女大公様のご出産
部屋にお戻りになられたエレオノーラ様は、早速待機していた産婆見習に診てもらうことになった。ちなみに、その間部屋に入ることを許されているのは、年嵩の侍女一人のみ、とされている。……エレオノーラ様が他の者が立ち会うのを拒否なさっているからである。
部屋から出てきた産婆見習によれば、子宮の張りはみられるものの、まだ『陣痛』とまでは至らない、とのことだった。
とりあえず今日明日の出産はないだろう、とのことだったので、先程から持ち歩いている書類挟みを手に、部屋に入ると、エレオノーラ様が寝椅子の背に凭れて項垂れていらっしゃった。
「具合でも悪くしていらっしゃいますか? お医者様を呼びましょうか?」
すると、エレオノーラ様は呻くような低い声で何かつぶやかれた。
「……………に」
「はい?」
「あんなに痛かったのにまだ陣痛じゃないなんてっ」
「……それほど痛がっていらっしゃるようには見えませんでしたが?」
付き添いの侍女だって、腕を掴まれた瞬間はともかく、その後は『陣痛ではないだろう』という表情だったし。
「見栄張ったのよ。悪い?」
噛み付くような表情でこちらを見上げてこられる。このような表情をされるのは、最近では珍しい。学院にいた頃は、よくこのような表情で周囲を威嚇しておられたものだが。
「えーと、……べつに悪い、とは申しておりませんが……」
膨れっ面でこちらを見上げるエレオノーラ様の気を逸らそうと、目の前に書類挟みを差し出す。
「……これは、何?」
「ご出産まで余裕がおありだと伺ったので、目を通して頂こうかと。運河補修の進捗報告です。お気にしていらっしゃったでしょう?」
この事業は、成年されたエレオノーラ様が初めてご自分で決裁なされた大規模な事業だ。老朽化した運河を拡幅して再整備する、というもので、完了まで早くて十年、状況によっては十五年かそれ以上かかる、といわれていて、以前から話は出ていたものの、なかなか手が付けられずにいたものである。
「……そう。それで?」
「全体的には概ね当初の予想通り、と」
いくつかのトラブルは解決できたが、新たなトラブルが発生した、または発生しそう、という報告である。もちろんトラブルの回収。回避のため、担当責任者には大きな権限が与えられている。
「詳しくは中に目を通していただければ。今のところ、エレオノーラ様のご指示を仰がなければならないような案件は出ていないようです」
「それは重畳」
エレオノーラ様が満足げに書類挟みの中の書類をぱらぱらと縦覧なさる。
「では、わたしはこれで。……お疲れでしょうから、ごゆっくりお休みください」
一礼して踵を返すと、エレオノーラ様に呼び止められる。
「……その……悪い、とは思っているのよ? 先生に慣れない仕事をさせるのは」
何を今更、という気はしないでもないが、エレオノーラ様の表情は紛れもなく気まずげで、その言葉は嘘ではない、と感じさせられる。
「お気になさらずに。学生時分に一通り基礎は身につけておりますので。……当時はまだ将来どんな仕事に就くか、という明確な目標もありませんでしたから」
『魔法使い』というのは、ごく一部の、個人雇いや組織に属する者を除けば、単に『魔法を使う技術のある者』でしかない。……私見ではあるが。
実際、学院の卒業生で『魔法使い』と名乗れる仕事に就く者は一握りだ。まあ大抵は家業を継ぐ者が多いから、なのだろうが。
「一通り、とおっしゃいますと……?」
「まあ、学院で講座を設けている範囲で、ですから、あらゆる仕事を網羅しているとは申せませんが」
学院で講座を設けている、というか、学院の卒業生が後進の為(というよりも人材確保の為)に開いている講座がいくつかある。技術習得、というものもあるが、大方は基礎知識を覚えさせるものの方が多い。その方が準備が楽だからだ。
ちなみに、講座の一つに『文官』というのがある。将来の職として視野に入れておこうと思う学生が多いのか、人気はそこそこあるが、脱落者は多い。その内容というのが、ひたすらいろいろな種類の書類や帳簿を書いたり、読み込んで分別したり、間違いのないよう転記したり、の繰り返しだからだ。にもかかわらずそこそこ人気、というのは、かつて時の宰相閣下が自ら乗り込んできて、後継者としてめぼしい人材を引き抜いた、というまことしやかな伝説があるからだ。
もちろんわたしもその講座を取っていた。成績のことはあまり口にしたくないが、今役に立っているのだからまあ良しとしよう。
「ああ、なるほど、ね……」
「結局、学院から離れない職に就いてしまいましたが……なぜかこのようなやんごとない方のお屋敷で文官のまね事をする羽目になっていますね」
肩を竦めてみせると、重ね重ね申し訳ない、と謝られた。べつに謝られるようなことでもないのに。
「何だかお腹が痛いような気がする」
毎日何回もそう言って周囲を慌てさせていたエレオノーラ様に、本格的にご出産の兆候が現れたのは、初めてそう言いだしてから五日後のこと。無事ご公子様がお生まれになったのは、さらに丸一日エレオノーラ様が呻き続け、精も根も尽き果てた頃だった。
ご公子様の容貌は誰に由来したのか、浅黒い肌に薄茶色の巻き毛。目の色は闇夜を思わせる深い藍色。……まあ、色は成長とともに多少変化するものだが。
肝心の【金瞳】は、左肘の内側にあった。大きさは本人の握りこぶしの半分くらい。これが成長に伴って大きくなるのか、ずっとこのままなのかはわからないが、今の時点ではかなり大きい、といっていいだろう。だとすれば十年かそこらで恙なく大公に叙せられると思われる。心配性のゼノン大公も一安心、だろう。
「小さな大公殿下のご誕生をお喜び申し上げます」
エレオノーラ様の枕辺でそう申し上げたら、微妙な顔を返された。
「……めでたいのかどうだか……」
エレオノーラ様は溜め息を吐いてそうつぶやかれた。
「はい?」
「魔法が使えるようになったのは、あの子のおかげだったらしいわ」
「……それは、どういう……」
「魔力を感じられなくなってるの。前と同様に」
掛布団の上に投げ出された手が、もどかしげに開閉される。
「それは、……お疲れになったせいで、一時的に魔力を感じる力が弱っているのでは?」
「……だといいのだけど」
その後、体調が回復してからも、エレオノーラ様の魔法はご懐妊前の状態に戻ってしまっていた。
エレオノーラ様のご卒業は、公子のご入学より先にできるだろうか……
いや、公子様の方が先に卒業することになったら……シャレにならない事態だ。