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「え?叶恵ちゃん、もう帰っちゃうの?」
昼休みに入って、やっと教室に戻ってきた愛花は、帰宅準備をしている叶恵の姿を見て驚きの声を上げた。
「うん、ちょっと病」
「駄目だよ、せっかく学校に来たばかりなのにサボっちゃ!」
「院……え?」
叶恵は普通に早退理由を告げようとしたのだが、その言葉は愛花のお叱りで塞がれてしまった。
「確かに今の環境は叶恵ちゃんにとって居心地が悪いかもしれないけど、私はもう気にしていないから、叶恵ちゃんが側にいても大丈夫だよ。だから安心して?ね?」
目の前の人間が放つ言葉が理解できず、叶恵は無言のまま数回瞬きを繰り返す。
どうやら愛花は、自分がいない間に事故の内容を生徒達から聞かされ、糾弾を受けた叶恵が学校から逃げようとしている、と思い込んでいるようだ。
確かに机激写事件から教室内の空気は異様な緊張感に支配されているが、それは以前と雰囲気の変わった叶恵に、どう対処すればよいのかと戸惑っているからにすぎない。例え、叶恵が他の生徒達から虐げられていたとしても、今まで教室にいなかった愛花が、直ぐにそのような思考に繋がるのだろうか。
……もしかして、そうなると確信して、午前中の授業を全て欠席したのかもしれない。
何しろ芹沢叶恵は峰岸愛花の加害者なのだから、例え愛花が許しても他の生徒達は許さないだろう。
だからわざと叶恵の側から離れた。皆が心置きなく、叶恵を糾弾できるように。
そして攻撃を受け、傷ついた叶恵を優しい優しい愛花が癒やしてあげる。
それは観る価値もない、三文芝居のワンシーンのようだ。
「いけない。私、お昼ご飯の誘いに来たんだった。ねぇ、叶恵ちゃん、一緒にお昼ご飯食べよう?皆も叶恵ちゃんが来るの待っているよ」
「あのね、峰岸さん」
「やだ、名字呼びなんて。前みたいに愛花って呼んで」
「いや、記憶無いから前みたいにて言われても……。あのね、私、もう帰らなきゃいけないから一緒にご飯は無理なの。ごめんね」
「……え、何で?」
まさか断られるとは思わなかったのか、一瞬ではあるが、その表情から笑顔が消える。今までの叶恵ならば押し切られて言う事を聞いていたが、ここにいる叶恵にその義理はない。
「何でって、病院に行かないと駄目だから……。いくら登校出来るようになったとはいえ、急に後遺症が出るかもしれないでしょ?暫くは午前中だけしか登校出来ないの」
「それって保健室で休むとかじゃ駄目なの?」
「頭を強くぶつけてたんだから、脳に何かあった時に保健室では対処出来ないじゃない」
「そうなの?……でも怪我で休んでいた期間もあるし、出席日数とか大丈夫?」
今まで堂々と授業をサボっていた人物に出席日数の心配をされてしまい、叶恵は激しいツッコミを入れたくなったが我慢をして会話を続けた。
「間に夏休みが入ってたから平気。午後に出れない授業はレポートと小テストで補う事で了解もらってるし」
「そう……なんだ。なら仕方ないね」
さすがにこれ以上引き止める理由が思いつかないのだろう。愛花は渋々と叶恵の早退を認めた。
よし、勝った!
叶恵は心の中でガッツポーズを取る。
病院に行くのは本当だが、別に無理に行く必要もなかった。
だが愛花の事だ。叶恵が登校してきたら、また以前みたいに昼食を誘いにくるのは目に見えていた。そして愛花が言う皆と言うのは、おそらくあの連中の事に違いない。
あの生徒会達と一緒に昼食をとる、と。
さすがに復帰早々、あの集団に囲まれるのは勘弁願いたい。なので病み上がりを理由に早退させてもらう事にしたのだ。使える物は何でも使うに限る。
「……何だか、叶恵ちゃん変わった」
ぽつり、と。
愛花が小さく呟いた。
「そうなの?前と全然違う?」
「全然って事は無いけど、雰囲気とか……」
私の言うことを聞かなくなった、とはさすがに愛花も口に出来ない。
以前の叶恵ならビクビクと脅え、愛花の言うことは何でも聞いていたからだろう。こっそりと二人の様子を見ていた生徒達も、叶恵の変貌ぶりに困惑の視線を向けている。
だが、叶恵も最初からそのような性格だった訳ではない。それは、他人からの心無い仕打ちに、全てを諦めてしまった結果だった。
そしてあの事件が起きた事により、叶恵の心は死んでしまった。
殺されてしまった。
「……峰岸さんは、今の私が嫌い?」
「そんな事ないよ!私達、親友じゃない!」
叶恵は愛花を習って、少し傷つい表情で問いかけた。すると簡単に、欲しかった答えが返ってくる。
心優しい愛花にとって、親友だと豪語している叶恵を否定する訳にはいかないのだ。例え、今の叶恵の雰囲気に違和感を覚えても。
「そう。なら、良かった」
そう言って叶恵は、嬉しそうに微笑んだ。