目を覚ますと……
さっきのは夢? ひどくおぼろげな記憶の中で、そんなことを思った。
だがすぐに思い直す。夢とは本来、そういうもの。霞のように不確かで消えやすいものだ。
「まぶしい……」
たくさんの色が一気に視界を埋め尽くす。まるで一回も光を知らずに生きてきて、今初めて目を開けたのではないかと思ってしまうほどその光はまぶしかった。
じょじょに、視界の端で点滅する光が収まり、太陽の光を反射する川面のように美しい模様を天井に照らす様が見える。
「うーっ」
思わずうめき声をあげる。体の節々が痛い。カチコチに固まって、うまく動かない。
「うぅん……」
思わず今度は艶めかしい吐息ににた声が漏れてしまった。
「なっ!?」
自分の声に思われたそれは、隣で寝ている女のものだった。
大声をあげたせいでその女はだるそうに起きあがり、こっちを眠そうな目で見つめた。さらさらと流れる鮮やかな黒髪。その長い髪を鬱陶しそうに手で無造作にかきあげる。
はっと息をのむ。神がいたのだ。
意志の強そうなつり目に無表情な顔。何かを見ていそうでいて、だが実際は何も見ていないという矛盾したように感じる紫紺の瞳。その瞳には何色も映っていなかった。
年は24、5くらいだろうか。若くも見えるし、その表情は数千年を生きた賢者をも思わせるほど、たくさんの何かを背負っているように見えた。
それらすべてが窓から差し込む白い光に包まれ、神話的な何かを放っていた。得体のしれない恐怖が、彼女に神の片鱗を感じさせる。
ふいにこちらを向き笑みを浮かべた。背筋がぞくっとする。憂いに満ちていた表情から一転、まるで殺人鬼のような残酷な顔に変わってしまった。つりあがっていた目はよりつりあがり、無表情だったはずの口は好戦的な野獣のような笑みを浮かべている。
「ーーっ、うわあああああ」
殺される。ただ単純にそう思った。それは絶対的な力に出会ったときに似ている。圧倒的な力。恐怖で頭がおかしくなりそうになる。ベッドから転げおちながら必死で出口を探す。机。窓。ベッド。血走った目で辺りを見回す。そこでやっとドアを見つける。走る。だが、足がうまくうごいてくれない。
ーーなんだってこんなときに!
ハァハァハァ……。動け動け動け!
ドアノブに手をかけた。
「よし、これで助かる……」
「なにが、助かるって?」
喉元に鈍く輝く何かをあてられ、身動きがとれなくなる。
一瞬で距離をつめられた。
あんなに苦労してたどり着いたのに。
もう抵抗する気力はのこっていなかった。へなへなと崩れ落ちる。
「貴様は何者だ?自分が何者かわかるか?」
何をいっているのかがわからない。自分が何者かわかるかって? その質問の意図がわからなかった。怪訝な顔をすると、つきつけられている何かにぐっと力が入る。
霞がかった夢の断片が、記憶を刺激した。何かを思い出しそうだ……。
「いいから考えろ」
有無をいわさない口調。
「わかったからそれを降ろしくれっ」
そう訴えると渋々それを降ろす女。ここは命がかかっている大事な場面だ。慎重に答えなければいけない。決して他の人とは違うことがあってはだめだ。あくまで平凡で。変なところがないようにきちんと考えてから言おう。
「俺は……」
俺は……。俺は?
血の気が引いていく。まさか。いや。そんなはずは。答えられなかったら殺される。まずい。なんでもいいから言わないと。口がパクパクと動く。言葉にしようと思ってもでてこなかった。霞はまだかかったままだ。振り払おうとしてもなかなか消えてくれない。
汗が頬を伝う。それは切り詰められた糸を引きちぎるにはちょうどいいきっかけ。いやな空気が支配するなかで二つの影はぴくりとも動かなかった。ただ、頬の汗だけが動く。頬を伝い口元を通り過ぎ、あごにつく。そのあごに集まっていく汗。スローモーションのように汗が落ちていくのがわかる。
目をつぶる。終わった……。
ポタリと水滴が床に落ちたと同時にチャキンと金属の当たる音が聞こえた。
できるだけ痛くないといいなあと、現実逃避を始める。
ふいに笑い声がきこえてきた。
幻聴か……?
と思い、目をおそるおそるあける。そこには笑っている女がいた。
一体どういうことだ? ここはもう天国か?
「どうやらお前は本当になくしてしまったようだな」
なにがおかしいのか、女は笑いながらそういった。
「どういうこと? あんたは誰?」
「本当にその質問でいいのか?」
女は急に真面目な顔をしていった。変なことをきいた覚えはないが。
「何かを欲しいと思ったら、何かを代わりに差し出さなければいけない。タダで手に入るものはないんだ。それなのに……、一番最初に聞くことがそんなことでいいのか?」
この女の素性はそんなこと、ではなかったが女の言いたいことはわかった。
「じゃあ、きくよ」
こんなこと誰かに質問したらきっと怪訝な顔をするだろう。頭がおかしくなったと思われるかもしれない。だが、この女ならわかると思った。答えを知っていると。
「俺は……。俺は、誰だ?」
それはあまりにもアホな質問。だが女は笑う。嘲りの笑みでも、哀れみの笑みでもない純粋な笑み。
深く息をすう女。まるでこの時を待ちわびたかのような顔をみて、ああやっぱりと思う。
女はこの時を本当にずっとまっていたのだろう。ずっと自分の隣で。
いったい、どれくらい待っていたのだろうか。数時間? 数日? 数年? わからない。100年分の言の葉を風にのせるように、口から音を紡いだ。
「己の真実を知りたいか。それともこのまま朽ちたいか。誰が為に剣をふるい、誰と共に背中をあわせる」
歌うように語りかける。
「貴様の色は何色だ?」
「あなたは?」
「わが名はエルザ。何色にも染まらない黒色だ。いかなる道でもついていこう。それが私の、お前への贖罪だ」
剣の柄をこちらに差し出す。その剣はまがまがしいほどに黒かった。女の……、エルザの黒い髪よりも黒い。まがまがしいほどの漆黒色だ。
「この剣をとってしまったら、あとには戻れんぞ」
それは、どこかで聞いたことのある台詞の気がする。記憶がないはずなのに。すべての記憶が。だからそれがなぜかおかしかった。
あの剣のように道は真っ黒。なにも見えない。ただ闇が広がっていた。
何かが自分の心の中で暴れる。衝動的な何かが、己を突き動かす。ほぼ無意識のうちに剣の柄を掴んでいた。
だが、口はそれを待っていたかのように、言葉を吐き出す。
「望むところだ」
まっすぐにエルザを見つめる。
だが、その考えは甘かった。この荒涼とした、魔物達の闊歩する世界で、それをまざまざと思い知ることになった……。