(7)魔法の刃
煎じ薬には眠り薬も調合されていた。
王の病はいつ暴発するのかわからなかった。それをなだめるに必要なのは、なによりも安静と心の平安であった。
自らの手で王を寝かしつけると、王妃は暖炉のそばにしつらえた椅子に腰をおろし、手まねで息子を呼びよせると、自分のまえの椅子にすわらせた。
「レルドリック、ノエル姫はどうしていますの?」
王の安眠をさまたげぬようひそやかな声で話しかける。
「元気にしているようです」
レルドリックは言葉とはうらはらに、母によく似た秀麗なおもざしを曇らした。かれはライエル反乱の報がとどいた日以来、ノエルに直接に会ってはいなかった。ただ、部下の報告より彼女が健在であることを知るのみであった。
それでも、最後にあったとき自らのうちなる怒りの炎に照らしだされて、気高くも美しかったノエルが、頭の片隅からはなれなかった。あの時ほど、彼女が美しく、またいとおしく思えたことはない。いまの状況ではこれ以上どうともしてやることができないことが悔しくもあった。
「そう」
王妃は思慮深げなまなざしを息子にむけた。彼女は王太子の猛々しいまなざしに、たじろかずにむかえる数少ない女性のひとりであった。
「あの子はほんとうにかわいらしい、素直で心根の優しい子です。こんなことになってしまって、ほんとうに残念だわ。おまえにはもったいないほどの子だったのに」
王妃は息子から目をはなし、暖炉に目をおとした。ヘイゼルの瞳のなかで金の炎が踊った。
「殿方にとっては女など手持ちの駒のひとつにすぎないのでしょうね。わたくしもそうでした」
「母上?」
母の言わんとすることを理解しかねて、レルドリックが声をかけた。
だが、王妃ホーレナは回想にふけるように続けた。
「いつも最後に犠牲になるのは力のない女なのよ。男は女を感情の生き物だといって馬鹿にするけれども、その感情にうったえかけて女をあやつりもする。どうして、それならそれで、その感情を尊重してくれないのでしょうね」
「父上との結婚を後悔なさっておいでなのですか」
「いいえ、後悔するもなにも、わたくしには選択の自由なぞなかったもの。まわりのいうがままに異国に嫁ぐしかなかった。でも、そうね、すこしは抵抗してみせるべきだったわね。自分たちのあやつろうとしている駒が意志も感情も持つ生き物だと見せつけてやる必要があったのかもしれないわね」
気まずい沈黙がおちた。
それをとりなすようにホーレアはおだやかに微笑するとつづけた。
「でも、わたくしはたしかに幸運だったわ。陛下はちっぽけで気位ばかりたかい小娘であったわたくしをまがりなりにも愛しんでくださった。それに、こんなにりっぱな息子をふたりも授かったのですもの。でもね、この幸運はわたくしたちの結婚を仕組んだものたちの手柄ではないのよ。いったいこの世の中に不本意な結婚をしいられたために不幸になった女がどれほどいるのでしょうね」
レルドリックは母からこういう話を聞かせられたのは、はじめてであった。
両親はかれが物心ついたころから、非常に仲睦まじかったために、かれらの結婚もまた政略結婚であったことを、深く考えたこともなかった。そして、またノエルになにもしてやれない自分をも責められているような気がして、かれは言わずにはいられなかった。
「男とて、けっして平気なわけではありません」
ホーレアは顔をあげると、息子に真摯なそれでいて、すがるようなまなざしをむけた。
「ほんとうにそう思うなら、せめてあの子を守ってあげて、男たちの野心の犠牲にしないで。あの子の兄が反乱を起こしたとはいえ、あの子自身にはまったく咎のないこと。兄の罪が妹におよばぬよう守ってあげて」
「そのようなことを心配されておられたのですか。わかっていますよ。母上、わたしの力の及ぶかぎり、彼女をまもりましょう」
ふと、かれはその優美な容貌には似合わぬ皮肉げな笑みをうかべた。
「もっとも、万一、こちらが破れるようなことになったら、守ってもらわねばならぬのはこちらの方になってしまいますけどね」
「まあ、そんなに戦況はよくはないの」
王妃が憂慮の色を深めてたずねた。
「そう、楽観はできません。父上には報告しませんでしたが、実際は、緒戦はこちらの敗北でした。反乱軍の死者五百にたいして、こちらの死傷者が二千。いまだ、数のうえでこそ勝っていますが、それもどうなることか」
「援軍はだせないの」
「もちろん、各地に手配をしています。貴族たちのなかにはこの戦いにひどく乗り気なものもいますからね」
「ライエル領がめあてなのでしょうよ」
「その通りです。でも、まあ、逆にライエルと組まれるよりはましなのですが。なかにはひそかに打診しているものもいるようです」
「まあ、なんてこと」
ホーレアが蒼白になってつぶやくと、レルドリックがなだめるようにいった。
「すこし脅かしすぎたようですね。でも、だいじょうぶですよ。ファルヴァルトはよくやっています。そうそう簡単には破れはしないでしょう」
ファルヴァルトの名をきくと王妃は薄く笑った。
「あの子は昔から要領だけはいい子ですもの。ただ、ちょっとあきらめのはや過ぎるところが難だわ。達観といってしまえば、聞こえはいいのですけど、薄い紗幕を隔てて自分の人生を他人事のようにみているとこがありますもの」
「客観的にものを見れるというのは指揮官にとってはなくてはならない資質です。あれにたりないのはやる気です。でも、今度ばかりはやる気を出さざるをえないでしょう」
ホーレナはその言葉に笑おうとして、そのまま表情を凍らせた。
「なんなの?」
彼女の前方に見える扉のまえにちらちらと淡い光が生じていた。ただならぬ様子の王妃の視線をたどって、レルドリックがふりむいた。
と、その瞬間、それは蒼い閃光となり、ふたりを襲った。反射的に腕で目をかばうのと同時に突風が部屋のなかを吹きあれた。
寒々しい灰色の石壁をおおった華やかなタペストリーが吹きあげられ、はためく。棚にならべてあった高価な磁器のおきものが床におち、けたたましい音をたてて砕けた。
そして、風がおさまったときに扉のまえに立っていたのは、居丈高に腕をくみ、傲然とした笑みをうかべた少女だった。
まとった白い夜着のうえを乱れた長い黒髪がうずまきながらも腰まで流れおちるさまは、どこか淫靡で、邪悪な蛇がとぐろを巻く姿を思い起こさせた。
「ノエル?」
王妃をかばい、まえに進みでながら、レルドリックはあやぶむように声をあげた。
その少女の姿形はたしかにノエルのものである。だが、その身にまとう雰囲気があまりに違いすぎる。彼の知るところの、気のつよいところもあるとはいえ、優しくすなおであった少女は跡形もなかった。
「いや、君はだれだ?」
彼女はその問に嗜虐的な笑みをかえした。
「さすがは王太子殿下。よく見ぬきましたこと。たしかにわたしはライエルの姫の身体をしばしの間、借りうけている者」
「何者なのだ、何をしにきた?」
「ふふ、最初の質問にこたえれば、わたしは聖なる神族であったマセラスの末裔であり、あなたがたが魔法使いと呼ぶもの」
彼女はくすりと声もなく笑うと、つづけた。
「そして、ここにきた目的の半分はすでに達せられている」
ノエルの身体を乗っとっている何者かは、邪悪な眼差しをレルドリックの肩越しにむけた。
(まさか!)
ふりむくと、血の泡を口元にうかべ、かれの父、ルーメリア国王が頭を下にしてベッドから半分ずり落ちていた。駆けよった王妃がそのうえに屈みこみ、王の頭を抱えあげると、蒼白な顔をあげ、首をふってみせた。
気丈な王妃は涙もみせず、桜色の唇をきっとかむと、いきなり目前にたちあらわれた魔女を睨つけた。
どんなに豪胆な男とて、直視できないほどの激しい怒りと、憎悪がこめられていた。
だが、彼女はそんな王妃をまったく無視して、レルドリックに視線をむけた。
「そして、もう半分の目的」
彼女は組んだ腕をほどき、何事がつぶやいた、と、右手に青い光があらわれた。
それをいとおしむように手のなかでもてあそぶ。「それは、王太子の命」
青い光は、彼女の手をはなれ、宙を翔ぶと、致命的な光の刃となって彼を襲った。
数瞬後、室内の異常に気づいて踏みこんだ衛兵たちがみたのは、胸のわるくなるような陰惨で血なまぐさい光景であった。
正面の壁に叩きつけられたような形で、王太子の死骸が血溜りのなかに倒れていた。肩から胸にかけてはしる生々しい傷痕からいまだに血があふれだしている。
その側のベッドでは王の遺骸を膝に抱えるようにして、王妃がほそい首をかっ切られて絶命し、やはりあふれでる血が血溜りをつくっていた。
そして、そこには犯人はおろか、その手がかりとなるようなものはなにひとつ残されてはいなかった。