自己紹介
俺が眠っていた場所は、建物の二階にある部屋だった。一階に降りて、近くの椅子に腰掛け、話を再開する。
「さて、それで何が聞きたい?」
「まずは、俺のことだ」
「そう、だったな」
エルザは言いにくそうに返事をして、水をとりに一度席をたった。
「最初にいっておきたいことがある」
水を入れたコップ二つが机におかれる。
「先ほどのやりとりから分かっているとは思うが、私は貴様に貴様が何者なのかをいえないし、またなぜ記憶がないのかもいえない。どのように記憶を失ったのかも、だ。だが、貴様がそれを知りたいというなら手伝うことはできる」
さっきのはそういう意味だったのか。わからなかった。エルザは一度息をきる。
「貴様には二つの選択肢がある。一つ、このまま自分が何者だったかを知らずに平穏に暮らす。貴様の生活の安全は私が保証しよう。二つ目は、まったく逆だ。それ相応の覚悟がいる」
ゴクリと喉がなる。エルザの目は本気そのもの。決して驚かそうとしていっている冗談の類ではないだろう。手元におかれた水に手をのばす。その手は震え、水のさざめきが視界に映った。
「己の真実を知る為の旅にでることだ。道中様々な障害にぶつかるだろう。いろんなものとその体とその剣で戦わなければいけない。命を落とすかもしれん」
腰にささっている剣をみる。漆黒のそれは、何を思っているのか。だが、答えてはくれない。じゃあ俺は?
そんなリスクを背負ってまで自分のことを知りたいかと問われると、素直にうなずけるかどうかわからない。
「それに、たとえそのすべてを知ったところで幸せになれるとは限らない。むしろ真実を知ったことで被る害の方が多いかもしれない。それでも貴様は真実を知りたいといえるか? 記憶だってもう絶対戻らない。もう、貴様と前の貴様は同じ人間ではない。同じ姿の他人だ。今ならさっき部屋で行った誓いを取り消せるぞ。あれは事情を知らなかったしな。いきなりでびっくりしたのだろう。もう一回考え直してみろ」
一つ一つの言葉が刃となって胸に刺さる。耳元で誰かがささやいた。なにをためらう。生活の安全が保証されているのだぞ。何も知らずにのうのうと暮らせばいいではないか。それが皆の幸せだ。後悔する前に引き返せ。
そのささやきが決意したと思っていた心の壁をもろくする。壁はどんどんはがれボロボロに崩れ落ちた。
無意識の内に漆黒の剣の柄を強く握りしめていた。
「真実なんか知らなくてもいい。戦うとかよくわかんないし、苦しいのもいやだ」
一言一言をかみしめるように言う。下を向いたまま、エルザと目をあわそうとしない。エルザはそうか、と小さくつぶやいた。
「でも、」
キッと顔を上げ、エルザを真正面からみる。迷いは、ない。
「そんなのかっこわるい。何も知らずにただ暮らすなんて」
……思い出した。かっこわるいと思ったのは本当だ。だが、それは何も知らずに暮らすことに、だけじゃない。
俺は、彼女を、エルザを泣かした。
夢の中のおぼろげな記憶だが、それは確かだ。
なぜ彼女は泣いたのか。
俺は何を願い、何を代償にしたのか。
それが知りたかった。エルザを泣かせたまま、何も知らないで暮らすなどかっこわるいと、思ったのだ。
「ふっ。そうか」
エルザはうれしそうに、だけど少し寂しさも混じっているような笑みを浮かべた。だがそれも一瞬。すぐににんまりと笑った。ぞっとするほどの満面の笑み。
「よろしくな、フォル」
「ああっ」
それが俺の名前だとすぐにわかった。
がっしりと握手をする。
その後は説明もなにもなくただついていくだけだった。最低限の荷物を建物からもって出る。
そこでようやく自分以外のことに考えを回せるようになった。
辺りを見渡すと見えるのは自分が寝ていた建物だけだった。あとは木だけ。
これは、森の中に建てられていたのだ。
「なんで森の中にすんでたんだ?」
エルザはすっと目を細め、懐かしむように遠くをみた。
「そういえば、気付いたらいつのまにか木がこんなにも成長していたな。昔はここも立派な街だったのに……」
「そんな……」
俺はいったい何十年眠っていたのだろうか……。
「というのは嘘だ」
「うそかよ! びっくりした……」
エルザは涼しげな顔をして、相変わらず遠くをみている。
「ほらそんなつまらん冗談につきあっている暇はない。早く出発するぞ」
「だれがいったんだよ……」
「何かいったか、フォルよ」
残忍な笑みを浮かべるエルザ。喉元にはすでに短剣があてられていた。
「いやっ、刺さってるから! 血! 血がっ!」
「安心しろ。痛みは一瞬だ」
「ほんっとにごめんなさい。さすがにやばい。あっ、声がぁ。たすけてぇ……」
「今回は何もしないでやろう」
のどは焼けるように痛み、叫ぼうとしても声がでない。この様子だと三日はしゃべることができないかもしれない。
……なんて無茶苦茶な奴なんだ。
エルザは血のついた短剣をなれた手つきでふく。
「げほっげほっ」
理不尽だが、これからは思ったことはあの野蛮な奴には口にしないほうがいいだろう。
「誰が野蛮だって?」
ひきつったような笑みが目の前に現れる。
「ギャー。化けものぉぉ!」
おもいっきり殴られた。
人の思考をよまないでください……。
「ってあれ?声がでる」
変だな。あんなのふつうの人だったら即死すらありえるのに。
「だから言っただろう」
エルザが偉そうにいう。
お前のおかげじゃないだろ。
シュッと耳の横を何かが通る。
バゴンという破壊音とともに、後ろにあったはずの木々がみるも無惨な姿に変わり果てた。
「次は、ないぞ?」
短剣を構えたままのエルザが殺気をふりまく。
もうやだ、この人……。
「ほら時間がないんだ。早くいくぞ」
さっさといってしまうエルザ。
「待ってってばっ」
ふと気になって、後ろを振り返り小屋をみた。
「いってきます」
小さくささやく。
天気は晴天。晴れ晴れとした空に太陽だけがぽつんといる。それに寄り添うようにあるちっぽけな一つの雲。それは太陽を隠すことなくその光をあびて、共に輝いていた。
記憶をなくした俺が知ったのは二つのこと。自分の名前と一人の女の名前。それがこの世界で自分が知っている唯一のことだった。
ただ、それだけでもいいんではないかと、空をみて思ってしまう。
太陽は輝き続ける。
「ではさっそく王都に向かうぞ」
元気に言うエルザ。
「王都?」
「ああ。勇者に会いにいく」
頭の中のはてなが増える。どうやら教えてもらわなければいけないことはたくさんあるようだ。
「ちょっとまってよ。どういうこと?」
だがその声は届かない。エルザはどんどん先に歩みを進めていってしまう。
速すぎる太陽についていけなかった雲は遠く、もう小さくなってほとんど見えなくなっていた。
「待ってってばっ」
旅は始まったばかり。だが、先行きに不安を感じずにはいられなかった。