女大公様の伴侶(2)
学院内を何か所かまわり、置きっぱなしになっていた私物の処理を終えて事務棟に向かって歩いていると、向こうからエレオノーラ様が歩いてくるのが見えた。
「エレ……!」
思わず声を上げて、しまった、と思う。
わたしの声に顔を上げたエレオノーラ様が、こちらに向かって走り出したのだ。足元が不確かなところで走ってはいけないと繰り返して注意しているのに。
手に持っていたカバンをその場に落として、エレオノーラ様に駆け寄る。保護の魔法が掛かっているから、たぶん中身は大丈夫だろう。
「危ないじゃありませんか。走らないでください、と、あれほど、口を酸っぱくして言っているのに」
むろん、エレオノーラ様に堪えた様子はない。
「あら。ここはどこよりも安全なはずでは?」
「だからってわざわざリスクの高い行動しないでください」
たしかに学院の中は多重に防御されていて、王族が護衛なしで行動できるほど安全ではある。
だからといって、不注意から起きる事故までは防いではくれないのだ。
「リスクって、あなた、わたくしのことをそんなに鈍くさいとお思いなの?」
「妊娠中に限っていえば、どれほど注意してもし足りない」
しかも、彼女は過去の妊娠中に二回、他人を巻き込んでの転倒事故を起こしている。どちらもエレオノーラ様ご自身は無傷だったが、巻き込まれた方にはけが人が多数出た。
「……ご存知、でしたの?」
「体調管理までさせておいて、それはないでしょう」
まあ、体調管理については、彼女が無頓着だからわたしが勝手にやっているだけ、ともいえるが。
「それに、寝ている横で初級魔法が次々発動されてたら、いやでも気付きますよ」
呪文は口にしていない、とは言ったが、彼女は【集中】‐【解放】の練習は怠らない。もっとも、学生だった頃ほど【集中】状態をむきになって継続しようとはしないので、もはや単なる習慣になっているだけなのだろうが。
「……ところで、何かこちらに用事でも?」
彼女の体を少し離して、上から下まで軽く点検する。そういえば、卒業証明書を綴じた紙挟みはどうしたのだろう?
「あ、書類上の手続きはすべて終わったので、給料その他の清算をしたい、って会計の人が」
「だからそういうのは、人を使うとか」
「だって、捜しに行くって言った会計の方が若い女の方だったのですもの」
「……」
とっさに口元に力を入れる。なおも何か言い募る彼女の方に両手を置き、呼吸を整える。
無意識か故意かは定かではないが、彼女はよくこういうかわいらしい独占欲を見せる。
「……エレオノーラ様。それならば、ご自分が代わりに受け取っておけば良かったのでは?」
「……よろしいの?」
よろしいも何も、自分はさんざん人に代行でサインをさせているでしょうに、と口から出かけたが押し留めた。
「よろしくなければ、事務員がそう言うでしょう。要は清算金額が合っているかと、ちゃんと私のところにお金が届くか、が判ればいいのだから」
そう説明すると、そうではなくて、と訂正された。
「これは、あなた個人のお金でしょう?」
「……そうですが、それが何か?」
「つまり、あなたが、ご自分で選んで就いたお仕事で得たお金、ですわよね?」
「自分で選んで、といわれると、何だか面映ゆいですが、一応は。はい」
「そのお仕事から無理矢理引き離したわたくしが、代理とはいえ、受け取ってもよろしいのでしょうか?」
「……無理矢理、って」
そんな風に思っていたのか。
たしかに、かなり強引に押し切られたとは思うが、現在の状況は自分で選んだ結果だ。……と思う。
彼女の手を振り切る機会は、幾度もあったのだ。
それに、『ティリニス伯』を拝命した時に、あらかたの陰口は受けている。その時に覚悟はついていたのだ。
今更名目上の職を失ったことで周囲に起こる雑音など、かすり傷にもならない。
「エレオノーラ様? わたしが退職届を認めたのは、わたしの自由意志だったと思うのですが」
「……そう、でしょうね」
「エレオノーラ様がわたしを脅迫なさったわけでも、わたしの手を掴んで無理やりサインさせたわけでもありませんよね?」
「そんなことをした覚えはありませんわ」
「でしたら、この件についてエレオノーラ様が気に病むことはございません。ご理解いただけましたでしょうか?」
これでこの話は終わり、だと思ったのに、エレオノーラ様は不満げだ。
「……、……の」
放置した鞄を回収し、不満げなエレオノーラ様を促して事務棟の方へ向かおうとすると、エレオノーラ様が何かつぶやいた。
「まだ、何か?」
「だって、いまだにわたくしのことを『エレオノーラ様』って呼ぶのですもの!」
……だからそういう可愛らしいことを不意打ちで言わないでほしい。
「エレオノーラ・ジリアン・ゲオルギアさま。ここがどこだか把握してらっしゃいますか?」
「…………王立魔法学院、でしょう?」
「ええ。その、事務棟の前、です。今は授業時間中とはいえ、それなりに人通りがあります。そういうことは、人目があるところであまり口にしないでいただきたい」
エレオノーラ様が目を瞬かせる。
「……認識に齟齬があるようですわね」
不意に、エレオノーラ様がわたしの服の襟首を掴んで引き下ろしなさった。
いきなりそんな乱暴なことをされる理由が判らなくて戸惑っていると唇の上に柔らかいものが押し付けられた。
「…………いきなり、何を」
甘い吐息とともに離された顔は、少し険しい表情を浮かべていた。
「これはわたくしのもの、という宣言、ですわ。必要とあれば、誰憚ることなく、何度でも致しましてよ。十五年もかけて、やっと手に入れたのですもの」
私はものではない、と言いかけて不穏な単語に気付く。
「……十五年? まさか、最初から……?」
エレオノーラ様がにっこりと微笑まれる。
「あなたが学院を辞されるのは、あなたの自由意思、でらしたわよね?」
「まさか、とは思いますが、……わたしがもっと早くに退職する意思を固めていたら、その分、卒業が早まった、のでしょうか?」
「それは何とも。……ただ、あの時点でわたくしが自力で魔法を使えるようになる、と思っていた教職員は、ほとんどいらっしゃらなかったようですわ」
全く失礼な、とむくれるが、今の状況を鑑みれば彼らの見解の方が正しかったのではないかと思われる。
「…………では、わたしのこの十五年は、いったいなんだったというのでしょうか……」
膝から力が抜けるような気がする。人目が気になるので、かろうじて踏みとどまったが。
だが、エレオノーラ様は止めの一言を繰り出してきた。
「お互いのことを知るのに必要だった十五年、ということでよろしいのでは?」
……どこかに自分が埋まるための穴を掘ってもいいだろうか。
一旦ここでピリオドを打ちます。
エレオノーラ様視点の番外編を書いてますが、まだ完結できてません。完結の目処が立ったら、ここにあげます。たぶん。




