「或る少年少女の夜想曲」
──血の、匂いがする。
少女は鼻腔を擽るその微かな異臭に目を覚ました。部屋がとっぷりと闇に溶け込んで、物音一つしない、静かな静かな夜だった。
──彼が、いない。
少女は、眠るまでずっと自分の側に寄り添っていた少年の姿がないことに気づいた。確かに隣で座って手を握ってくれていたはずなのに。
彼の座っていた椅子に手探りで手を伸ばす。ひんやりと冷たい。
──いつも、そう。
少女は彼が黙っていなくなることが嫌で嫌で仕方がなかった。この感情が何なのかはわからなかったが、寝静まった頃にこっそりといなくなって、少女の知らないところで知らないことをする少年を浮かべては胸が圧迫される思いがした。
否、知ってはいた。
彼が何をしているかも。どうして隠しているのかも。
少女は全て知っていた。
少年は人間ではなかった。けれど誰よりも人間に近しい存在だった。ただ、違うのは。
遠くから小さく扉の軋む音が響いて黒い影がぼんやりと映る。寝たふりをして様子を見る少女の元に足音を立てないように少年が近づいて来た。
そのままそっと少女の額をなで、毛布を肩まで引き上げると、そのまま去ろうとした、瞬間。
「ねぇ」
少女の呼びかけに、少年の身体がビクリと震えた。少年のその淡い銀色の瞳が闇に反射し、少女を捉える。
「……起きてたんだ」
「うん」
少年は気まずそうに頭を掻き、視線を落とした。眼が慣れて少年の動きがよくわかるようになる。俯くと共に彼の瞳と同系色の髪がさらさらとしなだれた。少女はその身を起こして少年の袖もとをこちらに引き寄せた。
──やっぱり、血の匂い。
独特な、鉄錆の匂いに少女は静かに黙祷した。
──また、誰かを喰ったのね。
あえて口には出さなかった。少年の瞳が辛そうに歪むのがわかっていたからだ。少年も少女の手を振りほどいて側を離れようとはしなかった。
──また、誰かが死んだのね。
少女は心の中で思う。それも口には出さなかった。出せなかった。何故なら。
「……何処に行っていたの?」
少年の顔を真っ直ぐ見据えて問いかけると、彼は暫く押し黙り、やがて弱々しい声で呟いた。
「……散歩、をしに。……外の空気を……吸いたくなって」
すぐに嘘だと理解したが、少女はそれに小さく「そう」と答えてそれ以上追求はしなかった。
生き物の生き血を吸わなければ、彼自身が生きていけない。そういう、“決まり”だからだ。
彼は人間ではない。誰よりも人間らしく、誰よりも人間に程遠い、ひとりぼっちの吸血鬼。
⁑⁑⁑⁑⁑⁑⁑
少年と少女が出会ったのは偶然に等しかった。ただの神様の気まぐれで二人は出会い、そして疎通していく。
少年は昔から恐れられていた。自ら近寄るものなどなく、ずっと独りで過ごして来た。だから、初めての彼女のような存在に戸惑い、失いたくない一心で、最初は彼女と距離をとった。
近寄ったら、殺してしまうかもしれない。側にいたい。だから、拒絶しなければ。
でも少年はそう思う反面、否定され続けたその身体を震わせていた。虚ろな瞳から涙をこぼれ落としていた。
少女は思う。
彼を、守らなければ、と。
目の前でポロポロと涙を落とす、弱い弱い存在を少女は抱きしめた。少年の方が体格が大きいため、彼の身体を包むと自然と腕が届かない。寂しい気持ちを覚えてぎゅっと手を服ごと握りしめる。
少年は何も言わなかった。彼女を引き剥がしもしなかった。二人の間には優しい時間がゆっくりと流れていった。
⁑⁑⁑⁑⁑⁑⁑
少女は、少年に隣に座るよう促し、それに少年は静かに従った。ギシッと軋みながらベッドが二人を柔らかく支える。その拍子に再び彼の匂いが鼻を掠めた。
──血の匂い……だけどこれは。
「人間じゃない」
──人間ではない、小動物の、匂い。
少女の唐突な言葉に少年が不思議そうに首を傾げる。
「何?」
「……なんでもないの。……ありがとう」
「……?」
少女の礼に思い当たる節がなく、少年はまた首を傾げる。少女は黙ってそれを見つめ、ゆっくりと彼の肩に身を寄せた。身体を預けるように力を抜くと、しっかりと少年がそれを支えてくれる。
──ありがとう。
少女は頭の中でその言葉を何度も呟き、そして視界を瞼で塞いだ。
──ありがとう。“お願い”を守ってくれて。
少年の温かさにふいに昔の記憶が蘇った。
少女は少年が人間の血を啜るのを目撃してしまったことがあった。いつもは優しい銀瞳で少女を見るのに、その時は違った。血のように紅く発光する瞳で、だらりと腕を垂らしたまま動かない女性の首筋に顔を埋めながら血を貪る少年の姿。今でもはっきりと瞼の裏に焼き付いていた。
それから、少女は少年にある“お願い”をしたのだ。
『どうか、人間を殺さないで』と。
勿論それがどんな意味か解っていた。少年にとってそれがどんなに酷なことかも。ただ、そう言わずにはいられなかった。少女は、少年にこれ以上“人殺し”をして欲しくなかった。
少年は暫く押し黙ったまま苦々しい表情をしていた。喉元まで迫る言葉も、口が上手く回らずに伝わらない。
とても長い時間を二人は過ごした。やがて少年が小さく「いいよ」と呟くまで。
それからというもの少年は人間の
生き血を啜らなくなった。直接少女が見たわけではないから正直それは推測でしかないけれど。ただ少年から以前のように人間の香りがしなくなったのは確かだった。
少女はぎゅっと強く目を瞑り、記憶を掻き消した。少年の細い肢体は想像よりもずっと頑丈に少女を包む。
視線を動かすと、少年と目があった。人の血を吸うような、怖い鬼には見えない優しい瞳。
暫くぼんやりと眺めてから、今度は少年の腕に目をやった。以前よりも弱々しくなったように思える白く細い腕。それは人間を糧としなくなった印。
──私のせいで。
少女は少年の腕をさするようにゆっくりと撫でた。日の光を浴びない少年の肌は暗闇の中でも恐ろしい程青白くよく見える。
「……何?」
もう一度少年が問いかけた。少女は少年の胸に顔を埋めてからそっと囁いた。
「なんでもないの、本当に」
少年は少女の艶やかな漆黒の髪を撫で、抱きしめた。彼女の髪の香りを楽しむように目を瞑り、息を吸い込む。少女はそれにくすぐったそうに目を細めた。もし少女が猫だったら、喉をゴロゴロと鳴らしていただろう。
抱きしめた力がふいに強くなった。間近にある少年の心臓がドクンと大きく跳ね上がったのが解る。
──ああ。
少年はいきなり少女を引き剥がして立ち上がった。勢いよくベッドが軋み、少女はそこに咄嗟に手をついて自身の身体を支える。
ゆっくりと少年を見上げると、彼は自らの顔を両手で覆い、力なく後退る。フラフラと、今にも転びそうな程だった。
危ない、そう思って少年の腕を両手で掴んだ。その勢いで、覆っていた少年の腕は引き剥がされ、
顔が露わになる。二つの紅が、暗闇を遮るように発光し、少女を捉えた。
声を上げる暇もない程に少女の身体が跳ね飛ばされた。気を緩めていたため受け身がとれず、ベッドの脚に身を強打する。パチパチと視界で何かが弾け、呼吸が出来なくなった。
何度か咳き込んでから、身を落ち着かせようと深呼吸する。骨は折れていない。否、骨が折れるくらい強く跳ね飛ばす力など、少年に残っているはずがなかった。
──人間を喰わないから。
その事実が少女の頭の中で静かに蹂躙し、ずしりとした重みを増してながら掻き混ざる。
少女はもう一度体勢を戻して少年に向けて手を伸ばす。それを遮るように少年の声が狭い部屋に響く。
「触るなッ」
「……!」
いつもとは違う、切羽詰まった声色に少女は伸ばしかけた手が竦んだ。その場に縫い止められて動けなくなってしまう。少年は左右に首を強く振ることでなんとか理性を保っている状態だった。
「……近づかれたら、きっと」
「きっと?」
弱々しく少年の口から漏れた言葉が、少女の耳に届く。少女はその次を待つが、少年の唇は震えるだけで声になっていなかった。ゆっくりと問いかけると、少年と目があう。
まるで「そんなこと解っているだろう」と責め立てるような瞳だった。
──綺麗。
少女は少年の吸い込まれそうな紅い瞳をじっと見つめ、思った。血のように深く鮮やかなそれに、今まさに自分が映っているということに少女は自身の心が高揚するのを覚えた。
少年の身体が覚束ないのかフラフラと軸が揺れ動き、やがて膝をついて呻いた。
人間を喰わない禁断症状。
近くに人間がいる絶好の瞬間。
だが喰ってはならない葛藤。
少年はそれに苦しんでいた。少女はそれが手に取るように解った。
だからこそ。
「いいよ」
少女は少年の目を見据え、てんで言っている意味が分からないという風な顔をしている少年に向かってもう一度静かに囁いた。
「……“いいよ”、私」
何が、と少年が言うまでもなく、すぐに察しがついたのだろう。はっと瞠目し、その深紅の瞳が揺らぐ。
少女は唇の端に微笑みを浮かべ、立ち上がり、真っ白な服の埃をはらったかと思うとゆっくり少年の方に歩み寄った。
「……来るな……、来るなッ……来たら……!!」
「……来たら?」
少年の身体がビクリと震える。
「……来たら、あなたは私をどうするの?」
「……それ、は……」
「ね? だから、“いいよ”」
──“解ってる”から、“いいよ”。
少女がその小さな手のひらで少年の腕を優しく包むと同時に、少年の身体がぎゅっと強張る。少女はそのまま少年の身体に寄りかかるように身を下ろす。
「……ぃゃだ……嫌、だ」
身震いしながらも苦しそうに抵抗する少年を前にして、少女はまた柔らかい笑顔を浮かべる。一旦少年の腕から手を離すと、両手を胸の前に合わせて目を伏せた。そしてか細い指で一つ一つ、服のボタンを外していく。薄闇の中で少女の白くキメ細やかな首筋が露わになっていく。
パサリと小さく音を立てて白い布が床に落ちる。
少年はまた両手で顔を覆った。必死に慾望を押し殺しているかのようだ。
「私は平気だから、“いいよ”?」
「駄目、だ……嫌……だッ」
諭すように語りかけるが、なおも少年の心は折れない。
──貴方が「いいよ」をくれたから、私は。……私も。
「……もう“いいよ”」
──苦しまなくて“いいよ”。
その言葉に少年は、はっと瞠目し、その瞳が震える。
「ありがとう」
──約束を守ってくれた貴方に私が出来ることは、これだけだから。
「……どうか、生きて」
少女は目を細め、目一杯の微笑みを浮かべる。そのまま少年の胸にもたれかかるように身を預けた。少年はそれに愕然と身を硬くし、怯えたような顔を更に歪ませる。
暗い辺りに紅い瞳だけが冴え渡り、少年はやがて項垂れながらも少女の身体を横抱きに持ち上げた。少女は少年の首に手を回す。
そしてベッドの前まで運び終えて、ゆっくりと少女の身体を下ろす。ギシッと軋んだ音が部屋全体にやけに大きく響く。
少女は、されるがままに横になると、少年を見つめる。その表情はまだ迷っているようだった。苦痛そうに苦虫を噛み潰す。
長い長い時間、二人は沈黙した。口を開こうともせず、先程までの暗闇が少し和らいでいた。ゆっくりと少年の指が、少女の頬を撫でる。少女は嬉しそうにそれに応える。かと思うと、少年の身体が少女に覆い被さった。またベッドが悲鳴のような軋みを立てる。
少女は微笑んで目を閉じる。脱力して少年を待った。
少年は一度ぎゅっと目を瞑り、決心したようにその紅瞳を少女に向けた。その白い首筋に舌を這わせ、鋭利な牙で皮膚を切り裂く。
「……ん…」
少女から掠れた声が漏れる。
その、永遠に近い刹那。
パキン。
少女の身体から、普通の人間からは想像も出来ないような甲高い音が響いた。
少年が再び牙を引き抜き顔を起こす。少女は眠りについたかのように動かない。少女の首筋は抉れたように二つの空洞がぽかりと開いているだけだった。
身体を起こし、少女を支えていた腕を離すと、それと同時に少女の身体はカクリと反り返った。関節さえもあり得ない角度で垂れ下がっている。
まるで糸が切れた操り人形のように、プツリと少女から生気が失せた。
「……だから、嫌だったんだ」
──君が、人間でないと知っていたから。
少年の瞳からはその紅が抜け、再び澄み渡る銀瞳に戻っていた。ぱたぱたと零れ落ちる何かが少女の身体を濡らしたかと思うと、肌に吸い込まれるように消えていく。薄暗い中ながらも、それが解った。
少女の腕を握ってみる。先程までの柔らかさは微塵もなく、固く、冷たく、木目のある滑らかな曲線に指を滑らせた。木製人形独特の質感。
少女は人間ではなかった。けれど誰よりも人間に近しい存在だった。ただ、違うのは。
──君は、僕を満たす事は出来ないんだ。
──でも。君が微笑うから。君を傷つけたくなかったから。
少年は腕の中にある木製の人形を力なく抱きしめ、柔らかい髪に指を通らせる。強く抱きしめたら、今にも壊れてしまいそうな、脆い肢体。少女の長い睫毛は二度と震えることはなかった。
薄暗かった部屋に、扉の隙間から一筋の光が差した。それは少年の背後にゆっくりと侵入し、伸びた光が少年の背中をじんわりと焦がしていく。
痛みはなかった。身体など、所詮空っぽの心を包む飾りでしかない。少女を失った少年にとって、精神的な痛みが優ってもはや己の身体の痛みなどどうということはなかった。
白い煙が細く靡いてのぼっては、そのまま薄れ掻き消えていく。
少年は虚ろな瞳で少女を映し、ふと、少女の声が思い出される。鈴のように高く心地よい、甘い声が少年を呼ぶ。もう一度、会いたい。その思いが少年の心を擽る。
──ああ、でも。
「僕たちは人間じゃないから、天国には行けないのかな」
ぽつりと呟く。彼らの“死”は鼓動が止まることではないから、少年にはよくわからなかった。死んだところで、果たして少女に再び見えることが出来るのだろうか。
“生きて”
少年は押し黙る。喉元につっかえた言葉にならない感情が身体中を侵食する。
──こんな、僕が、君の、代わりに?
日の光が強みを増して少年の身体を燃やしていく。
──君が死んで、僕は生きる?
目の前の静止した魂の無い塊も、もう一度長く見つめる。そして初めてその表情を捉え、瞠目する。
柔らかく微笑んだ、優しそうな少女の表情。
途端に得も言われぬ気持ちを覚え、目頭が熱くなるのを感じた。
吸血を主として生まれた存在から、再びぱたぱたと透明な雫が落ちる。強く、強く、少女の身体が軋むのも構わず抱きしめた。
“どうか、生きて”
暫くの静寂の後、よろよろと身を起こし、少女の身体をベッドに壊れ物を扱うように優しく寝かせる。
少年は苦渋に満ちた顔を少女に向ける。垂れ下がった腕を少女の頬まで伸ばし、恐る恐る触れる。ひんやりと冷たい。
服のボタンを丁寧に付け直すと、上から床に落ちた毛布を拾い上げ、首元までかける。それで温かさが戻るわけではないけれど、少年にはそれだけしかできなかった。せめていつものように。
「僕が生きれば、君は“死なない”……?」
──僕の中で、君は永遠になる。
少年はそれから、祈るように強く目を閉じ、心の中で少女の名を呼ぶ。そして、考えて、考えて、ようやく答えを出した。少年の瞳に光が宿る。
少女の柔らかい髪を指で梳いて、少年は口を開く。
──それなら。
「僕は……────」
少年の決意は射し込んだ光に遮られ、辺りは一層明るみを増した。少年は、自身の顔を照らす光を眩しそうに見つめ、足早にカーテンで覆う。
そのまま最後に眠りにつく少女を一瞥し、不器用な微笑みを向け、部屋を後にした。
少女は変わらずに、ただ、微笑むだけだった。
その表情は柔らかく、少年の標となるように。