(3)嵐の前に
ほの暗い城内は、戦いを控えているというのにしんと静まりかえっていた。だが、それは嵐の前のぴりぴりした緊張をはらんだ静寂さにほかならなかった。
回廊のところどころに設置されたランプの光が照らし出すむきだしの寒々しい灰色の石壁が、彼らの足音をうつろに反響していた。
「この度の討伐隊、おまえに指揮を任せることになるぞ」
レルドリックは背後に適度の距離―――内緒話は聞こえぬが、いざ事のあったときにはすぐに駆けつけられる距離―――をあけて、つきしたがう護衛の兵に聞こえぬよう声を低めてささやいた。
もともと、ルーメリアは質実剛健を旨とする尚武の国であってみれば、王族といえど、城内では必要以上の随員を連れてあるく習慣はない。だが、今は非常時である。ましてや、王が弊れたいま、世継ぎの王太子の身になにかあってはならぬ。
それゆえ、かれの護衛には勇猛果敢の誉れたかいルーメリア王国騎士団のなかでも生え抜きのものが配されていた。
「なんで、俺が?」
ファルヴァルトはくいと片眉をあげ、心底イヤそうにささやき返した。
「おまえの気持ちはわからないわけではない。ルジェンと我らはよき友人であったのだからな。だが、考えてみるがよい。それは兵たちも同じなのだ。肩をならべて戦い、ともに死線をくぐりぬけてきた相手と今度は刃を交わさねばならぬ。士気をさげぬためには、かれらの護るべき国の象徴とでもいえる存在が必要だ。王家の血筋を引くものこそが、一番の適任となろう。わたしが出れればよいのだが、父上があの様子ではな」
「ずいぶん頼りない象徴に思えるけどな」
ファルヴァルトは片頬を人差し指でぽりぽりとかきながら、とぼけたふうに応じた。
兄、レルドリック王子にくらべ、弟のほうの評判はそれほど芳しいものではなかった。風采も剣技も勉学においても、彼は兄に一歩も二歩も遅れをとっていた。そのうえ、それをまったく気にかけるふうのない彼は甘やかされた呑気で気楽な次男坊として通っていたし、本人も十分に自覚していた。
戦いの指揮官としていただくにはあまりに頼りない存在といえるだろう。
レルドリックは持ちまえの射るような厳しい眼差しを弟にむけた。
「お前が人に思わせているほど無能ではないことは、私が一番よく知っている。いつまで気楽な第二王子の身分に甘んじているつもりだ? たまには表舞台に出てみてはどうなのだ」揶揄するようではなく、むしろ挑むような口調だった。
「そいつは買いかぶりというものだよ」
彼はあきらめたようにつぶやくと、早々に話題を変える。
「ノエルも言っていたが、俺にもどうしても信じられん。なんだって、ルジェンは反乱の兵を起こす必要があるんだ? そんなことをしなくとも、ノエルを兄上に嫁がせば、名実ともにもっとも有力な貴族としての発言権をにぎることができるじゃないか。それに、大体、ルジェンは王座をねらう野心にとりつかれるようなタイプの男じゃない」
「私もそう思うよ、ファル。どうしてもその点だけは腑に落ちぬ。しかも、妹がこの城に滞在しているというのに、兵を起こすとはね。妹を人質としてつかわれることも辞さぬ構えなのか。目的のためには手段を選ばず、か。それほど冷酷になれる男ではなかったはずだ。いったい、なにが奴を変えたのだ」
「女かな? ノエルがいっていたんだが、ルジェンは氏素姓のしれないどこか異国の女を妻に迎えるつもりでいたらしい。他国の間諜かなにか、だったとか」
ファルヴァルトは軽い気持ちでいったが、その兄は深刻そうに考えこんだ。目をなかば閉じ、猛々しい光を帯びた瞳がかくれると、かれの少女めいたあでやかな面ざしがきわだった。
数瞬後、レルドリックは目をあげると答えた。
「いや、それはなかろう。クラディアは大国だが、大国ゆえに疲弊し、他国とことを構える余裕はないはずだ。カレンダ公国にいたっては王位をめぐっての内戦中。とてもよその国に構っていられる状態じゃない。ソーレア国とは長い間、国境をめぐって揉めてきたが、それも父がソーレアの王女を迎えるまでの話。いまさら、戦いをしかけてくる気はあるまい。ただ、気になるのは出兵のタイミングがあまりによすぎることだ」
「父上が弊れられたことか」
「そうだ。必然的にこちらの士気もさがる。それになんといっても我々は正妃とはいえ、異国の姫の息子であり、半分は異邦人だ。その支配を快くおもわぬ輩もいる。ひるがえって、ライエル伯爵ルジェンは生粋のルーメリア人であり、祖母に王家の姫をもつ。王位継承権を主張してもおかしくはないだろう」
ルーメリアの王が国外から王妃を娶ったことは、この国の開闢以来のことであった。
それまでは王は代々、国内の貴族たちの娘をめとり、王家の姫はたいてい貴族たちのもとに降嫁したので、いまでは王家と姻戚関係のない貴族のほうがごくめずらしい。
そのため現王の婚姻が、国内の貴族たちの反感をかったことは周知の事実でもあった。
「そんなこと言ったら、国内の貴族の大半はそうじゃないか」
ルーメリアは民族としての歴史は長いが、国としての歴史は浅い。たかだか百年ほどである。もともと小さな国とでもいうべき都市国家にわかたれ、たがいに領土拡大をねらってたえまなく戦いをつづけていた。俗にルーメリアの暗黒時代といわれる。親子が殺し合い、兄弟があいあらそい、娘は政略の道具としてつかわれ、度重なる戦いに民が疲弊していった戦乱の時代でもあった。
だが、北にひかえる大国クラディアの脅威によって、事態は推移した。
クラディアの侵攻を阻むために都市国家間では盟約が交わされ、盟約を結ぶにあたってもっとも功のあったワーゼン公ファノルが盟主として選出された。
かれはまた総指揮官として連合軍の指揮をとり、クラディアとの幾度かの戦いに勝利をもたらした。都市国家間の結束はかたまり、やがて彼は王位につきルーメリア王家の祖となった。
各地の都市国家の領主たちには貴族の称号が与えられたが、もともとが小国の王と言っていい存在であったので、ルーメリアにおける貴族の実権は他国におけるよりもはるかに強く、王権に無条件に平伏しているわけではない。
「そうだ。だから、もし、ルジェンがわれらの王権をくつがえして王座についたとしても、次なる内乱が起こることは必定。国は瓦解し、ふたたび、血で血をあらう暗黒の時代に逆もどりすることになろう。それゆえ、早急にルジェンを討ち、この内乱を鎮める必要がある。ただでさえ、われわれは内部に火種を抱えているのだ」
だが、神ならぬ身ゆえ知るすべもなかったが、ファルヴァルトはこのときノエルが語った女のことをもっと深刻に受けとめるべきだったのだ。