第十話
恋歌が斉家へ来て約一ヶ月が過ぎようとしていた。
小さな事件が度々起きてはいたものの、それなりに平穏な日々を送っていた斉邸に、李琵の劈くような悲鳴が響き渡った。その声に飛び出してきた家人達と共に声のした玄関へと走った龍騎は、気を失ったらしい李琵を抱きかかえた兄の姿に息を呑んだ。
「あ……あにう、え……?」
「おお、龍騎。皆もただいま」
あっけらかんと笑う龍宝だったが、周りの者は声も出せず、ただただ立ち尽くしていた。そこへ遅れてやって来た恋歌が、龍宝の姿に小さな悲鳴を上げる。
「龍宝様……血が……!」
恋歌の言葉に龍宝は苦笑いを浮かべた。そんな彼の衣は文字通り血塗れで、その頬にも血飛沫が飛んでいた。
「皆、驚かせてすまん。気付かれぬようするつもりが、李琵に見つかってな」
「兄上、お怪我は……?」
心配になり問いかけた龍騎に、龍宝は快活に笑った。
「いや、俺は無事なんだ。これは人助けをしたら、な。だから安心してくれ」
龍宝のその言葉にその場にいた全員がホッと息を吐く。そんな中、龍宝はすまなそうに恋歌に声をかけた。
「姫、すまないが李琵を頼めるだろうか。私はこの格好を何とかせねばならんので」
「は、はい。お任せ下さい」
龍宝の言葉に恋歌は慌てて彼に駆け寄る。彼女が数人の下女と共に奥へ入っていくのを見届けて、立ち上がった龍宝は龍騎に目配せすると、湯殿へと向かって行った。
それから半刻後、東屋で待つ龍騎の元に、湯を浴びてきた龍宝がゆっくりとした足取りでやって来た。
「すまんな、龍騎」
「いえ……義姉上は……」
「少し顔を見てきたがまだ眠っている。今は恋歌姫が付いていて下さっているよ。本当に良い姫君だな」
明るく笑う龍宝に龍騎も自然と笑顔を返す。少し間をおいて、真剣な表情に変った龍宝は、龍騎を真っ直ぐに見た。
「先程の血だが……あれは、勇元のものだ」
「勇元様の、ですか?」
龍宝の言葉に龍騎は絶句した。兄の友人である蒼勇元が斉邸を訪れてからそう久しくない。そんな彼があれ程の血を何故流すことになったのかと、龍騎の表情も険しくなる。
「兄上。勇元様のお怪我は?」
「少々深いが命に別条はない。ただ……奴は襲われたんだ」
重い龍宝の言葉に、龍騎はある可能性に思い至る。
「まさか、兄上が調べておられることと何か関係が……?」
龍騎の言葉に、龍宝は嬉しそうに微笑む。
「お前は聡いな。そうだ、あのことが関係している」
表情を戻した龍宝は、小さく溜息を吐き話し始めた。
「実はな、前に話したあの薬物の件、その出所が私だという噂が一部で流れているらしい」
「そんな……」
「誰が流したかは分からんがな。そして、州城からの帰り道、一緒にいた勇元が私を庇って斬られた」
「では、その者達は兄上を狙って……?」
龍騎の言葉に龍宝は小さく頷く。
そこで二人は黙り込んでしまったが、すぐに李琵の目覚めを知らせに恋歌がやって来たことにより話はそこまでとなった。