(6)鏡の中の少女
黒い瞳に不安げな光をたたえた少女が、鏡のむこうから見かえしていた。
ノエルは渦巻きながら腰まで流れおちる黒髪をとかす手を休めて、小さな溜め息をついた。
王城の一画に外界から隔絶され、軟禁状態におかれてから、すでに七日目の夜であった。そのあいだ、彼女にはファルヴァルトが討伐軍を率いて出陣したことも、両者がノーゼンの野にて激突したことも、むろん知らされてはなかった。
護衛と称する監視の兵は、じつに職務に忠実で、決してよけいなことはしゃべらなかった。またレルドリック王子との面談を頼んでみても、なしのつぶてだった。
まったくの情報不足におかれたふつうの人間の半数以上がそうなるように、ノエルもあらぬ想像に捕らわれ、不安を助長しがちだった。
特に彼女を苦しめるのは、兄がすでに捕らえられ、反逆の汚名を着たまま処刑されてしまったのではないかという想像だった。
そんなはずはないと、何度も否定しながらもその度に、その想像は暗雲のように心の中にたちこめ、彼女を怯えさせる。
彼女がそれでも泣き叫びもせずに、静かにこの幽閉生活を耐え忍んでいけたのは、伯爵家の姫としての矜持のおかげであった。
しかし、それも、側つきの侍女も隣の控えの間にやすみにいき、たった一人、ねむれぬまま鏡のまえに座っているこんな夜には、なんの役にも立ちはしなかった。
「しっかりしなくちゃ」
鏡のむこうの今にも泣きそうな顔をした少女に、自己暗示をかけるかのように語りかける。だが、少女のやや厚ぼったい唇はわななくように震えていた。
「わたしは伯爵家の姫。お父さまがなくなられてからは、お兄さまのもっとも近親のもの。たった一人の味方、最後まで……」
浅黒い肌を涙が白い筋をつける。
「ダメ」
自分を叱咤するようにいうと、涙を手の甲で拭う。ひどく子供ぽい仕草だった。
「そう、しっかりしてもらわねば困る」
とつぜん、声がした。
氷の刃をふくませたような冷たい響きをおびた声だった。
「えっ?」
戸惑ったようにノエルは室内を見わたした。
つめたい灰色の石壁を華やかなタペストリーでおおった壁。中央にしつらえられたどっしりした樫材のベッドのうえにはかわいらしい布製の人形が放り出されている。人形の真鍮の目が暖炉の炎を反射して、ちらちらと光っていたが、人の気配はない。
(空耳かしら?)
ノエルは鏡に目をもどした。
と、鏡の表面がさざ波がたつように、ゆらぎ、そのむこうから白い霧を通してみるようなぼんやりとした人の顔があらわれた。
まごうことのない黄金の髪に縁どられた、まだ幼げな少女の顔だった。造作ははっきりとしなかったが、少女たちの溺愛する人形のような愛らしさが読みとれた。
その澄んだ青い瞳に見つめられると、魅了されたようにノエルは動けなくなった。彼女の手から木の櫛がすべりおち、床にころがって乾いた音を立てる。
「さて、役割を果たしてもらおうか」
鏡のなかの顔は、あどけないほどの愛らしさを裏切って、冷然と言い放った。
ノエルは蒼白になると、もつれた髪の毛のなかに両手をつっこんで、頭をおさえた。それでも、鏡から目を放すことができない。
「いや、入ってこないで」
「抵抗するだけ、苦しいだけだというに」
やがて、ノエルのからだが苦しげにふるえ、頭がかくんとさがった。豊かな黒髪がばさりと顔のまえに垂れさがる。
そうして数瞬後、黒い髪の中からあらわれたノエルの顔には、鏡のなかの少女とおなじ冷笑が浮かんでいた。
大理石の暖炉の中で、ぱちぱちと勢いよくはぜるあたたかな赤い炎が、部屋を照らしだしていた。天蓋つきのどっしりとしたベッドに大きな枕を背にあてがって、半分身を起こした人物が、その側にたたずむ黒髪の青年に語りかけた。
「戦況は膠着状態におちいったか」
威厳にみちた皺を刻んだ浅黒い顔には、焦躁の色があった。やや頬のあたりが痩げ、黒髪や鼻のしたにたくわえた髭に白いものがまざっているとはいえ、その黒い瞳には炯々とした剛い光が宿っている。病床に伏しているとはとてもみえないほどの存在感をもったその人物は、ルーメリア国王クエイドルであった。
「はい、緒戦には勝利をおさめはしたものの、そのまま互いに身動きできなくなったようです」
もちろん、王の問に答える黒髪の青年は、かれの実の息子レルドリック王子である。
「ふふ、だが、ファルヴァルトもうまくやっているようではないか。あのライエル相手に、あれがそこまでやるとは思わなかったぞ。まったくの無能というわけではなかったのだな。まあ、もっともトーラ将軍の力によるものが大きいのだろうが」
かすかな苦笑をレルドリック王子にむけると、つづけた。
「おまえは、外見は私とさほど似てはおらぬが、その魂の本質は私と同じくする。頑迷であきらめをしらぬルーメリア人そのものだ。だが、私にはあの息子はどうにも理解できぬ。男として、しかも王家にうまれながら、なぜあれほど権力に無関心でいられるのだ?」
「権力を手にする野心にとらわれるには、あれの心は自由すぎるのでしょう。時々、私はうらやましく思います。あれの権勢欲に曇らされぬまなざしを」
「というより、権力に付随する責任を背負うことを回避しているように見えるがな」
「それもファルヴァルトの一面でしょうね。ですが、いったい、どのくらいの人間が権力には責任がともなうことを理解しているのでしょう。おもての華やかな姿に目をくらまされて、裏の暗い一面をみずして、どれだけの人間が道をあやまったことでしょう。もしかして私よりも彼のほうが王としてふさわしいのかもしれません」
「だが、あれは王となるには修行不足だ。いままで楽をしすぎている」
レルドリックはその形のよい桜色の唇に笑みをのぼらせた。しかし、その黒耀石のようなつやのある瞳に浮かんでいるきつい光はやわらぎもしない。
「感謝すべきなのでしょうね。ファルヴァルトがもし本気で権力をのぞんでいたら、私の一番の競争相手になっていたはずですから」
ファルヴァルトは幼きころから兄より一歩も二歩も引き、王位にもまったく関心をもたないようにみえた。しかし、それはファルヴァルトが兄は王位にふさわしい人間であると認めていたからでしかない。もし、そうでなければ、彼もまた、違う生き方を選んでいたのだろう。
そのことをレルドリックは痛いほど知っていたから、弟を軽んじたことは一度もなかった。
とんとん。
扉をかるくノックして、ルーメリア人にはめずらしい赤毛をきっちりと結いあげた中年女性が、やや華奢な姿をあらわした。光沢があるとはいえ、地味な黒のびろうどのドレスを身につけ、その細い肩を焦茶色のショールでくるんでいる。
細いがしっかりとした首のうえの顔は優しげな繊細さに、年とともに刻んだこまかい皺が円熟味をあたえていた。これもまたルーメリア人にはめずらしいヘイゼルの瞳には理知的な光がやどっている。肌はしみひとつなく白磁のようにしろい。まさしく、異国の女性であった。
彼女が捧げもった盆には薬のはいった銀の器がのっていた。それを見て取って、王は露骨に顔をしかめた。
「まだ、お飲みにもなっていないのに、そんな苦い顔をなさらなくても」
彼女は片手で静かに扉を閉め、優美な曲線を描く眉をひそめると、あきれたようにいい、そのまま王のベッドに近づいてきた。
「そういうのならば、おまえも飲んでみればよいのだ。后よ。そいつはとてつもない味がするのだぞ」
ヘイゼルの瞳をいたずらぽっく輝かせながら、王妃ホーレナはすまして答えた。
「病人はわたくしではありませんわ、陛下。それにしても、いかな強敵を前にしてたじろくことのなかった勇将であらせられたお方が、たかだか煎じ薬ひとつに尻込みなさるのですか」
王は膝のうえに王妃が有無をいわせずにおいた、緑がかった泥状の液体をうさんくさげにみやった。そのあくどい匂いは鼻をついた。
「効きもしない薬で、私を苦しめないでくれ。どのみち長くはないのだ。それなのに、おまえときたら、妙にうれしそうではないか。ちっとは病人をいたわる心持ちはないのか」
「あたりまえですわ、陛下。このわたくしが積年の恨みをはらすこれほどの好機を見逃すと?」
「私がなにをしたというのだ」
王が情けなさそうにいうと、王妃はすかさず答えた。
「わたくしがなにも存ぜぬとお思いですの?」
王は大仰にため息をついてみせた。「おまえが女でよかった。もし、男であればさぞや冷酷無比にして謀略に長けた将となっていたことだろう。今頃はわがルーメリアはソーレアの手に落ちていたことだろうな」
しかし、王妃は王のそんな言葉にも惑わされず、断固としたまなざしをかえしただけだった。王は助けをもとめるように息子をみやった。
レルドリックは首を横にふり、肩をすくめた。
「ご同情はしますが、私は勝機のない戦いには臨まぬ主義ですので。それに、どのみち受けねばならぬ試練であれば、そうそうに白旗を掲げられたほうが、事態をこれ以上に悪化させないのでは?」
憮然とした表情で息子を軽くにらみながら王はつぶやいた。「人のことと思いおってから」
「なんとおっしゃられました?」
王妃が聞こえないふりをしてたずねる。
「臣下は叛乱をおこし、后は私にたてつき、息子は私を裏切る。世界ひろしといえど、こうまで不幸な王はざらにおるまい」
王妃は年季のはいったしたたかな微笑みをひらめかすと、王の愚痴にまったくとりあわなかった。
「さあさあ、いつまで、だたっ児みたいなことを仰っているのですか」
王は渋い顔をすると、しかたなく薬のはいった銀の器を口にはこび、一気に飲みほしたが、あまりの苦さにせきこみ、そばに添えられていたコップのなかの水で口中の苦さを洗いながした。
「あまいお菓子をお持ちしましょうか」
王妃がからかうようにいうと、王が憮然とした表情をかえした。
「私はそれほど子どもではないぞ」
「だと、いいんですけどね」
長年つれそった夫婦であるからこそ、交わせる軽口の応酬だった。