

いったいどこからきて、あんな目に遭ってしまったのか、僕は彼女には何も聞いていない。そんな事には興味もないからだ。彼女は殆ど喋らなかったが、僕に敵意を向けたりはしなかった。安い麦飯を口にしながら、彼女は唯僕を見つめているだけの日々だった。

「さて、どこに行こうか」小便を済ませると、僕はまた彼女へ問いかけた。

「私、海が見たいわ」彼女は眼を輝かせてそう言った。無邪気なものである。しかし、一種の哀歓はそこにたゆたっている。と言うのも、僕が生きてみようかと思い直したのを、どうやら察したらしい。

「面白くもない事を言う。だがいっそ、海に身を投げると言うのも良いかもしれない」

「違うわ、魚でも取りながら、海辺で暮らすの」

「鳥の次は、魚か」

「私、鶏肉って好きじゃないの」

「僕は肉なんぞ、数年口にしていないがね。さてはお前さん、どこかの没落貴族か何かかね」

「ねえ、あなたの名前を教えてよ」

「お前のが先だ」

「あなたが先よ」

「お前が、いや、いい。僕は……ルーランド・クランベル。殺人鬼ルークラッド・クランベルの息子さ」自分の名前なんて口にしたのも、何年振りだろうか。

「じゃあ、私はルーテシア・クランベル」

「おい待て。じゃあ、ってのは何だ、嘘はよせ」

「嘘じゃないわよ、私の名前は、ルーテシアよ、本当に」

「いや、どちらにせよ、クランベルを名乗らせるわけにはいかない、罪人の名だからな。僕はなぜ生きているのか不思議だ。しかし、ルーテシアと来たか。本当は、あともう少し長い名前なんだろうな。奪われて、売られて、捨てられて、そんなだったんだろうな」

「あなたが私に首輪をつけたあの時から、私はあなたのものなのよ」

「いや、ただ捨てておけば良かったと思ってるよ」

 しかし、もう何時間もこうして歩いて来て、すっかり日は落ちている。眠ったほうがいいのかもしれないが、見ての通り彼女は全裸である。首輪は嵌めているが、これは衣類ではない。しかし、幾らなんでもなけなしの金を、彼女の服に使うのは憚られる所である。生きると思ったからには、僕はとことん汚くなれるのではないだろうか、何せあの父親の息子である。

 とりあえず、僕は来ていたジャケットを彼女に着せた。僕の一帳羅である。

「これ、素裸よりも、変態のおかしい人みだいだわ」おまけにション便臭いのである。僕の一帳羅がション便臭くなるのが、悲しいと感じるのは、生きようと思ったからだ。こうして生きて行くからには乞食の真似事もしなくてはならないし、――真似事ではない、乞食そのものである。

「夜が明けるまで、歩いてみようか。跣足で辛くないか、ルーテシア」

「辛くないわ。ね、ルーランド、そしたら、明日が来るのよ」

「そうか」

 歩けるところまで、歩くだけである。南に行けば海があるだろうか。

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